―新しいことをする、新しくしされるのは― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「あなたがたを贖われたイスラエルの聖なる方、主はこう仰せられる。『あなたがたのために、わたしはバビロンに使いを送り、彼らの横木をみな突き落とし、カルデヤ人を喜び歌っている船から突き落とす。わたしは主、あなたがたの聖なる者、イスラエルの創造者、あなたがたの王である。』海の中に道を、激しく流れる水の中に通り道を設け、戦車と馬、強力な軍勢を連れ出した主はこう仰せられる。『彼らはみな倒れて起き上がれず、燈心のように消える。先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。野の獣、ジャッカルや、だちょうも、わたしをあがめる。わたしが荒野に水をわき出させ、荒地に川を流し、わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませるからだ。わたしのために造ったこの民はわたしの栄誉を宣べ伝えよう。しかしヤコブよ。あなたはわたしを呼び求めなかった。イスラエルよ。あなたはわたしのために労苦しなかった。あなたはわたしに、全焼のいけにえの羊を携えて来ず、いけにえをささげて、わたしをあがめようともしなかった。わたしは穀物のささげ物のことで、あなたに苦労をさせず、乳香のことであなたを煩わせもしなかった。あなたはわたしのために、金を払って菖蒲を買わず、いけにえの脂肪で、わたしを満足させなかった。かえって、あなたの罪で、わたしに苦労をさせ、あなたの不義で、わたしを煩わせただけだ。わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。わたしに思い出させよ。共に論じ合おう。身の潔白を明かすため、あなたのほうから述べたてよ。あなたの最初の先祖は罪を犯し、あなたの代言者たちは、わたしにそむいた。それで、わたしは聖所のつかさたちを汚し、ヤコブが聖絶されるようにし、イスラエルが、ののしられるようにした。』」

イザヤ書43章14-28節

 

ある映画の中で、収穫がない時に、雨が降ってから畑の準備をするのか、降る前に畑の準備をするのか、という議論がありました。みなさんだったらどうでしょう。やがて雨が降ると期待してあきらめずに備えるか、それとも?ただ、一つ言えることは神様は何もない、乾ききった地に川を流される、道のないと思われるところに道を備えられる方です。私たちはこの神様に心を、足を、手を、一切を委ねたいものです。神様ご自身があなたを導かれるのだから。

 

さて、↑は古代イスラエル王国の、バビロン捕囚期について神様が預言者イザヤを通して語られたことの続きになります。特にここではバビロンをメド・ペルシャの王クロス王(キュロス王)の内に神様が働かれ、これを打ち破り、神様ご自身が回復させていく事が預言されています。

 

イスラエルの歴史を考えてみますと、神様は何度となく苦難の壁を打ち壊してこられましたね。エジプトに400年近く奴隷として囚われていた時も神様ご自身がその御手をもってエジプトに災いをくだされたり(モーセが、というイメージがあるかもしれませんが、神様の手によらなければあのような事は成し得ない)、約束の地についてからの戦いを見ても、最強の城壁をほいこるエリコの町(到着の40年前はイスラエルを降すほどの強国、自信を持っていた)に対して、神様はおそれの心を抱かせ、ついには城壁の周りを7日間まわる、そして7日目には7周回ったことで城壁を崩すというあり得ないことをなされたり、神様はどうしようもない壁を打ち破られる、私たちを囲う問題に対しても。勝ち目のないどうしようもないところを神様は道を備えてくださるのです。

 

話がいきなり横道にそれましたが、神様はイザヤを通して「あなたがたを贖われたイスラエルの聖なる方、主はこう仰せられる。『あなたがたのために、わたしはバビロンに使いを送り、彼らの横木をみな突き落とし、カルデヤ人を喜び歌っている船から突き落とす。わたしは主、あなたがたの聖なる者、イスラエルの創造者、あなたがたの王である。』」語られます。

 

覚えているでしょうか。以前ヒゼキヤ王が病気から回復した時に、バビロンの王が使者を送り、見舞いにきたことを。ヒゼキヤ王はその彼らに、神様の素晴らしい御業の数々ではなく、むしろ自分がこれらの宝を得たんだ、と宝物庫を見せた、その結果、神様はイザヤを通して「見よ。あなたの家にある物、あなたの先祖たちが今日まで、たくわえてきた物がすべて、バビロンへ運び去られる日が来ている。何一つ残されまい、と主は仰せられます。また、あなたの生む、あなた自身の息子たちのうち、捕らえられてバビロンの王の宮殿で宦官となる者があろう」語られましたね。そう、イザヤは確かにまだバビロンの捕囚を見ていない(このヒゼキヤ王への預言から100年以上先の話ですし、もっと前の王の時代から彼は活動していたうえ、ヒゼキヤ王の次のマナセ王に殺されますから)、ただやがてバビロンに捕囚されていく事はこのことを通して知っていたのです。

 

ずっとイスラエルの民に預言してきた彼にとってバビロンによって捕囚されることはどれだけつらい事でしょう。ただ、彼は毅然とその捕囚について語りながらも、同時に神様の愛はそこにある、どうにもならない現実を打ち砕く、閉ざされた閂を神様ご自身が引き抜かれる、その日が来るということを知り、民に語るのです。だから、私たちをそれでも見捨てない神様にどんな時もすがりつき続けよう、と。

 

事実神様は、メド・ペルシャの王クロス王を送ってバビロンを倒し、そこに捕らわれていたイスラエルを解放されます。ここで「横木」と語られているのは町の門のかんぬきのことなのですが、神様は、バビロンの町の門のかんぬきを突き落として軽々と倒すというのです。当時覇権を握っていたバビロンの難攻不落のこの門を。そして勝利に酔いしれていたバビロン人を、神様はその喜びの船から突き落とすと宣言されます。

 

バビロンも必ず倒れる、私たちを悩まし苦しめる、閉ざして閉じ込める様々な問題、サタンの手も、必ず最後は打ち砕かれます。あなたを解放します。ここで神様は、ご自身を聖なる方と語られていますが、それは「分離された者」という意味です。神様はこの天地を創造された全能者であって、この世とは完全に分離された方なのです。この世の何ものも、この神様のご計画、愛を、御心を妨げ、閉ざすことはできません。

 

確かに、もうどうにもならない、と思うようなことは私たちの周りにあるかもしれません。もしくは自身の手で諦めて神様を締め出す、閂をかけてあきらめることだってあるでしょう。しかし、私たちは神様を侮ってはいないでしょうか。神様がこの天地万物を造られた、無から有をつくりだし、すべ治めてこられた、この神様がどうして道を開けない、などということができましょうか。私たちは自分の価値観、神様観からある意味で分離して、神様の恵みの中に憩わせていただこう、この天地万物を造られた神様が私たちを休ませてくださるのだから。

 

↑に話を戻し、なお神様はイザヤを通して「海の中に道を、激しく流れる水の中に通り道を設け、戦車と馬、強力な軍勢を連れ出した主はこう仰せられる。『彼らはみな倒れて起き上がれず、燈心のように消える。先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。野の獣、ジャッカルや、だちょうも、わたしをあがめる。わたしが荒野に水をわき出させ、荒地に川を流し、わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませるからだ。わたしのために造ったこの民はわたしの栄誉を宣べ伝えよう」語られます。

 

「海の中に…」というのは、今日の分かち合いの前半部でも触れましたが、かつてイスラエルがエジプトの奴隷として約400年近くとらえられていた時、神様が多くの災いを送り、もう脱出できない、閉じ込められていた霊的な閂を引き抜き、脱出させてくださったのですが、途中紅海にさしかかり(正確にはエジプトが完全に神様の御前に敗北する、その姿を見せ、彼らを前から後ろから守られる神様を見せてくださり、その後の旅に同行する神様のすばらしさをここで示されました)神様はその紅海をモーセを通して真っ二つに割り、その渇いたところを彼らに歩いて、子供から老人まで安全に、無事に渡らせた後に割れていた海を戻し、最後に追いかけてきたエジプト軍を完全に海の底に沈めたのでした。

 

常識的に海を割る、というのは考えられない話です。ありえない。しかし、私たちの常識では確かにあり得ませんが、しかしこの天地万物を造られた神様だから、それができるのです。当時の列強国エジプトさえ打ち破り、ありえないと思う中にあって神様は解放された、逃げ場がないと思える中に神様はご自身が先頭に立ち、その道を開かれ、導かれたのです。荒野の旅路においても、食べ物も飲み物もない、周辺には強い民族もいる、そんな中にあって神様は40年間養い、戦いからも守られ、四十年の間、身に着けている着物はすり切れず、その足のくつもすり切れなかったのです。不完全な救いではなく、神様の御手にある業はまさに完全なのです。

 

それを、今バビロンに対しても行う、と宣言されているのです。確かにそれはこの預言よりまだ100年近く先の話、未来の話かもしれない、しかし確かに私たちの明日は見えませんが、そこに神様が確かにおられる、その確信に私たちが立つとき、神様が切り開かれている道にも気づかせていただけるのではないでしょうか。私たちの目には道はない、救いはない、と思っても、神様が開かれた道、たとえそれが狭い門に見えても、そこに確かにあり、その先は神様につながっているのです。神様の栄誉があなたを覆うのです。それこそ、昨日分かち合わせていただいたように、あなたを高価で尊い存在へとするために。

 

なお神様はイザヤを通して「しかしヤコブよ。あなたはわたしを呼び求めなかった。イスラエルよ。あなたはわたしのために労苦しなかった。あなたはわたしに、全焼のいけにえの羊を携えて来ず、いけにえをささげて、わたしをあがめようともしなかった。…わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。わたしに思い出させよ…」語ります。神様は見捨てることはできる、でも今申し上げましたように彼らは、あなたは高価で尊い存在、だから見捨てることができなかったのです。それゆえ神様は彼らの、あなたの背きの罪を拭い去り、その罪を赦すため、私たちの罪の身代わりに御子イエス様の命を十字架にかけられ、罰し、死なせたのです。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の前に悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子として迎え入れてくださったのです。

 

このイエス様にあって私たちは天国へと、神様へとつながっている、新しい命、永遠の命、古い滅びに向かう道から救いの道へとその道を開かれたのです。イエス様が↑にあるように、私たちが罵られなければいけない、その身代わりに罵りを受け、私たちは神様の子の栄光、愛に包まれるのです。私たちは今日、このイエス様の十字架にあって宣言された、与えられた神様の子としての特権、栄誉で覆われたこの命を喜び歩ませていただこうではありませんか。古い、この世の業、サタンの策略ではなく御子イエス様の命がけの愛をもって切り開かれた、新しくされたこの命を、とことんまで神様に信頼し、委ね、歩みたいものです。