―終わりの時①一番大切なのは― | 子育て休職中牧師の聖書のおはなし

子育て休職中牧師の聖書のおはなし

東京で牧師をしておりましたが、子育てのため一時的に北海道に移住しました。
「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と語られた神様からのラブレター・聖書から少しずつ分かち合わせていただきますね(*^_^*)

「宮がすばらしい石や奉納物で飾ってあると話していた人々があった。するとイエスはこう言われた。『あなたがたの見ているこれらの物について言えば、石がくずされずに積まれたまま残ることのない日がやって来ます。』彼らは、イエスに質問して言った。『先生。それでは、これらのことは、いつ起こるのでしょう。これらのことが起こるときは、どんな前兆があるのでしょう。イエスは言われた。『惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、【私がそれだ】とか【時は近づいた】とか言います。そんな人々のあとについて行ってはなりません。戦争や暴動のことを聞いても、こわがってはいけません。それは、初めに必ず起こることです。だが、終わりは、すぐには来ません。』」

ルカによる福音書21章5-9節

 

近年、様々な災害が続いていますね。毎年のように何かが起こっている印象があります。なかには言葉にもならない惨状も見受けられます。そんな時、私たちはどこを向いていますか?神様はどこに招いておられるのか。滅びではなく、私たちを神様の御もとに招いている、そのことだけは忘れてはいけません。神様のお心は、私たちが滅びることではなく生きること、永遠の命を得ること。私たちはなぜ?どうしてと思う時にこそ神様を見上げようではありませんか。

 

さて、神の御子イエス様が人となってお生まれになり、その公生涯を歩まれ、いよいよ十字架にかかる時が近づいたある日、イエス様は終わりの時について語り始めます。宮がすばらしい石や奉納物で飾ってあると話していた人々に対して、イエス様「あなたがたの見ているこれらの物について言えば、石がくずされずに積まれたまま残ることのない日がやって来ます」語られるところから始まります。というとわかりづらいかもしれませんが、要するにエルサレム神殿です。ただ、これはソロモンが建てたころのように神様が良しとされ、その御名を置かれたようなものではなく、またソロモン神殿はバビロン捕囚の際に破壊されているので、自分の地位を誇るために装飾品を施したりした、ある意味では別物の神殿です。それがやがて壊れる時が来るというのです。

 

ちなみにこれは実は第1段階としてはすでに起こっています。このイエス様が語られて数十年後、ローマ帝国によって完全に破壊されます。自分たちが誇りとしていたものが壊された、これは相当ダメージの大きかったことでしょう。ただ、実は終わりの時に第3神殿が建てられ、そこで偽キリストがキリスト宣言をし、立ち上がる時が来ます。これについては↑の続きや黙示録でも言及されているので、その時詳しく見ますね。

 

イエス様はそれがいつ起こるのか、という人々の疑問に「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私がそれだ』とか『時は近づいた』とか言います。そんな人々のあとについて行ってはなりません。戦争や暴動のことを聞いても、こわがってはいけません。それは、初めに必ず起こることです。だが、終わりは、すぐには来ません」答えます。

 

自分こそは神だ、救い主だ、と名乗るのは、イエス様が来られる前からあった事と言えばあった事ですが、分はだまされない、と思っている人が実は一番怖いところで、そもそもサタンは「自分はサタンです、言うことを聴きなさい」なんていってくるわけがない、それこそ、アダムとエヴァに対して蛇の姿をサタンはとってだましてきた。しかも神様の言っていることを少しだけ捻じ曲げることによって神様を疑わせてきたのです。またある種占いや、すごい技術や腕を持っている者に対して神、と言わないまでも陶酔する事って人はありますよね。これが問題なのです。

 

たとえば自分が困っている時に、何か奇跡的な事をする、語る人がいたらそっちについていきやすいですよね。私がキリストだ、と名乗らなくても、それこそ騙されて、この人が本当は神なのでは?キリストなのでは?と。当時の人たちだって、イエス様を、彼らの考える救い主像とは違って救い主としては認めず、十字架にかけてしまいました。それがイエス様がこれからかかろうとしている十字架なのです。今、彼らはローマ帝国に支配されているわけですから、かつてイスラエルをエジプトから導き出したモーセのようなリーダー的な救い主を求めていたのです。それが彼らの思う「私がキリストだ」というものだったのです。しかし、目の前にイエス様がいながら彼らは気づかなかった。なんと悲しい話でしょう。

 

今彼らが見ているエルサレム神殿の偽の美しさ、着飾ったものはしかし、いつまでも続かず、いつかは壊れる時が来るのです。実際この後ローマ帝国によって破壊されるわけですが、根本的に求めているものが違ったのです。

 

イエス様が仰られるように、確かに終わりの時には戦争や暴動がおこることについてイエス様は言及されていますが、そういう時こそ人の心は萎えてしまい、疲れ果ててしまう、神様などいないのではないか、こんな時に神様は何をしているんだ、と人々の心をサタンは引き離そうとしてきます。事実そのような方を今年に入ってからも特に散見しました。↑の続きではさらに現在の状況にかなり近い状況について言及されています。この時は偽キリストがしてくることについてさらに語られていくのですが、その本質は同じなのです。

 

そのような状況の時、誰を見上げるのか?何を見ているのか。本当の救いはどこにあるのか。私たちはここを見落としてはいけません。大きな問題に直面し、もうだめだ、と思うのはある意味では簡単ですが、その前に、あなたを恐怖に捕らえ神様から引き離そうとするそこに心を置いて何になりますか。しかし予めイエス様が今語られていることに注目しましょう。イエス様は偽物の実や、外見だけ着飾って優れているように見えて結局何もできないものは、いつかはイエス様の勝利によって飲み込まれる日が来るというのです。

 

私たちを痛みや悲しみに、死に、罪に、サタンに飲み込まれることがないよう、イエス様が私たちの身代わりに全ての思い煩い、痛み、罪、死、一切を身代わりに背負われ十字架にかかられ、死なれたのです。しかし3日目によみがえられたことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子としてくださる。死は死で終わらず、あなたを天の御国にまで導かれる、引き上げられる、死から命へ移される神様がおられるのです。罪の支配する、神様不在の中から神様の恵みの内に。復活のイエス様が確かにあなたと共に世の終わりまで追われ、導かれるのです。

 

私たちは自身にも惑わされず、見るべき方、イエス様から目を離さず歩みたいものです。多くの迫害にあい、何度も殺されそうになったパウロは「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです」と手紙に書き残しました。

 

聖書に書かれていることは昔の事ではなく、その中で働かれていた神様は今も生きておられ、あなたのためにいのちをかけてまで愛されたイエス様が今日もあなたと共にいます。あなたをあらゆる意味で力づけ、心に元気を与えてくださり、立ち上がらせてくださる神様に、今のこの時だからこそ、余計に目を上げ、この方から離れず歩もうではありませんか。あなたの命は、イエス様の命にあって切り開かれた、与えられた道なのですから。