―喜び歌う日が来るよ― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「主に向かって新しい歌を歌え、その栄誉を地の果てから。海に下る者、そこを渡るすべての者、島々とそこに住む者よ。荒野とその町々、ケダル人の住む村々よ。声をあげよ。セラに住む者は喜び歌え。山々の頂から声高らかに叫べ。主に栄光を帰し、島々にその栄誉を告げ知らせよ。主は勇士のようにいで立ち、戦士のように激しく奮い立ち、ときの声をあげて叫び、敵に向かって威力を現わす。わたしは久しく黙っていた。静かに自分を押さえていた。今は、子を産む女のようにうめき、激しい息づかいであえぐ。わたしは山や丘を荒らし、そのすべての青草を枯らし、川をかわいた地とし、沢をからす。わたしは目の見えない者に、彼らの知らない道を歩ませ、彼らの知らない通り道を行かせる。彼らの前でやみを光に、でこぼこの地を平らにする。これらのことをわたしがして、彼らを見捨てない。彫像に拠り頼み、鋳像に、『あなたがたこそ、私たちの神々』と言う者は、退けられて、恥を見る。耳の聞こえない者たちよ、聞け。目の見えない者たちよ、目をこらして見よ。わたしのしもべほどの盲目の者が、だれかほかにいようか。わたしの送る使者のような耳の聞こえない者が、ほかにいようか。わたしに買い取られた者のような盲目の者、主のしもべのような盲目の者が、だれかほかにいようか。あなたは多くのことを見ながら、心に留めず、耳を開きながら、聞こうとしない。主は、ご自分の義のために、みおしえを広め、これを輝かすことを望まれた。これは、かすめ奪われ、略奪された民のことであって、若い男たちはみな、わなにかかり、獄屋に閉じ込められた。彼らはかすめ奪われたが、助け出す者もなく、奪い取られても、それを返せと言う者もいない。あなたがたのうち、だれが、これに耳を傾け、だれが、後々のために注意して聞くだろうか。だれが、ヤコブを、奪い取る者に渡し、イスラエルを、かすめ奪う者に渡したのか。それは主ではないか。この方に、私たちは罪を犯し、主の道に歩むことを望まず、そのおしえに聞き従わなかった。そこで主は、燃える怒りをこれに注ぎ、激しい戦いをこれに向けた。それがあたりを焼き尽くしても、彼は悟らず、自分に燃えついても、心に留めなかった。」

イザヤ書42章10-25節

 

今年は本当に悲しいニュースから始まりましたね。新年を迎えて3週間近くたった今も、私も悲しいですが、それ以上に現地・被災されている方々の痛み、悲しみが続いていることを覚えます。いったいいつになったら収まるのか。でも、考えさせられたのが、収まる日が来る、なら収まる日を迎えさせてくださる、その日に向かって一緒に進んでくださる神様がいるということ。いつか喜び笑う日が来る、ということ。「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る」とある詩人は歌いますが、本当にそのような日を迎えさせてくださる神様に、祈ろうではありませんか。祈ることは恥ではない、神様はあなたの声を聴いておられるから。

 

さて、↑は古代イスラエル王国がバビロン帝国に捕囚されていく、その捕囚期(捕囚中、捕囚後、その後まで)について、神様があらかじめイザヤを通して預言されたものになります。特に↑の歌は、イスラエルがメド・ペルシャの王クロス(キュロス)王によって解放された後のことについて、さらにはやがてこられるイエス様(人となってお生まれになられた約2000年前、そして終わりの時に来られるイエス様)の時におこる回復について語られ・歌われています。

 

神様から啓示を受けたイザヤは「主に向かって新しい歌を歌え、その栄誉を地の果てから。海に下る者、そこを渡るすべての者、島々とそこに住む者よ。荒野とその町々、ケダル人の住む村々よ。声をあげよ。セラに住む者は喜び歌え。山々の頂から声高らかに叫べ。主に栄光を帰し、島々にその栄誉を告げ知らせよ」と歌います。

 

ある意味ではあそこはOK、あそこはだめではなく、全世界的回復の姿がここで見られますね。まあバビロン捕囚からの解放時は、まだイスラエルや中東諸国の解放によって、ある意味では地域限定だったかもしれませんが、そのようにして神様は全地にその愛を示されたのでした。その福音の知らせは、諸国に広がっていくという意味で、一部ではなかったことが言えますね。

 

イザヤから見たら、まだこのバビロン捕囚は見ていませんが(ただ彼はこの後南ユダの王マナセに殺されます)神様が回復させてくださるという約束にどれだけの希望を持ったことでしょう。これまでのイザヤに神様が語られたことの中でも、神様は捕囚期の試練のただなかにあっても神様は助け手を置かれたり、その御手を伸ばされ助けてくださることを見ましたが、神様はある一時だけではなく、つらい時も元気な時も共にいてくださる、喜びに導きだしてくださることを、新しい喜びの歌を歌う日を迎えさせて下さる事を彼は喜んだのです。

 

そのバビロン捕囚から解放された時期、イスラエルの学者エズラは「主がシオンの繁栄を元どおりにされたとき、私たちは夢を見ている者のようであった。そのとき、私たちの口は笑いで満たされ、私たちの舌は喜びの叫びで満たされた。そのとき、国々の間で、人々は言った。『主は彼らのために大いなることをなされた。』主は私たちのために大いなることをなされ、私たちは喜んだ。主よ。ネゲブの流れのように、私たちの繁栄を元どおりにしてください。涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る」と詩に残しました。確かにバビロン捕囚期、どれだけの涙を流したことか、しかし、神様に涙をもって祈る時、立ち返る時、神様はこの涙を拭い去り、回復され、喜びの涙に変え、多くの神様のくださる恵みで満たされた、と喜ぶのです。すべては変えられた、と。

 

実際イザヤの歌う詩で、荒野とその町々、ケダル人の住む村々、セラに住む者、山々の頂からもです。すなわち、世界中の至ると回復について語られていますが、それは成就されました。しかも解放して終わりではなく、イエス様がさらに来られる、最後は再臨の時に完全な回復、世界中のリバイバル、完全な御国の完成、そこに至るまで神様は導かれることを、神様からの啓示を受けたイザヤは歌っていますね。なみに、ケダル人というのはアラブ人のことを、セラとは現在のヨルダンにあるペトラという地域のことを指しています。ヨルダンは今クリスチャンの人が増えていますが、確かに神様はその御手を伸ばされ、アラブ諸国の中にあってもその恵みを、御手を伸ばされていたのです。また、ケダル人は、これは実はイスラエルの兄弟国、イシュマエル族(イスラエルの父祖、アブラハムの息子のイシュマエル⦅彼の方が兄でしたが、弟イサクが神様の祝福を受け継ぐことになり、離れていきます⦆)が、神様に逆らい離れ、挙句イスラエルをさんざん攻撃していた、その彼らをも神様は憐れまれ、もう一度ご自身のもとに引き寄せられると宣言されているのです。

 

いくら長子として選ばれなかったにしても、先日の分かち合いで選びについて分かち合わせていただきましたが、神様はそこにいるところにおいても部族を大きくされ、祝福されていた、しかしそれは自分が考える祝福ではない、と神様から離れ、イスラエルを攻撃していた、そんな彼らを神様はそれでも見放さず、かえってくることを待ち望み、その御手が伸ばされていることが見えすね。私たちにも神様はその希望をイエス様にあって成就されます。

 

最初はキリスト教徒を迫害していたパウロという人は、復活のイエス様に出会い、罪赦され、神様の家族として招き入れられたのですが、そのパウロは手紙の中で「ですから、思い出してください。あなたがたは、以前は肉において異邦人でした。すなわち、肉において人の手による、いわゆる割礼を持つ人々からは、無割礼の人々と呼ばれる者であって、そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人を造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。…こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです」書き送りました。

 

神様はイエス様を私たちの罪の身代わりに十字架にかけ、死なせることによって、また復活させてくださったことによって、私達への本来の敵意は破棄され、平和、和解へと至らせてくださったのです。このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人を。そしてイエス様と一つとされる、そのイエス様が私たちを導いて下さる、完全なる御国へと。私たちはその敵意が破棄され、今や平和を結んでくださったイエス様が私たちを今日導いて下さっている、何と感謝な事でしょう。

 

↑の続きで、イザヤは「主は勇士のようにいで立ち、戦士のように激しく奮い立ち、ときの声をあげて叫び、敵に向かって威力を現す」と歌っていますが、神様が確かに戦ってくださる、私たちを取り戻すために、悲しみ、絶望、何より罪の呪い、サタンの手から取り戻すために命をかけて戦ってくださった、そして今もこの歩みの中にあって戦ってくださる、「わたしは目の見えない者に、彼らの知らない道を歩ませ、彼らの知らない通り道を行かせる。彼らの前でやみを光に、でこぼこの地を平らにする。これらのことをわたしがして、彼らを見捨てない」との約束を果たされた、果たされるのです。

 

私たちは、確かに様々な事に思い悩みます。時に十字架は嘘だったのでは、と疑う事もあるでしょう。あなたはどうですか?ただ、私たちは神様が十字架上で和解させて下さったこの愛を無視してはいけません。↑でイザヤが「耳の聞こえない者たちよ、聞け。目の見えない者たちよ、目をこらして見よ。わたしのしもべほどの盲目の者が、だれかほかにいようか。わたしの送る使者のような耳の聞こえない者が、ほかにいようか。わたしに買い取られた者のような盲目の者、主のしもべのような盲目の者が、だれかほかにいようか。あなたは多くのことを見ながら、心に留めず、耳を開きながら、聞こうとしない」と嘆いているようになってはいけない。

 

神様は私たちがそのような絶望の中にあっても、イエス様を十字架で死なせただけではなく陰府に降らせてまであなたを取り戻された、その愛を徹底された、イエス様に降っていけない場所はありません。イエス様は人となってお生まれになった時、どんなに罵られ裏切られようとも愛する事をやめなかった、語る事をやめなかったように、またその御業を現されたように、最後の最後まで十字架から降りず、愛を徹底されたように、今日イエス様は語り、見せ、行動される。私たちはこのイエス様から目を離さず、いつもイエス様が導かれるこの命の道から離れず歩みたいものです。やがて涙が拭い去られ、喜びの涙に変えられるその日を迎えさせて下さる、その実を豊かに結ばせて下さるイエス様に大いに期待して。