「ヒゼキヤ王の第十四年に、アッシリヤの王セナケリブが、ユダのすべての城壁のある町々を攻めて、これを取った。アッシリヤの王は、ラブ・シャケに大軍をつけて、ラキシュからエルサレムに、ヒゼキヤ王のところへ送った。ラブ・シャケは布さらしの野への大路にある上の池の水道のそばに立った。そこで、ヒルキヤの子である宮内長官エルヤキム、書記シェブナ、および、アサフの子である参議ヨアフが、彼のもとに出て行った。ラブ・シャケは彼らに言った。『ヒゼキヤに伝えよ。大王、アッシリヤの王がこう言っておられる。いったい、おまえは何に拠り頼んでいるのか。口先だけのことばが、戦略であり戦力だと思い込んでいるのか。今、おまえはだれに拠り頼んで私に反逆するのか。おまえは、あのいたんだ葦の杖、エジプトに拠り頼んでいるが、これは、それに寄りかかる者の手を刺し通すだけだ。エジプトの王、パロは、すべて彼に拠り頼む者たちにそうするのだ。おまえは私に【われわれは、われわれの神、主に拠り頼む】と言う。その主とは、ヒゼキヤが高き所と祭壇を取り除いておいて、ユダとエルサレムに向かい【この祭壇の前で拝め】と言ったそういう主ではないか、と。さあ、今、私の主君、アッシリヤの王と、かけをしないか。もしおまえのほうで乗り手をそろえることができれば、私はおまえに二千頭の馬を与えよう。おまえは戦車と騎兵のことでエジプトに拠り頼んでいるが、私の主君の最も小さい家来のひとりの総督をさえ撃退することはできないのだ。今、私がこの国を滅ぼすために上って来たのは、主をさしおいてのことであろうか。主が私に【この国に攻め上って、これを滅ぼせ】と言われたのだ。』」
イザヤ書36章1-10節
人を形成していく要素として、かけられる言葉というのもある気がします。幼少期からどのような言葉かけをされてきたか。また年齢が上がっても、周りの同級生、友人、学校の先生など、様々な人のかける言葉はやはり影響を与えますよね。ただ、一方で本当にそんなことを言っているの?と自分の知らないところで、噂のようにされている言葉もまた影響を与え、時に苦しみます。しかし、本当の意味で私たちを建て上げるのは、神様の口から出る一つ一つの言葉、御業、恵みです。私たちは神様が何を自分に語り掛けておられるのか、これを日々覚え、委ね、歩みたいものです。あなたのために御子イエス様の命さえ惜しまなかった神様が今日も語られているのだから。
さて、これまでアハズ王の死去~ヒゼキヤ王の治世に何が起こるのか、その預言を神様がイザヤを通してなされていましたが、ここから39章までの間は、これまで神様が約束されていたヒゼキヤ王の時代におこる神様の救い、大いなる奇跡を具体的に記されていきます。以前列王記を分かち合わせていただいた時もこの箇所については触れていますが、預言者イザヤは神様が預言されたことを、確かに成就、実行された、という感謝の気持ちをもって記したのではないか、と思います。私たちは何か問題があったことを数え上げるのは得意ですが、神様が日々数えきれないほどの恵みを、御業を、愛をなして下さっていることに感謝し、これを覚えたいものです。
話を↑に進めて、時代はヒゼキヤ王の第十四年、紀元前701年の出来事になります。「アッシリヤの王セナケリブが、ユダのすべての城壁のある町々を攻めて、これを取った。アッシリヤの王は、ラブ・シャケに大軍をつけて、ラキシュからエルサレムに、ヒゼキヤ王のところへ送った。ラブ・シャケは布さらしの野への大路にある上の池の水道のそばに立った。そこで、ヒルキヤの子である宮内長官エルヤキム、書記シェブナ、および、アサフの子である参議ヨアフが、彼のもとに出て行った」という出来事がありました。ちなみに、このことについてはセナケリブが残した文献「ティーラ・プリズム」(大英博物館に貯蔵)に残されています。
この時、エルサレムを実際にアッシリヤは包囲する形となるのですが、実は↑では描かれていない問題、記録が列王記という書簡に残されています。そこには、「ヒゼキヤ王の第十四年に、アッシリヤの王セナケリブが、ユダのすべての城壁のある町々を攻めて、これを取った。そこでユダの王ヒゼキヤはラキシュのアッシリヤの王のところに人をやって、言った。『私は罪を犯しました。私のところから引き揚げてください。あなたが私に課せられるものは何でも負いますから。』そこで、アッシリヤの王は銀三百タラントと、金三十タラントを、ユダの王ヒゼキヤに要求した。ヒゼキヤは主の宮と王宮の宝物倉にある銀を全部渡した。そのとき、ヒゼキヤは、ユダの王が金を張りつけた主の本堂のとびらと柱から金をはぎ取り、これをアッシリヤの王に渡した」と記されています。
なぜそんなことが、と思うところですが、ヒゼキヤはこの治世の第14年までの間、先代アハズ王の時代に国を堕落させた偶像を取り壊し、神殿礼拝を回復させ、さらには、北イスラエルの残された人々にも過越の祭りに参加するように招き、宗教改革を敢行した人だったのですが、ヒゼキヤ王の時代にまさに、大きな試練がやって来たのです。そしてここでどうするかがある意味問われていた、形的には宗教改革を行っているように見える、今こそ神様に頼るか、それとも神様に信頼せず、降伏するか。
ヒゼキヤはこれまで、どこにいっても戦いで勝利を収めました。それゆえにアッシリヤにも服従しませんでした。これがアッシリヤの怒りを買い、先ほどの列王記の記録にあるように、結局アッシリヤの巧妙で、そして強靭な攻撃を目の前にして、ヒゼキヤ王はうろたえ、アッシリヤに何とか退いてもらえないか、と金銀を支払い、王宮の宝物庫にあるものさえ渡すのです。
この背景を見ると、アッシリヤのラブ・シャケの「ヒゼキヤに伝えよ。大王、アッシリヤの王がこう言っておられる。いったい、おまえは何に拠り頼んでいるのか。口先だけのことばが、戦略であり戦力だと思い込んでいるのか。今、おまえはだれに拠り頼んで私に反逆するのか」という言葉も、あながちただ罵っているわけではないことがわかりますね。
実際ヒゼキヤはこれまでの宗教改革がある意味で形だけのものになっていたことも、このヒゼキヤ王の行動から分からないこともありません。そしてこれは私たちも考えなければいけないことなのではないでしょうか。このような時に綿たちは何に頼るのか、本当の意味で神様に立ち返ることを。
確かに、アッシリヤは相手に恐怖を植え付ける方法に長けていました。北イスラエルを倒すとき、直接、首都のサマリヤを倒すことはしません。周囲の北イスラエルの町々を倒し、そして捕囚の民として連れて行き、その悲惨な姿を残されたサマリヤの住民に見せつけたのです。それからサマリヤを包囲して、彼らが降参するのを待ちました。
この方法を今アッシリヤは南ユダに対しても行ないました。直接エルサレムに行かずに南下して、エルサレムの北にあるユダの町々を倒し、それからさらに南下して地中海に面した町々を倒し、それからエルサレムのほうに南から近づいていきました。↑に出てくる「ラキシュ」という町から、アッシリヤの王はエルサレムに大軍を送りましたが、ラキシュはエルサレムの南東50キロほどのところにあります。どうもこの辺りの遺跡の発掘で約15万体の住民の遺骨が出てきたということですが、そこに住む住民をそれだけ虐殺されていたのです。人の目から見たら、もう降参するしかないような状況です。
しかし、本当に何も残されていなかったのでしょうか。ここが私たちに問われるのです。神様はそんなこの世の何かに劣るような存在なのでしょうか。あなたはそう考えますか?ヒゼキヤ王にもこれが問われていたのです。彼らは確かに一度はアッシリヤに金銀をもってなんとかことをおさめてもらおうと試みましたが、それは失敗しました。しかし今度はどうするのか。
神様は金銀によっていいでしょう、助けましょう・叶えましょう、いや助けない・叶えない、などとされる神様ではありません、神様は私たちの心を見られる方ですから。実際に、北イスラエルも、先ほども申し上げました通り、同じ方法をもって陥落されましたが、神様はそれまで多くの預言者を通して、何とか救われることを願い、語り掛け続けていた、その御手を伸ばされていた、それにもかかわらず彼らは神様に頼って何になる、と拒否し、結果として北イスラエルは陥落しました。神様は御手を伸ばされている、どんな状況下にあっても、神様を陥落させるものは何者も存在しません。その神様をヒゼキヤ王は、私たちは信頼しぬくか、問われているのです。
ヒゼキヤは↑の状況になる前に、金銀によってアッシリヤをなだめようとしました。しかし、金銀によっては完全に相手をなだめたりすることはできませんし、あなたを救うことはできません。結局この世は金、なんていう人もいますが、それに振り回されて、人生を無茶苦茶にされた方も多くいるでしょう、また金金金、としている為政者も今どんな状況にあるかを考えれば言うまでもありません。しかし、この天地万物を造られすべ治められる神様はこの世の金銀に勝る、神殿に使われていた金銀も引きはがされたと言いますが、しかしあなたを覆う神様の愛をあなたから引きはがすことはできないのです。この世の金銀に勝るイエス様の命を持ってまで神様はあなたを救おうとされた、それだけの神様がイエス様の命という代価を支払われた方が成される御業にどうして信頼せずにいられましょう。
今ラブシャケは「ヒゼキヤに伝えよ。大王、アッシリヤの王がこう言っておられる。いったい、おまえは何に拠り頼んでいるのか。口先だけのことばが、戦略であり戦力だと思い込んでいるのか。今、おまえはだれに拠り頼んで私に反逆するのか。おまえは、あのいたんだ葦の杖、エジプトに拠り頼んでいるが、これは、それに寄りかかる者の手を刺し通すだけだ。エジプトの王、パロは、すべて彼に拠り頼む者たちにそうするのだ。おまえは私に【われわれは、われわれの神、主に拠り頼む】と言う。その主とは、ヒゼキヤが高き所と祭壇を取り除いておいて、ユダとエルサレムに向かい【この祭壇の前で拝め】と言ったそういう主ではないか、と。さあ、今、私の主君、アッシリヤの王と、かけをしないか。もしおまえのほうで乗り手をそろえることができれば、私はおまえに二千頭の馬を与えよう。おまえは戦車と騎兵のことでエジプトに拠り頼んでいるが、私の主君の最も小さい家来のひとりの総督をさえ撃退することはできないのだ。今、私がこの国を滅ぼすために上って来たのは、主をさしおいてのことであろうか。主が私に【この国に攻め上って、これを滅ぼせ】と言われたのだ」と言っています。
あなたは今日、何により頼みますか?私たちは私たちを苦しめる存在にはっきりと、救い主イエス様に、私の罪を身代わりに背負ってまで救ってくださったイエス様により頼みます!もう神様に反逆しません!とはっきりと突き返す、神様に告白しようではありませんか。あなたを苦しめる存在、またサタンが「主はこういわれる」と勝手なことを言ってこようが、私たちは神様の言葉にしっかりと耳を傾け、神様がどれだけ偉大な愛をイエス様にあって示してくださったのか、この十字架を見上げ続けようではありませんか。どうしてイエス様の十字架にあって救われたのに、これを滅ぼせ、などと神様が言うでしょう。むしろその神様が導かれる本当の命の道を歩ませていただきたいものです。欠けをする関係ではない、イエス様いのちにあって結ばれた子の真の命の内に、神様に全幅の信頼を置き、この2024年も歩みたいものです。