「イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。『ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。』このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。『見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。」
マタイによる福音書1章18-25節
クリスマス、今から約2000年ほど前に神の御子イエス様が生まれてからだいぶ月日が経ちましたから、様々な人にそれぞれ思い出がある事でしょう。皆さんはどんな思い出がありますか?ちなみに私は中学3年生のクリスマスに洗礼を受けさせていただいたことを覚えています。だいぶ私自身先送りにしていたといいますか、自身の中ではっきりするまでは、と先延ばしにしていた中、ついに、という感じでした。そう、クリスマスにイエス様は何となく旅行気分で来られたのではなく、あなたという人と出会い、あなたを救うために来られました。今日あなたはこのイエス様をどう受け止めていますか。あなたのクリスマスはただのイベントで終わっていませんか。神様の与えてくださる本当のクリスマス、いのちの内を歩ませていただこうではありませんか。
さて、↑は今から約2000年ほど前に神の御子たるイエス様がお生まれになる少し前の話になります。マリヤが処女で聖霊様によって身ごもってイエス様を出産したことはまあ、おおよその方は知っているかもしれませんが、マリヤの夫はどうだったのか、それが今回の箇所に記されています。
それで、そのマリヤには婚約者のヨセフという人がいたのですが、マリヤが懐妊した、という話を聞き、どうしたものかと迷います。といいますのも、当時のそのような姦淫は石打の刑に処せられるのです。ヨセフはまだマリヤが聖霊様によって身ごもったことを知りません。婚約者としてどうしたらいいのか、彼は思い悩みました。もちろん、今マリヤが身ごもっている子が救い主とは彼はもちろん知らない。ただ、彼にとってクリスマスは自分とはある意味で遠く離れた出来事になりかけていたのです。
そんな中で神様は御使いを遣わし、マリヤの夫となるヨセフに「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」と告げるのでした。ここでヨセフは問われるのです。この子は約束された救い主であり、神様が今与えようとされている、このイエス様を受け入れるかどうか。もちろん彼が拒否しても、他の方法をもって神様は誕生させてくださったでしょう。
神様はただ、マリヤだけではなく、ヨセフにも、そして私たちにもクリスマスの恵みを与えようと今彼に問いかけているのです。クリスマスはイベントでも何でもない、あなたのために神様が届けてくださったあい、他人事でも何でもない、あなたにもこの喜びの知らせを届けてくださった、マリヤだけではない、あなたも恵まれた方とするために。
結局ヨセフは、眠りからさめた時、これをただの夢として終わらせるのではなく、神様の使いに命じられたとおりにして、そのマリヤを迎え入れ、そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスと名付けたのでした。この子は確かに神様が約束された子であり、私とも共にいてくださる間違いのない救い主なんだ、と生まれてきた神の御子を「イエス」と名付けるのでした。
ヨセフにとって受け入れることはある意味で大きな決断だったように、イエス様を受け入れるということは大きな決断かもしれません。しかし、そのあなたの決断の内にイエス様が本当のクリスマスとしてあなたに現され、その恵みを広げてくださるのです。もうイエス様のクリスマスから始まった新しい命、救いは始まっているのです。あなたはこれをどう受け取るでしょうか。神様はヨセフにもその喜びの知らせを届けてくださったように、あなたを他人として見て捨てるのではなく、あなたを神様の子として迎え入れて、イエス様が私たちの子となるのではなく、私たちを神様の家族として迎え入れてくださるのです。私たちがイエス様を自分の生涯に、他人事としてではなく自分のための救いとして受け入れる時。
イエス様の愛は、神の御子であられながらそのありようを捨てられないとは考えずに、貧しき大工の家に生まれてこられ、それだけではなく、私たちの間に住まわれ、そして時が来ては慣れたのではない、私たちを永遠の命の内に導くため、私たちの罪を身代わりに背負われ、十字架にかかられ、死なれたのです。そして陰府に降られ、私たちを引き上げて神様の家族として迎え入れられたのです。イエス様が中心にいるマリヤとヨセフの家のように、私たちの内にこれほどの愛、命がけの愛をなされたイエス様が住まわれ、世の終わりまであなたを導かれる。クリスマスはクリスマスで終わらず、ここから始まるのです。
ヨセフは御使いを通した神様の招きに答えました。あなたはどうでしょう。あのクリスマスは昔の出来事ではなく、今あなたを招かれている、それは変わりません。神様は遠いところにおられる方、昔何かされた方、ではなく、あなたを神様の家族、恵みの内に招かれ、その栄光を、御心を現す、ご計画をあなたを通して広げてくださるのです。この神様の命がけの愛に今日、あなたはどう応答するでしょうか。