―愛されている人、その幸せは川のように― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「『…わたしに聞け。ヤコブよ。わたしが呼び出したイスラエルよ。わたしがそれだ。わたしは初めであり、また、終わりである。まことに、わたしの手が地の基を定め、わたしの右の手が天を引き延ばした。わたしがそれらに呼びかけると、それらはこぞって立ち上がる。あなたがた、みな集まって聞け。だれがこれらの事を告げたのか。主に愛される者が、主の喜ばれる事をバビロンにしむける。主の御腕はカルデヤ人に向かう。わたしが、このわたしが語り、そして彼を呼んだのだ。わたしは彼を来させ、彼の行なうことを成功させる。わたしに近づいて、これを聞け。わたしは初めから、隠れた所で語らなかった。それが起こった時から、わたしはそこにいた。』今、神である主は私を、その御霊とともに遣わされた。あなたを贖う主、イスラエルの聖なる方はこう仰せられる。『わたしは、あなたの神、主である。わたしは、あなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く。あなたがわたしの命令に耳を傾けさえすれば、あなたのしあわせは川のように、あなたの正義は海の波のようになるであろうに。あなたの子孫は砂のように、あなたの身から出る者は、真砂のようになるであろうに。その名はわたしの前から断たれることも、滅ぼされることもないであろうに。』バビロンから出よ。カルデヤからのがれよ。喜びの歌声をあげて、これを告げ知らせよ。地の果てにまで響き渡らせよ。『主が、そのしもべヤコブを贖われた』と言え。主がかわいた地を通らせたときも、彼らは渇かなかった。主は彼らのために岩から水を流れ出させ、岩を裂いて水をほとばしり出させた。『悪者どもには平安がない』と主は仰せられる。」

イザヤ書48章12-22節

 

人はいろんな形で愛を表現しますと言いますか、語りますが、その真価が問われるのは、いざその人が苦難に陥った時にどう行動するかにかかります。結婚式の誓約の中で「新郎〇〇、あなたはここにいる〇〇を、病める時も健やかなる時も、富める時も貧しき時も、妻として愛し 敬い 慈しむ事を誓いますか?」というものがありますね(表現はまちまちですが)。まさにこういうところで本質が見えてくるわけです。もちろん人間ですからそんな完璧な愛など持ち合わせていません。しかし神様はそれでも、の神様なのです。私たちが神様から離れ、好き勝手に歩んでいた時、まず私たちへの愛を御子イエス様の十字架によって完全に現され、あなたを救うことを選ばれたのです。命をかけた愛、この愛が今日もあなたに注がれている、私たちはこの神様のくださった究極の愛にどれだけ信頼しているでしょうか。

 

さて、↑は古代イスラエルのバビロン捕囚期~捕囚後について神様がイザヤを通して預言された続きです。ここまで神様はイスラエルを見捨てられず、捕囚中も守り、ついにはバビロン捕囚からの解放のために、メド・ペルシャの王クロスをたて、イスラエルを、そして彼らに捕らえられていた諸国をも救い出すことを約束されました。そして救って終わりではなく、母の胎内にいる時から形づくられ、導かれている神様が、今日も明日も、それこそ白髪になっても、死して後に至るまで背負い導いて下さる事、本来特別な者だった、その姿を回復させる事、新しいこと、秘められた神様のご計画が現わされていくことを見ました。

 

神様はなおイザヤを通して「わたしに聞け。ヤコブよ。わたしが呼び出したイスラエルよ。わたしがそれだ。わたしは初めであり、また、終わりである。まことに、わたしの手が地の基を定め、わたしの右の手が天を引き延ばした。わたしがそれらに呼びかけると、それらはこぞって立ち上がる」語られます。

 

今(40章以降)イザヤが神様から語られていることは、イザヤ、またイスラエルの民から見ると未来におこることについての預言になります。北イスラエルが捕囚され、南ユダがアッシリヤの脅威にさらされた後、ヒゼキヤを通して神様は南ユダを救い出されましたが、一方で彼の犯した罪によってバビロンが彼らをやがて捕囚すると預言され同時に解放も語られますが、それでもイスラエルの民は神様から離れ、好き勝手に歩む、果ては何とかイスラエルの民を救おうとされる神様の言葉を語るイザヤを気にくわないヒゼキヤ王の次のマナセ王は、彼を殺害するのです。そのようなどうしようもない彼ら、それでも神様は何とか救おうとされる、保証されている、その神様が今、彼らを呼び出した神様なんだ、と仰られるのです。

 

 この「呼び出す」神様が仰られているのは、何かで突然呼び出され、駆り出される、何かをするように命じる、というものではなく、 神様ご自身の恵みの内に招かれているのです。教会、という言葉の中にもそうした意味合いがある、そういう意味では教会はただの建物というわけではなく神様の恵みの内に招かれたその関係ともいえるかもしれませんね。もっと面白いのが、「慰められる」という言葉が、実はこの「側に呼びだす」という言葉と同じ言葉で書かれているんですよね、もともとは。神様が、そういう意味では何度も何度も、イスラエルの民が捕囚に会う前に語り続けたのは、まさに、ご自身の御側に呼び出して、まさに慰めを注ぐために語られる、たとえ捕囚中であろうとも、神様ご自身が側におられ、慰めてくださる、そのことをまさに今、語られているのです。

 

イスラエルの民の堕落、捕囚期までの経緯を考えても神様からすれば、彼らを捨てても何のいわれもない状況、しかし神様は彼らを愛しておられるからこそ、まずご自身の内に招かれ、その愛を注がれた、それは私たちに対しても同じです。私たちが母の胎内にいる時から形づくられた神様は、命を与えてはい、終わり、という神様ではない、↑で神様ご自身が、「わたしは初めであり、また、終わりである」語られているように、初めではあるけど、途中であるとは仰っていない。神様は最後の最後まであなたを諦めない神様なのです。聖書の時代から神様がなさっていたように、今もその愛を注がれているのです。

 

ある方はもう聖書の時代は終わったとか、聖霊様の働きは終わったと言いますが、それならどうして私たちは生きることができるでしょう。慰め主なる聖霊様(側に呼びだされた)に満たされなさい、と語られている神様がどうして今、その働きを終えることがあるでしょう。むしろ私たちが本当の恵みに、救いに帰ることを願われ今も神様は呼びかけられているのです。終わりの時だけではない、遅すぎる前に命を、救いを得よ、と。

 

神様「まことに、わたしの手が地の基を定め、わたしの右の手が天を引き延ばした」仰られていますが、まさに神様がこの天地万物を造られた、その神様があなたのうちにも問いを定め、またあなたの命を、あなた自身を引き延ばされるのです。そしてあなたの内に、あなたの側にその慰めを、御業を呼び出される、成し遂げてくださるのです。

 

神様は、「あなたがた、みな集まって聞け。だれがこれらの事を告げたのか。主に愛される者が、主の喜ばれる事をバビロンにしむける。主の御腕はカルデヤ人に向かう。わたしが、このわたしが語り、そして彼を呼んだのだ。わたしは彼を来させ、彼の行なうことを成功させる。わたしに近づいて、これを聞け。わたしは初めから、隠れた所で語らなかった。それが起こった時から、わたしはそこにいた」告げられますが、あなたは「愛される者」なのです。今イスラエルが問題行動に走っている時に神様は彼らに「主に愛される者」と仰られるのです。少し前の章で「神様の目にはあなたは高価で尊い。神様はあなたを愛している」と宣言された箇所を分かち合いましたが、神様はまさに愛され、その愛をあなたの内に現して下さるのです。その御手を伸ばされるのです。私たちが神様は隠れて何もしない、と思う中にあっても実はその愛を現して下さっているのです。それはたとえ未来であっても、何とかあなたをご自身の内に、側に、慰めの内に招こうと今日も語られているのです。私たちはあなたの側にいてくださる聖霊様の声をどれだけ聴き、いや聴こうとしているだろうか、信頼しているでしょうか。

 

私たちは一人ではありません。まだ見ぬ未来、不安な時代にあっても確かに言えるのは、「神である主は私(イザヤ)を、その御霊とともに遣わされた」神様が、あなたの遣わされるところ、あなたのいるところどこにおいても御霊様を遣わされ、側におられ、あなたの内にご自身の御心を成し遂げてくださるということです。「わたしは、あなたの神、主である。わたしは、あなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く。あなたがわたしの命令に耳を傾けさえすれば、あなたのしあわせは川のように、あなたの正義は海の波のようになるであろうに。あなたの子孫は砂のように、あなたの身から出る者は、真砂のようになるであろうに。その名はわたしの前から断たれることも、滅ぼされることもないであろうに」と語られるように、あなたの主、神様となってその道を益となるよう神様ご自身が整え、また導かれる、その幸せが川のように溢れ流れるようにしてくださるのです。

 

そして何より、「あなたの子孫は砂のように、あなたの身から出る者は、真砂のようになるであろうに。その名はわたしの前から断たれることも、滅ぼされることもないであろうに」という約束を神様は私たちにも実現してくださったのです。う、神様は私たちに御子イエス様を与えてくださったのです。イスラエルの民のように、神様から離れ、好き勝手に生き、神様を神様とも思わず歩むような私たちを、それでも神様は見捨てず、むしろ私たちの痛みも、悲しみも、思い煩いも、何より罪も一切身代わりに御子イエス様に背負わせ、十字架にかけられ、死なせたのです。

 

しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、死は死で終わらず、私たちは新しいものとされたのです。このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪は赦され、神様の子とされるのです。イエス様の氏から復活、その身から出るあなたは、もはや神様から立たれることも、滅ぼされることもない、むしろイエス様の十字架によって結ばれた関係によって、滅びではなく、永遠の恵みの内に私たちは招かれたのです。

 

もう私たちは、古い私たち、罪の内から出ましょう。↑で「バビロンから出よ。カルデヤからのがれよ。喜びの歌声をあげて、これを告げ知らせよ。地の果てにまで響き渡らせよ。『主が、そのしもべヤコブを贖われた』と言え。主がかわいた地を通らせたときも、彼らは渇かなかった。主は彼らのために岩から水を流れ出させ、岩を裂いて水をほとばしり出させた。『悪者どもには平安がない』と主は仰せられる」と語られているように、神様があなたをご自身の御側に連れ出してくださったのだから。悪者には平安がない、神様が全てを変えてくださる、かつてイスラエルの民が荒野で渇くことなく導かれ、水のないところでは岩から水をほとばしりだしてくださった神様が、あなたの失われた命を回復させてくださるのです。何より神様が連れだしてくださった、死から命へ、新しい命へ引き上げてくださった、このいのちを神様から離れず歩みたいものです。神様の平安が、慰めが、さらに溢れ広がることを祈りつつ。

 

「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです」今日、このイエス様の慰め、平安があなたの内にありますように。