―あなたの知らない秘め事を知らせる― | 子育て休職中牧師の聖書のおはなし

子育て休職中牧師の聖書のおはなし

東京で牧師をしておりましたが、子育てのため一時的に北海道に移住しました。
「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と語られた神様からのラブレター・聖書から少しずつ分かち合わせていただきますね(*^_^*)

「これを聞け。ヤコブの家よ。あなたはイスラエルの名で呼ばれ、ユダの源から出て、主の御名によって誓い、イスラエルの神を呼び求めるが、誠実をもってせず、また正義をもってしない。確かに彼らは聖なる都の名を名のり、イスラエルの神―その名は万軍の主―に寄りかかっている。『先に起こった事は、前からわたしが告げていた。それらはわたしの口から出、わたしはそれらを聞かせた。にわかに、わたしは行ない、それは成就した。あなたがかたくなであり、首筋は鉄の腱、額は青銅だと知っているので、わたしは、かねてからあなたに告げ、まだ起こらないうちに、聞かせたのだ。【私の偶像がこれをした】とか、【私の彫像や鋳た像がこれを命じた】とかあなたが言わないためだ。あなたは聞いた。さあ、これらすべてを見よ。あなたがたは告げ知らせないのか。わたしは今から、新しい事、あなたの知らない秘め事をあなたに聞かせよう。それは今、創造された。ずっと前からではない。きょうまで、あなたはこれを聞いたこともない。【ああ、私は知っていた】とあなたが言わないためだ。あなたは聞いたこともなく、知っていたこともない。ずっと前から、あなたの耳は開かれていなかった。わたしは、あなたがきっと裏切ること、母の胎内にいる時からそむく者と呼ばれていることを、知っていたからだ。わたしは、わたしの名のために、怒りを遅らせ、わたしの栄誉のために、これを押さえて、あなたを断ち滅ぼさなかった。見よ。わたしはあなたを練ったが、銀の場合とは違う。わたしは悩みの炉であなたを試みた。わたしのため、わたしのために、わたしはこれを行なう。どうしてわたしの名が汚されてよかろうか。わたしはわたしの栄光を他の者には与えない。…』」

イザヤ書48章1-11節

 

何かを作ろうとする時、行き当たりばったりではなく、完成図を思い描きながらするでしょう。最高傑作に仕上がるように時間と労力、自身の思いを込めて作る事でしょう。神様は、私たちを母の胎内で形作られて、生まれて、はい終わり、ではなく日々私たちに恵みを注ごうと日々お心を向けて下さっています。私たちは神様が今日という日を、明日も、またこれからも恵みを注いで下さる事に大いに期待し、歩みたいものです。

 

さて、↑は古代イスラエルのバビロン捕囚期~捕囚後について神様がイザヤを通して預言された続きです。ここまで神様はイスラエルを見捨てられず、捕囚中も守り、ついにはバビロン捕囚からの解放のために、メド・ペルシャの王クロスをたて、イスラエルを、そして彼らに捕らえられていた諸国をも救い出すことを約束されました。そして救って終わりではなく、母の胎内にいる時から形づくられ、導かれている神様が、今日も明日も、それこそ白髪になっても、死して後に至るまで背負い導いて下さる事、本来特別な者だった、その姿を回復させる事を約束された事などを見てきました。

 

↑では今度はイスラエルの民に、神様はイザヤを通して「これを聞け。ヤコブの家よ。あなたはイスラエルの名で呼ばれ、ユダの源から出て、主の御名によって誓い、イスラエルの神を呼び求めるが、誠実をもってせず、また正義をもってしない。確かに彼らは聖なる都の名を名のり、イスラエルの神-その名は万軍の主-に寄りかかっている」語られます。

 

47章ではバビロンが自分たちは特別だから自分たちが滅びる事はなくいつまでも続くだろうと考えていた事を見ましたね。こで神様はイスラエルの民も同じではないか、と仰らるのです。他人事ではない、あなたがただってそうじゃないか、と。そもそもイスラエルは全世界への神様の祝福の基として選ばれた民族です。ある意味では特別な者として選ばれていた、その彼らイスラエル(神様と戦うという意味、もう少しいうなら神様ご自身が共に戦われる、導かれる。その御前に私たちが遜る)さらに祝福の基、選ばれた神様を押しのけている場合ではありません

 

それこそここで神様が仰られているように、私こそ正義なんだ、なんて言っている場合ではない、神様の正義がそこに現される時、そこに命が溢れ広がる、本来のイスラエルの役割である、神様の祝福が全世界に広がる、その基となるのです。私たちは私たちの我を通せば確かに自分の望む状況に多少持っていく事はできても、それはその人のできる範囲が限界、そこに創りだせるものになど限りがあります。本当の正義、神様に「寄りかかる時」、確かに神様の義、栄光・神様のすばらしさが現わされるのです。

 

神様は何もされない、遅い、とある人は仰るかもしれません。しかし、神様はイザヤを通して「先に起こった事は、前からわたしが告げていた。それらはわたしの口から出、わたしはそれらを聞かせた。にわかに、わたしは行ない、それは成就した」仰られるように、行動される神様です。その義を現される神様であり、それが遅れる事はありません。私たちはどうしても、先に挙げたヤコブという名前の通り、神様と押し合いへし合い、主導権を神様から取ろうとします。これは譲れない、神様は私のことをわかっていない、とまさに神様が「あなたがかたくなであり、首筋は鉄の腱、額は青銅だと知っているので、わたしは、かねてからあなたに告げ、まだ起こらないうちに、聞かせたのだ。『私の偶像がこれをした』とか、『私の彫像や鋳た像がこれを命じた』とかあなたが言わないためだ」仰られていますが、私たちが強情に譲らず、偶像、と言わずとも自分のこれこれによって成功したんだ、と言って神様を認めない。これについては私も若いころのことを思い出すと耳の痛い話です。

 

ただ、考えてみれば私たちは神様にあって生かされているんですよね。神様が、私たちの内に語り、神様がご自身の計画を私たちの内に現して下さる、神様がご自身の御心を成し遂げてくださるのです。神様はその御口をもって語られるのです。でも、私たちが頑なになって神様を退けたところで何になるでしょう。私たちは神様の口から出る一つ一つのことば、また一つ一つの愛、恵みによって生きるのです。神様の愛が、その霊が注がれるからこそ、本当の意味で私たちは生きたものとなるのです。私たちは今日、神様がなさろうとされている義、正義にどれだけ信頼している、期待しているでしょうか。神様がそれをなして下さる、あなたではない、頑なな私たちをあるべき私たちへと導くため。この神様に私たちは立ち返りたいものです。この世の義、正義ではなく、あなたへの愛を貫く神様のご計画に信頼し。

 

そう、神様は私たちへの御思い、愛を、ご計画をつ塗らぬ彼、成し遂げてくださります。神様はなお「あなたは聞いた。さあ、これらすべてを見よ。あなたがたは告げ知らせないのか。わたしは今から、新しい事、あなたの知らない秘め事をあなたに聞かせよう。それは今、創造された。ずっと前からではない。きょうまで、あなたはこれを聞いたこともない。『ああ、私は知っていた』とあなたが言わないためだ」語られていますが、新しい事をする、聞かせる、創造された、というと、今急に思いついてそう仰られているのかと思いきや、そういうわけではありません。

 

人が想像するところ、現実で見ることからしたら新しいことに見えるかもしれません。しかし神様は世から見たら信じられないことをなされるのです。彼らが、あなたが罪を犯し、悪いことをしたからやっぱり秘めたままにしようとされるのではなく、神様のご自身の御力を、愛を現すことによって、私たちを新しく開けてくださるのです。神様をさんざん蔑み好き勝手に歩んできたイスラエルの民をどうして救おうだなんて考えられます?確かに世の視点で考えればそうかもしれません。しかし神様の視点は、そうして私たちが様々なものに飲み込まれ死にゆく、滅びゆくことではなく、彼らが、私たちが生きることにあるのです。神様にあって新しい創造、新しい秘め事、ご計画をあなたの内に現して下さるのです。

 

そう、↑の前半のまさに正義ですよ。普通に考えれば、罪を犯した者は裁きを本来受けなければいけないはずです。それがある意味では義です。しかし、神様は義であり、同時に愛でもあられるので、そのまま彼らが滅びゆくこと、私たちが罪に死にゆくことなど神様にとっては我慢ならない話だったのです。周りからすれば、そんな彼らを救う価値などどこにあるのか、と言われるようなことなのかもしれません。しかし、神様は私たちの知らなかった愛を私たちの内に現して下さったのです。世の知恵、私たちの知識を超えた神様の愛がこのイエス様の内に。

 

私たちは一体神様をどれだけ知っているというのでしょう。神様「あなたは聞いたこともなく、知っていたこともない。ずっと前から、あなたの耳は開かれていなかった。わたしは、あなたがきっと裏切ること、母の胎内にいる時からそむく者と呼ばれていることを、知っていたからだ。わたしは、わたしの名のために、怒りを遅らせ、わたしの栄誉のために、これを押さえて、あなたを断ち滅ぼさなかった」語られています。

 

まさに私たちはこの世界の全てを知っているわけでもない、私たちの周辺のことでさえすべてを知りえているわけではありません。他の人の事、今何が起こっているのかさえ。しかし神様はこの天地万物を造られる前からおられすべ治めてくださってきた、その神様がどれだけ忍耐深く待ってくださっていたことでしょう。あなたが生まれる前、母の胎内から形づくられた神様は、生まれた後、神様から離れていくことを見ながら、見捨てるのではなくそれでもあなたを愛することを選ばれたのです。たち滅ぼすのではなく、それでもあなたを練り上げ、新しいものと御子イエス様の命にあってなされたのです。その愛が今日も続いている、イエス様の似姿に日々似せていただいているのです。

 

イエス様は人となって生まれてこられた時に、「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。…まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません」仰られました。

 

はっきりとイエス様は、新しく生まれなければ神の国を見ることができませんと語られました。しかしそれで突き放すのではなくむしろ、私たちに神様の正義、神様が完全なご統治をなされる神の国に招くために、神様はむしろ私たちを新しく生まれ変わらせるため、私たちの古い罪の代価一切を御子イエス様に身代わりに背負わせ、十字架にかけられ、死なせたのです。しかし3日目によみがえらせて下さった事によって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子として下さったのです。

 

あなたは今日、イエス様の十字架という悩みの炉、苦しみの炉を通して新しくされ日々練り上げられている、神様のご栄光を現す器として、あなたの内に神様の愛を輝かせてくださるのです。このイエス様にある新しい創造、古い世に傷つき倒れた私たちを聖め、御霊様によって今日も導かれているのです。イエス様の十字架で流された血潮によって、私たちは練られ、そこに御霊様が注がれ今日あなたを神様にある最高の作品、高価で尊い存在として下さるのです。私たちは神様が知っておられる、神様がイエス様にあってあなたの内に計画しておられる最高の御心がなることを期待し、祈るものでありたいです。私たちが知っている、と勝手に思って限界を定めるのではなく、神様がイエス様にあって知らせて下さった十字架の愛を通した神様の御業がさらに溢れ広がり、さらに神様の正義、義によってあなたの周りもまた生きたものとなる事を、新しくされる事を祈り続けようではありませんか。