―あなたが高価で尊い、その理由― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。『恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。わたしが、あなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。わたしは、エジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする。わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。恐れるな。わたしがあなたとともにいるからだ。わたしは東から、あなたの子孫を来させ、西から、あなたを集める。わたしは、北に向かって【引き渡せ】と言い、南に向かって【引き止めるな】と言う。わたしの子らを遠くから来させ、わたしの娘らを地の果てから来させよ。わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。目があっても盲目の民、耳があっても聞こえない者たちを連れ出せ。すべての国々をつどわせ、諸国の民を集めよ。彼らのうちのだれが、このことを告げ、先の事をわれわれに聞かせることができようか。彼らの証人を出して証言させ、それを聞く者に【ほんとうだ】と言わせよ。あなたがたはわたしの証人、―主の御告げ―わたしが選んだわたしのしもべである。これは、あなたがたが知って、わたしを信じ、わたしがその者であることを悟るためだ。わたしより先に造られた神はなく、わたしより後にもない。わたし、このわたしが、主であって、わたしのほかに救い主はいない。このわたしが、告げ、救い、聞かせたのだ。あなたがたのうちに、異なる神はなかった。だから、あなたがたはわたしの証人。―主の御告げ―わたしは神だ。これから後もわたしは神だ。わたしの手から救い出せる者はなく、わたしが事を行なえば、だれがそれを戻しえよう。』」

イザヤ書43章1-13節

 

目に入れてもいたくないとか、たとえ火の中水の中、という表現がありますが、どうしてそのような表現が生まれるのか。それほどの愛情があるかあらこそ、たとえ火の中水の中であろうとも飛び込む、と言えるのでしょうね。目に入れたら痛いけど、愛情をそれでも注ぎたい、と。神様は、たとえ火の中水の中、牢獄の中、陰府であろうとあなたを救い出すためなら命をかけられる、それほどにあなたを今日も愛されている、この喜びにあふれ、私たちは歩みたいものです。神様があなたの内側を喜びで満たしてくださるから。

 

さて、↑は古代イスラエル王国の、バビロン捕囚期について神様が預言者イザヤを通して語られたことの続きになります。彼らは神様の憐れみによってかつてエジプトの奴隷として400年近くの間囚われていた中から救い出された、そして約束の地に帰り、ついにはそこに定住し、王国まで建国に至った、神様があらゆる敵から、苦難から守ってくださってそこに至ったのにも関わらず、彼らは神様から離れ、好き勝手に生き、結果北イスラエルはアッシリヤ帝国に、南ユダはバビロン帝国によって捕囚されていくのでした。

 

それでも神様は何とか捕囚されないように、多くの預言者などを通してあらかじめ語られていた、それでも、神様などいらないと言って離れた、神様が何もしないのではなく、神様の愛に応答しなかった、無視した結果ともいえるでしょうね。しかし神様はそれでも見捨てず、これまで見てきた通り捕囚地にあっても預言者を置かれ、助けられ、バビロンの中にもイスラエル人の宦官を置かれることによって民族滅亡の危機から救われたり、また捕囚されっぱなしではなく解放するために、直接メド・ペルシャの王クロス王に働きかけるなど、彼らを見捨てていなかったのです。その神様の御思いが↑の今回の箇所によく現れています。

 

というわけで、神様はイザヤを通してなお「だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。『恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない…」語られます。

 

ヤコブ、わかりやすく言うとイスラエルの民と思っていただければいいのですが、それは神様から離れすく勝手に生きている私たち、暗闇の中をさまよう私たちにも同時に語られているのです。それは、私たちは偶然できたものではなく、神様ご自身の手によってつくられたという事。また、誰かに任せたとか、そういうわけでもなく、神様ご自身が私たちを造られた、そう神様ご自身が宣言されているのです。

 

人が造られた時のことについて、神様に導かれてアダムは口頭で子孫たちに語り継げ、やがてモーセがまとめた書物の中に「神は仰せられた。『さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。…』神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神は彼らを祝福された」と記されています。神様は、ご自身のイメージされた通りに私たちを造られた、適当でいいわけでもなく、しかも祝福までされたのです。

 

私たちは人生歩んでいる中で様々な困難に会います。それこそここで「わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない」と語られているような状況に陥ることもあります。だから神様はいないんだ、とある人は言いますが、むしろそのような神様に大切に造られた私たちが神様から離れ、見捨てられてもおかしくない、そのような私たちをそれでも見捨てず、先に述べたようにバビロン期を支え、また助け出されたのです。神様は確かに私たちの困難を知っておられる、その中にも神様は私達とのライフラインを断ち切らず、その御手を伸ばされ、救われるのです。あなたを愛するがゆえに。

 

神様にとって彼らは選びの民であっても神様から離れ好き放題やっていた民、もう愛せない、と見捨てられても文句が言えないような状態です。私達だって神様に対して不遜な態度、行動に出ることはあります。同じです。ただ、神様「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」仰られるのです。これが神様の御思いなのです。それでも神様はあなたを愛しているがゆえに、彼らを愛しているがゆえに、見捨てられないのです。何とかして命を得てほしい、と捕囚期神様があらゆる手をもって支え、救われたように、神様は今日もあなたを支え、守ってくださっている。もしかしたらそれはあなたの目には見えないかもしれない、しかしそれが自分の中で当たり前と感じているだけで、神様が与えてくださっている恵みだと気づいていますか?

 

神様はなおイザヤを通して「恐れるな。わたしがあなたとともにいるからだ。わたしは東から、あなたの子孫を来させ、西から、あなたを集める。わたしは、北に向かって『引き渡せ』と言い、南に向かって『引き止めるな』と言う。わたしの子らを遠くから来させ、わたしの娘らを地の果てから来させよ。わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った」語られます。

 

まあそれでもやはり私たち人は弱い、だから恐れることだってあります。でも、恐れてもいい、だから神様を私たちは頼る、頼っていいのです。だってそうじゃないですか、神様は恐れるな、我慢しなさい、とか黙っていなさい、とかそういうことを仰るのではなく、神様が助けて下さる事を約束されていますね。

 

これを語られているイスラエルの民だって恐れます。イザヤのこの預言からいくら100年以上先の話であって、バビロン捕囚という危機的状況に陥る、でも、神様が見捨てていないから、神様を頼っていい、その時を「神様が」迎えさせてくださるから、と訴えているのです。

 

それはバビロン捕囚で終わらず、後にローマ帝国によるユダヤ崩壊の後、1900年近くたって離散しているイスラエル人を世界各地から集める約束は今成就されましたし、バビロンの中にいたユダヤ人だけでなく、アッシリヤの捕囚で捕え移され他の地域にいたイスラエル人もペルシヤの支配の中に入ったので、戻ることが果たされたのです。まあすでに捕囚先で定住していた人たちの中で残る人たちもいましたが、神様はその中にあっても王妃にユダヤ人を建てることで守られたり、私たちの目には分からない、神様は何をしているの?と思う中でもその御手を伸ばされているのです。

 

神様は、私たちをただ作って終わりではない、後は好きにしなよ、と見放すわけでもない、神様はご自身の、それこそ「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」ということばを実際に行動に移された、高価で尊い存在へと全生涯を通して私たちを形作ろうとされる、導かれるのです。最初の神様のイメージされていた姿、キリストの似姿に

 

神様はイザヤを通して、続けて「目があっても盲目の民、耳があっても聞こえない者たちを連れ出せ。すべての国々をつどわせ、諸国の民を集めよ。彼らのうちのだれが、このことを告げ、先の事をわれわれに聞かせることができようか。彼らの証人を出して証言させ、それを聞く者に【ほんとうだ】と言わせよ。あなたがたはわたしの証人、―主の御告げ―わたしが選んだわたしのしもべである。これは、あなたがたが知って、わたしを信じ、わたしがその者であることを悟るためだ。わたしより先に造られた神はなく、わたしより後にもない。わたし、このわたしが、主であって、わたしのほかに救い主はいない。このわたしが、告げ、救い、聞かせたのだ…」仰られていますね。

 

それは彼らを見捨てるためではなく、神様はそれでも見捨てられないから、本物の神様と合わせてくださると約束してくださっているのです。証人なり、誰かを通して、それこそ数々の預言者を通して神様が語られ、また奇跡を示されたように。何より神様はご自身の愛をこれ以上ない形で現れました。神の御子たるイエス様を人として生まれさせてくださったのです。罪を犯さない点を除けば完全に人となられてまで。神様は好き勝手に生きる私たちを見捨てる道ではなく、身代わりに、↑である贖いのために、私たちの罪を御子イエス様に身代わりに背負わせ、十字架にかけて死なせたのです。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の前に悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子とされる、新しい命、永遠の命が与えられるのです。

 

その時、本当の意味で私たちは高価で尊い存在となるのです。御子イエス様の命をもってまで取り戻され、新しくされた、これ以上の価値がどこにあるでしょう。そのイエス様の命にあって私たちはなお高価で尊い存在として形づくられていくのです、御子イエス様の似姿に。このイエス様が今日あなたを保証してくださっているのです。私たちの周りに何があろうとこのイエス様を見上げよう。このイエス様が今日あなたを形作ってくださる、この最高のご計画に信頼し、喜び歩みたいものです。