―あなたに心を注ぎだされる方― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「さて、機会をねらっていた彼らは、義人を装った間者を送り、イエスのことばを取り上げて、総督の支配と権威にイエスを引き渡そう、と計った。その間者たちは、イエスに質問して言った。『先生。私たちは、あなたがお話しになり、お教えになることは正しく、またあなたは分け隔てなどせず、真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています。ところで、私たちが、カイザルに税金を納めることは、律法にかなっていることでしょうか。かなっていないことでしょうか。』イエスはそのたくらみを見抜いて彼らに言われた。『デナリ銀貨をわたしに見せなさい。これはだれの肖像ですか。だれの銘ですか。』彼らは、『カイザルのです』と言った。すると彼らに言われた。『では、カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。』彼らは、民衆の前でイエスのことばじりをつかむことができず、お答えに驚嘆して黙ってしまった。」

ルカによる福音書20章20-26節

 

どこの国もお金には誰ぞの肖像画ありますよね。日本でも紙幣には様々な人が印刷されていました。また今度新しくされるようですが。さて、ではあなたのうちには誰がいますか?ただの象徴、肖像画で終わっていませんか?私たちは神様があなたを愛し住まわれていることを喜ぼう。神様はあなたの王、神、救い主なのですから。

 

さて、↑は神の御子イエス様が人となって生まれてこられ、人々を癒し、また教え、その間に住まわれ、その重荷を負いながら歩まれ、いよいよ十字架にかかるためエルサレムに入られた、その中で起こった出来事です。機会をねらっていた彼らは、義人を装った間者を送り、イエス様のことばを取り上げて、総督の支配と権威にイエス様を引き渡そう、と計るのでした。彼らはイエス様に「先生。私たちは、あなたがお話しになり、お教えになることは正しく、またあなたは分け隔てなどせず、真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています。ところで、私たちが、カイザルに税金を納めることは、律法にかなっていることでしょうか。かなっていないことでしょうか」と質問します。

 

つかまえようとしているのに、先生とは、白々しい話ですが。エス様は無視をせず彼の質問を聴きます。ただ、彼の質問は罠そのものでした。税金をカイザルに納めるべきではない、といえば民衆の人気を得ることはできますが、ローマ兵が黙っていませんし、イエス様を捕まえにかかります。しかし、逆に納めるべきだ、といえばローマ兵はその通り、といっても民衆は、取税人に向けるそれと同じで、同胞の敵とみなして、イエス様から離れていくでしょう。彼らにとってはそれが狙いだった、イエス様の教えを請いたかったのではなかったのです。

 

イエス様は彼の話を聞き、彼が求めている事、つまり自分を捕まえようとしていることを察したイエス様は、「デナリ銀貨をわたしに見せなさい。これはだれの肖像ですか。だれの銘ですか」と彼らに聞きます。あえて、そのたくらみには乗らない、と黙って通り過ぎてもいいのですが、イエス様は彼らに大事なことを知らせる必要がある、だからこそ今語られているのです。十字架にかからなければいけないのに、こんなところでトラブルを起こしている場合じゃない、とやり過ごすこともせず、真正面から答えてくださったのです。

 

彼らの心は今目の前にしているイエス様には向いていなかった、その彼をイエス様はただあしらうのではなく、その彼をもう一度神様に立ち返らせようとここで語られるのです。ちなみにデナリ銀貨は1日の労働賃金分に相当したそうです。それと同時にそれはローマ人がユダヤ人から取り立てていた人頭税のようなものとなっていたのでした。そう、彼らをある意味で押さえつけ支配しているのが皇帝カイザル。それにある意味で振り回され、イエス様をはめるはめない、という悲しい状態になっていたのです。

 

イエス様は、それはカイザルなんだ、と答える彼らに「では、カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい」と答えます。こう聞くと突き放されたように感じるかもしれませんが、彼らの銀貨、所持しなければいけないデナリ銀貨が彼らを支配していた、神様ではなく皇帝カイザルに。彼らの内を支配していたのは神様の愛ではなく、神様の愛がわからず彼らはこの世の思い煩い、どうにもならない支配者によって完全に閉められていた。

 

しかし、イエス様は、もちろん税金の問題もありますが、それ以上に、あなた自身をだれに返すのか?あなたは誰のものなのか、それを問うているのです。彼らのしるしは誰なのか?ここのところヒゼキヤ王の話の中でかみさまのしるしについて何度も神様ご自身が語られていましたが、彼らをイエス様は無視されなかったように、神様は彼らの内にその愛を刻む、注ぎつくしたいのです。溢れんばかりに。あなたを満たし、いのち溢れるものにさせるのは、奪うサタンではない、世の煩いでもない、神様があなたの内にご自身の愛を刻まれるのです。

 

そのしるしとしてまさに神様はご自身の愛をイエス様に置いて現わされました。彼らを見捨てなかったように、裏切る弟子たちを見て、もうやっていられるか、と見捨てて天に変えられるのではなく、むしろ私たちを捨て置けず、私たちの罪を御子イエス様に身代わりに背負わせ、罰せられ、死なせたのです。最後まで十字架から降ろされることはありませんでした。しかし3日目によみがえられたことによってこのイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子としての証印、聖霊様の証印が押される、イエス様と同じ復活の恵みに与らせていただけるのです。

 

このイエス様の愛が十字架にあって今日あなたに現されている、刻まれている。あなたを愛し、あなたを今日導かれている方がどれだけあなたにその愛を注がれたのか、注がれているのか、改めて今日覚えようではありませんか。様々な事に心奪われてはいけない、支配されてはいけない。神様にあって新しくされた、これほどまでに愛されたイエス様が世の終わりまで共にいて導いて下さるこの生涯を神様にお返しするといいますか、委ね、離れず歩み続けたいものです。