―マスタープラン― | 子育て休職中牧師の聖書のおはなし

子育て休職中牧師の聖書のおはなし

東京で牧師をしておりましたが、子育てのため一時的に北海道に移住しました。
「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と語られた神様からのラブレター・聖書から少しずつ分かち合わせていただきますね(*^_^*)

「国々よ。近づいて聞け。諸国の民よ。耳を傾けよ。地と、それに満ちるもの、世界と、そこから生え出たすべてのものよ。聞け。主がすべての国に向かって怒り、すべての軍勢に向かって憤り、彼らを聖絶し、彼らが虐殺されるままにされたからだ。彼らの殺された者は投げやられ、その死体は悪臭を放ち、山々は、その血によって溶ける。天の万象は朽ち果て、天は巻き物のように巻かれる。その万象は、枯れ落ちる。ぶどうの木から葉が枯れ落ちるように。いちじくの木から葉が枯れ落ちるように。天ではわたしの剣に血がしみ込んでいる。見よ。これがエドムの上に下り、わたしが聖絶すると定めた民の上に下るからだ。主の剣は血で満ち、脂肪で肥えている。子羊ややぎの血と、雄羊の腎臓の脂肪で肥えている。主がボツラでいけにえをほふり、エドムの地で大虐殺をされるからだ。野牛は彼らとともに、雄牛は荒馬とともに倒れる。彼らの地には血がしみ込み、その土は脂肪で肥える。それは主の復讐の日であり、シオンの訴えのために仇を返す年である。エドムの川はピッチに、その土は硫黄に変わり、その地は燃えるピッチになる。それは夜も昼も消えず、いつまでもその煙は立ち上る。そこは代々にわたって、廃墟となり、だれも、もうそこを通る者はない。ペリカンと針ねずみがそこをわがものとし、みみずくと烏がそこに住む。主はその上に虚空の測りなわを張り、虚無のおもりを下げられる。そのおもだった人たちのうち、王権を宣言する者が、だれもそこにはいない。すべての首長たちもいなくなる。そこの宮殿にはいばらが生え、要塞にはいらくさやあざみが生え、ジャッカルの住みか、だちょうの住む所となる。荒野の獣は山犬に会い、野やぎはその友を呼ぶ。そこにはこうもりもいこい、自分の休み場を見つける。蛇もそこに巣を作って卵を産み、それをかえして、自分の陰に集める。とびもそれぞれ自分の連れ合いとそこに集まる。主の書物を調べて読め。これらのもののうちどれも失われていない。それぞれ自分の連れ合いを欠くものはいない。それは、主の口がこれを命じ、主の御霊が、これらを集めたからである。主はこれらのもののために受ける割り当てをくじで定め、御手が測りなわで測ってこれを分け与えたので、とこしえまでも彼らはこれを所有し、代々にわたって、ここに住む。」

イザヤ書34章1-17節

 

今年も思い返してみると色々ありましたよね。私も様々な事があり、時につらい時もあれば、ああ、感謝だ、と思えることもたくさんありました。ただ、神様は私たちをある時だけ祝福される、ある時は放置される、とかそういう方ではない、神様は完全なマスタープランを持っておられ、神様はその御手を伸ばし今日も導いておられるのです。だからこそ私たちはこの神様にゆだね、歩もうではありませんか。今日、明日、これからも、確かにそこにご自身の命を惜しまなかったイエス様がおられるから。

 

さて、↑は古代イスラエル王国分裂後、北イスラエル王国がアッシリヤによって滅ぼされ、南ユダはアハズ王が死んで後、ヒゼキヤ王の治世に入る、そのころに預言者イザヤを通して語られたことばになります。ここまでは、神様は私たちの内に神様にある完全なご統治、いのちある御国を広げてくださること、何より私たちの内にある問題と麗しの王たる神様が共に戦ってくださり、これに勝ち得てくださり、ついには真の平安をもたらしてくださることなどを見ました。

 

さて、↑の34章から次の35章までは神様の最後の審判と、完全な回復、黙示録的な要素が登場します。それですから、↑を読んだ方はなかなか厳しい内容だ、と思われた方も多いでしょう。しかし、終わりの時が来る前にこの預言が語られているということは、願わくばそうなってほしくない、だから神様は語られているのです。この預言が語られている時は、イスラエルは堕落し、多くの問題をはらんでいる時です。だからこそ、今終わりの時におこる裁きと回復を語りながら、この回復に向けて神様は彼らを導こうとされていることを示されたのです、私たちに向けても。

 

ということで神様はイザヤを通して「国々よ。近づいて聞け。諸国の民よ。耳を傾けよ。地と、それに満ちるもの、世界と、そこから生え出たすべてのものよ。聞け。主がすべての国に向かって怒り、すべての軍勢に向かって憤り、彼らを聖絶し、彼らが虐殺されるままにされたからだ。彼らの殺された者は投げやられ、その死体は悪臭を放ち、山々は、その血によって溶ける。天の万象は朽ち果て、天は巻き物のように巻かれる。その万象は、枯れ落ちる。ぶどうの木から葉が枯れ落ちるように。いちじくの木から葉が枯れ落ちるように」と啓示されます。

 

まず神様は全世界に向けて語られます。一部の人、イスラエル、もしくはそれを攻撃していた国々だけではありません。ここで何が語られているのか、冷静によく読み考えなければいけません。この、神様がすべての国に向かって怒り、すべての軍勢に向かって憤る時がやって来るというのは、世の終わりにもたらされる患難時代と、その後に起こるこの世における最後の戦いであるハルマゲドンの戦いと呼ばれるものの預言になります。

 

それで、ここにある「彼らを聖絶し」とか、「彼らが虐殺される」というのは、イザヤの時代で言えばアッシリヤに対する神のさばきのことを指しているのですが、同時に、この世の終わりに起こるハルマゲドンの戦いの描写にあたるもので、イエス様を拒絶したこの罪の世界に対する神の怒りの時のことを指しています。これは実は、このイザヤの黙示録から後の時代、700年近くたったあと、イエス様が人となって生まれてこられ、十字架にかかられ死なれ、3日目によみがえられて後、昇天された、その後イエス様の12弟子のひとりだったヨハネにイエス様は啓示として同じような事を語られています。ヨハネの黙示録という書簡の6章から19章までに記載されているので、もし興味のある方は、ネット等でも読むことはできるのでよければ読んでください。聖書も、お近くの教会に行けば貸して下さったりするでしょう。

 

それで、最後の戦いにおいて、神様は敵である悪魔を虐殺して、勝利するのです。これはクリスマス時期に分かち合わせていただきました、ダムとエヴァがサタンの誘惑により罪を犯し、死が入ってきてしまった、このサタンへの裁きです。そして預言通り、「彼らの殺された者は投げやられ、その死体は悪臭を放ち、山々は、その血によって溶ける」ようになるのです。

 

それだけではありません。↑で神様がイザヤを通して語られているように、天の万象は朽ち果て、天は巻き物のように巻かれる、というのです。そして、ぶどうの木から葉が枯れ落ちるように、いちじくの木から葉が枯れ落ちるように天の万象は、枯れ落ちるのです。

 

どうして神様はそのような事をなされるのか。それは私たち人間が罪を犯したからです。かつて最初の人アダムとエバが罪を犯したとき、この地は呪われたものとなりました。そして自然も含めた全世界が呪われます。神様が非常に良かった、と言われていた完璧な創造の姿を失ってしまったのです。しかし、神様はそれでもこれを回復させ、神様の恵みの中にもう一度招きたい、と回復させるために、古いものを終わらせ、新しい新天新地、イエス様のご統治される千年王国、御国を来たらせてくださるのです。本来、サタンと共に、またこの滅びゆく地を逆に相続するはずのところを、むしろこの新しい、回復された御国を相続させてくださるのです。様々なものによって壊されたあなたではなく、この地ではなく、神様がすべ治め、全地を良いもので満たすその前味を私たちは味わわせていただけるのです。神様のもとに立ち返る時。

 

パウロという人は、「被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです」と手紙で書き送りますが、私たちもまた被造物です。神様にあって造られたものです。自然界や動物たちでさえ贖いの日を待ち望んでいるのに、この回復を待ち望んでいるのにあなたはどうですか?罪に汚れたこの世が刷新され、全く新しい世界が創造される御国、回復された神様のとの関係を待ち望んでいますか。↑の最初の国々への裁き、怖く最初は見えていましたが、これはある意味ではサタンへの神様の完全勝利を預言されたものです。このサタンの呪い、働きが打ち砕かれ、神様がすべてを回復されることを待ち望みたいものです。国々の回復、あなたの回復、またあなたのまわりの人たちの回復を切に祈りたいものです。

 

なお続けて神様は「天ではわたしの剣に血がしみ込んでいる。見よ。これがエドムの上に下り、わたしが聖絶すると定めた民の上に下るからだ…」と語られます。今度はエドムに対しての宣告になります。エドムについてこれまでのイザヤ書の中でも何度か触れてきましたが、エドムはヤコブの兄エサウから出た氏族の総称です。そのエドムは弟部族のヤコブの子孫を憎み続け、その執念深い恨みには冷酷さがあります。詩篇137篇では、歌い手は、「主よ。エルサレムの日に、『破壊せよ。破壊せよ。その基までも。』と言ったエドムの子らを思い出してください」と言い放たれるほどエドムはイスラエルを苦しめ続けたのです。

 

そんな彼らに、他の預言者オバデヤを通して神様は「あなたの兄弟、ヤコブへの暴虐のために、恥があなたをおおい、あなたは永遠に絶やされる」と預言されます。それは必ず起こる、神様が起こされる、と。そう、神様は今まさにイスラエルの民の訴えのために仇を返す復讐の時が来ることを預言されているのです。

 

そう、今まさに裁きから救うために神様は語られる。ここではエドムが取り上げられていますが、あなたのまわりには様々あなたを悩ませ、苦しめるものがあるかもしれません。しかし、神様はそれでもこの裁きの宣告ゆえに逆にその人たちが悔い改めたら、どれだけのことが起きるでしょう。永遠の燃える硫黄ではなく神様の恵みに立ち返り生きる時、どれだけの恵みが溢れることでしょう。全地の呪いから解き放たれ、回復するなら、どれだけの神様の御業が溢れることでしょう。

 

しかし、そもそも私達だって本来神様から離れていたのですから、↑で語られている通り、永遠の炎で焼かれてもおかしくない、しかしそうではなく私たちが神様に立ち返る時、私たちは裁きではなく回復、救い、恵みを受ける、永遠の命の内に、御子イエス様のいのちゆえにもう一度与えられた、回復させられた復活の命に生きることが赦されるのです。私たちは確かにサタン、世の罪ゆえに様々な中を通ることがあります。しかし神様はこの永遠の命、救い、呪いから解き放ちいのちへと招こうとそのマスタープランをもってあなたを導かれる、共におられるのです。

 

↑の最後で神様はイザヤを通して「主の書物を調べて読め。これらのもののうちどれも失われていない。それぞれ自分の連れ合いを欠くものはいない。それは、主の口がこれを命じ、主の御霊が、これらを集めたからである。主はこれらのもののために受ける割り当てをくじで定め、御手が測りなわで測ってこれを分け与えたので、とこしえまでも彼らはこれを所有し、代々にわたって、ここに住む」と語られていますが、私たちは神様を疑う前に、神様に立ち返り祈ろう。神様は語られる。あなたに欠けがないように御子イエス様の命さえ惜しまず与えられたのだから。この神様の御言葉を日々読み、祈り、この御言葉を味わいつくさせていただこうではありませんか。神様がとこしえに私たちを住まわせてくださる、その恵み一端に今、与らせていただけているのだから、この神様が戦われ、勝ち得たこの命の内に神様がなして下さる大いなる計画に信頼し、従い歩みたいものです。