―まさか一日にして― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「『おとめバビロンの娘よ。下って、ちりの上にすわれ。カルデヤ人の娘よ。王座のない地にすわれ。もうあなたは、優しい上品な女と呼ばれないからだ。ひき臼を取って粉をひけ。顔おおいを取り去り、すそをまくって、すねを出し、川を渡れ。あなたの裸は現われ、あなたの恥もあらわになる。わたしは復讐をする。だれひとり容赦しない。』私たちを贖う方、その名は万軍の主、イスラエルの聖なる方。『カルデヤ人の娘よ。黙ってすわり、やみに入れ。あなたはもう、王国の女王と呼ばれることはないからだ。わたしは、わたしの民を怒って、わたしのゆずりの民を汚し、彼らをあなたの手に渡したが、あなたは彼らをあわれまず、老人にも、ひどく重いくびきを負わせた。あなたは【いつまでも、私は女王でいよう】と考えて、これらのことを心に留めず、自分の終わりのことを思ってもみなかった。…』」

イザヤ書47章1-7節

 

三日天下、と言えば明智光秀でしょうか。織田信長を本能寺で討ったのに、あっという間に秀吉にうってかわられた。その前の信長も、それまでの彼の持っていたものは光秀によってあっさりと崩されてしまった。人はどれだけ優れたものをなしたとしてもあっという間にそれは崩れ去る日が来る、それは近年を見ても流行りものがあっという間に入れ替わるのと同じです。私たちは神様から良いもので満たされ、またこの命をいただきました。神様が私たちを支えてくださり導いて下さっているのです。私たちはこの神様の築かれるいのちのうちを、全て委ね、歩みたいものです。神様があなたの命を今日も建て上げてくださっているのだから。

 

さて、↑は古代イスラエルのバビロン捕囚期~捕囚後について神様がイザヤを通して預言された続きになりますが、ここまで神様はイスラエルを見捨てられず、捕囚中も守り、ついにはバビロン捕囚からの解放のために、メド・ペルシャの王クロスをたて、イスラエルを、そして彼らに捕らえられていた諸国をも救い出すことを約束されました。そして救って終わりではなく、母の胎内にいる時から形づくられ、導かれている神様が、今日も明日も、それこそ白髪になっても、死して後に至るまで背負い導いて下さる事を↑の前までで見ました。

 

なお神様はイザヤを通して「おとめバビロンの娘よ。下って、ちりの上にすわれ。カルデヤ人の娘よ。王座のない地にすわれ。もうあなたは、優しい上品な女と呼ばれないからだ」語られます。おとめ、と言われていますが、ようするに攻め込まれたことがなかった、たいていの国は、次第に衰えて、外国の侵略を受け、そして破壊されていくのですが、バビロンは拡張しつづけその大きくなった、その時に、突如としてクロスによって襲われました。その様子を神様は語られるのでした。

 

ちなみに優しい上品な女、と評されたこのバビロンの町全体はおおよそ8.5㎢、高さ90m、厚さ24mの城壁は、一辺が24㎞あり、その周囲が96㎞もありました。また、城壁には100の門と250の見張り塔が備えられていたそうです。また、世界の七不思議のひとつである空中庭園もあったようです。このような城壁を崩せる者など誰も当時はなく、バビロンはまさに難攻不落の都市、逆にそれに胡坐をかいていた結果、高慢となっていた結果、最終的にメド・ペルシャに陥落されることとなるのですが。参考までにイメージ画像を残しておきます。

 

 

アッシリヤを討つために確かにバビロンは用いられました。そしてイスラエルの民を捕囚した中で預言者や、イスラエル人の宦官を通して神様はネブカデネザルにもご自身のすばらしさを現し、その軌跡を目撃させ、彼自身も他に神はない、と宣言していた、それにもかかわらず、彼の本質は変わらず、その名の通り自らを神の子と宣言し、自分の像を造り、拝ませ、それに従わないものを火の燃える炉(近づくだけで燃えて死んでしまうほど熱せられていた)に投げ込むなんて無茶な法律を発布するほどになっていくのです。そしてついには獣のようになってしまい、王位を失うのでした。

 

バビロン捕囚など、その強さは世をとどろかせるものがあった、それは一瞬にして崩れ去る、神様は恵みを注いで、彼が神様を知り、恵みに生きる機会を示されていた、本当の意味で「優しい上品な女」、神様の家族として、その恵みに生きられるはずが、その姿を失うのです。そして彼の息子、ベルシャツァルも同じように父の権威、虎の威を借る狐ではありませんが、それを誇り、さも自分の神の子、神なんだ、と言わんばかりに誇り、ついには彼も命を失います。その時、まさにバビロン陥落の時に、彼はその命を失うこととなるのでした。

 

そう、↑で神様「下って、ちりの上にすわれ」仰られていますが、王も含め、この時バビロンは完全に「優しい上品な女」という表現を失った状態、ちりの上に座るような状態にまで堕とされるのでした。ちりの上にすわるというのは、しばしば嘆きを表わす時に使われる表現なのですが、彼らの誇り高ぶった思いは完全に嘆きと変えられたのです。

 

さらに神様「ひき臼を取って粉をひけ。顔おおいを取り去り、すそをまくって、すねを出し、川を渡れ。あなたの裸は現れ、あなたの恥もあらわになる」語られる、預言されます。さらにこれまで権威、支配者であった彼らが奴隷としての非常に苦難を伴う仕事をすることとなるのです。さらに自由を失い、川を渡る事となる、と。

 

少し説明が長くなりましたが、考えてみますとこの預言を語られているのはまだバビロン帝国が勢力を伸ばし始めたばかりの頃ですし、イスラエルも捕囚される前の段階です。ただ一方で、このイザヤ書39章で分かち合わせていただきましたヒゼキヤの罪によって、バビロンにイスラエルの民が捕囚されていく事を見ましたが、そのバビロンを神様は放っておかないということをここでイザヤを通して約束されているのです。

 

このバビロンへ語られている姿は同時にかつてのイスラエルのようにも見えます。神様によって完璧に本来守られ、上品で美しい、神様の栄光で守られていたはずだったのです。しかし、彼らは高ぶりやがてまさに捕囚によってちりに座るような状況、奴隷として石臼を引くような苦しみのような状態になる、川を渡らされ、知らない地にとらえ移される。しかし、そのバビロンを神様が討たれ、「わたしは復讐をする。だれひとり容赦しない」と宣言されている通り、まさにこの状況が逆転され、イスラエルは再び川を渡って帰る事が出来たのです。神様が建てられ、守られた国、そこから移され帰ってくる、まさに神様の恵みの内に彼らはもう一度「帰っておいで」と招かれたのでした。

 

それはイザヤの時代から見たらずっと先の事です。この後イスラエルは様々な苦難に直面する時代を迎えます。しかし神様はバビロンを一夜にしてひっくり返したように、イスラエルの民を、私たちの苦難も一瞬にしてひっくり返すことのできる方です。

 

思い返してみますと、イスラエルの民はエジプトの奴隷として約400年にわたって捕らえられていましたが、神様は驚くべき御業をもってエジプトを裁き、そして1夜にしてエジプト中の長子を討ち、出エジプトを果たさせてくださりましたね。実は神様はこの裁きの間、何度もエジプト人の間にご自身を現され、神様の恵みに招こうとされていた、そしてその中には神様を求める人たち出てきていた、しかしファラオたちは拒否し、多くのエジプト人たちは討たれる形となりました。そして40年の荒野の苦難の時も、まさにヨルダン川というこれまでの苦難から移され、神様の約束の地に入れられました。神様が用意された、神様の恵みが、乳の蜜が流れる地に招き入れてくださったのです。

 

そこには、約束の地につく前の39年前、イスラエルの問題もありましたが、辛苦をなめさせられていたエリコの町がありました。彼らはバビロンのように城壁に囲まれ守られていたのです。しかし、周りの周辺諸国さえ堕とせないその城壁を神様は一瞬にして崩されたのです。7日間この城壁周りをまわった、7日目、7周まわってときの声を上げた時、神様はその要塞、城壁を崩されたのです(常識的に考えれば、城壁周辺を回って、時の声を上げただけで崩れることはないことは分かるでしょう。神様が、これを崩し、開門してくださったのです)そして、実はここにある意味でとらえられ、苦しめられていた人たちもこの時、後のクロス王によるイスラエル解放のように、救い出されたのでした。

 

ここまでイスラエルや周辺諸国の様々な例を挙げさせていただきましたが、気づきましたでしょうか。確かに神様は復讐をされる、同時にエジプトにしても、約束の地エリコにしても、バビロンに対してさえ、彼らに恵みの、救いの機会を与えてくださっていたことに。彼らはいずれも神様を知らずにある意味で暗闇に捕らえられていたのです。しかしある意味で思い悩み、苦しみ、罪、サタンに囲まれてしまっているそこから取り出そうとされた、川を渡り、神様の恵みのもとに、いのちのもとに招かれているのです。神様は戦われる神様。私たちを苦しめる様々な問題、罪、サタンと戦われるのです。そして私たちをこの神様の勝利の内に招こうとその御手を伸ばされているのです。

 

神様は↑で「私たちを贖う方、その名は万軍の主、イスラエルの聖なる方。『カルデヤ人の娘よ。黙ってすわり、やみに入れ。あなたはもう、王国の女王と呼ばれることはないからだ。わたしは、わたしの民を怒って、わたしのゆずりの民を汚し、彼らをあなたの手に渡したが、あなたは彼らをあわれまず、老人にも、ひどく重いくびきを負わせた。…』」語られていますね。

 

そう、神様から離れ、罪の内に生きていた私たちを神様は贖われる(買い戻されるということ)方なのです。私たちがそのような状況に捕らえられていることを良しとはできない。だから今あらかじめイザヤを通して語られているように、立ち帰るように訴えているのです。もう、闇の中に戻ってはいけない、入ってはいけない、彼らの王、住民になってはいけない、と。むしろ神様のおとめと言いますか、神様の家族としてあなたを取り戻したい、神様の子としてあなたをもう一度招き入れたいのです。あなたの裸に、罪の衣を脱がし、神様の衣、義の衣を着せたい、神様の愛であなたを覆いたいのです。

 

そのため、あなたを閉じ込める様々な問題、痛み、悩み、何よりあなたを捕える罪、死から取り出すため、もう一度移し、連れ戻すため、神様は御子イエス様の命をもって私たちの罪の代価を支払わせるべく、私たちの身代わりにイエス様を十字架にかけ、死なせたのです。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、この断絶されたところに橋を架け、私たちを陰府から引き上げてくださり、罪の奴隷から神様の子としてもう一度回復させてくださるのです、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人を。

 

神様は御子イエス様の命を持ってまであなたのために戦われたのです。そして勝利を治められたのです。このイエス様の十字架によって私たちは一瞬にして新しくされる、イエス様が全ての代価を支払ってくださったから。このイエス様の命に勝るものが、愛がどこにあるでしょう。命の川をイエス様の命をもって渡らせてくださった。これまでの古いところから神様の命のうち、恵みの内に今日移してくださるのです。古いところに留まるも、神様のもとに立ち返るも、最後はあなたの決断。しかし、神様があなたに御子イエス様の命を持ってまで用意された地、移された新しい命はいかばかりか。今日一歩踏み出そう、そこから神様の恵みが溢れ広がるから。そこにあるのは見せかけの命、栄光ではなく、神様が流される祝福、それがあなたの周りにも溢れ流れ、命に満ち溢れるから。