―天国と地獄― | 子育て休職中牧師の聖書のおはなし

子育て休職中牧師の聖書のおはなし

東京で牧師をしておりましたが、子育てのため一時的に北海道に移住しました。
「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と語られた神様からのラブレター・聖書から少しずつ分かち合わせていただきますね(*^_^*)

「見よ。主の御名が遠くから来る。その怒りは燃え、その燃え上がることはものすごく、くちびるは憤りで満ち、舌は焼き尽くす火のようだ。その息は、ほとばしって、首に達するあふれる流れのようだ。破滅のふるいで国々をふるい、迷い出させる手綱を、国々の民のあごにかける。あなたがたは、祭りを祝う夜のように歌い、主の山、イスラエルの岩に行くために、笛に合わせて進む者のように心楽しむ。しかし、主は威厳のある御声を聞かせ、激しい怒りと、焼き尽くす火の炎と、大雨と、あらしと、雹の石をもって、御腕の下るのを示される。主の御声を聞いてアッシリヤはおののく。主が杖でこれを打たれるからだ。主がこれに下す懲らしめのむちのしなうごとに、タンバリンと立琴が鳴らされる。主は武器を振り動かして、これと戦う。すでにトフェテも整えられ、特に王のために備えられているからだ。それは深く、広くされてあり、そこには火とたきぎとが多く積んである。主の息は硫黄の流れのように、それを燃やす。」

イザヤ書30章27-33節

 

私が小学生のころ、手を使って「天国・地獄・大地獄」なんてやるのがはやっていました。それで、お前は大地獄な、なんて言われた時にはとてもショックを受けたように思います。またそれを占うかのように普通の人が宣告する怖さ、その遊びを今考えると覚えます。ただ神様はそんなてきとうに、あなたは天国、あなたは地獄とかそんなことをされない。まず神様は私たちを天国に引き上げる、救うために、人となって生まれてこられ、その重荷を背負われ、命を投げ出してまで十字架にかかられた。この命がけの愛があなたに今日注がれているのです。私たちはこの愛をどれだけ受け取っているでしょうか。今日この愛に身を委ね、歩ませていただこうではありませんか。

 

さて、↑は古代イスラエル王国分裂後、北イスラエル王国がアッシリヤによって滅ぼされ、南ユダはアハズ王が死んで後、ヒゼキヤ王の治世に入る、そのころに預言者イザヤを通して語られたことばになります。イザヤに神様が啓示された終わりの時のメッセージに続き、再びイスラエルについて神様は語られます。↑の前では酔いどれのようにではなく、御霊に満たされること、また神様は純粋な愛、あなたが救われることを願い語られ、御子イエス様の命さえ惜しまなかった、私たちの内に朽ちることのない命の石を、礎を据えられたこと、その神様の愛の火は燃え続けていること、またイエス様によるリバイバル、全人的回復が起こること、何よりその命はイエス様の十字架にあって練りに練られた愛が注がれること、イエス様ご自身が私たちと共に天の御国にまで導いて下さる事などを見てきました。

 

昨日の分かち合いで、早馬のように敵が来ようとも、神様は遅れることなく救いに来られることを見ましたが、神様はこのことについてイザヤを通してなお、「見よ。主の御名が遠くから来る。その怒りは燃え、その燃え上がることはものすごく、くちびるは憤りで満ち、舌は焼き尽くす火のようだ。その息は、ほとばしって、首に達するあふれる流れのようだ。破滅のふるいで国々をふるい、迷い出させる手綱を、国々の民のあごにかける」と語られます。

 

昨日の分かち合いで触れましたが、ユダ・イスラエルは「神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。『立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。』しかし、あなたがたは、これを望まなかった。あなたがたは言った。『いや、私たちは馬に乗って逃げよう。』それなら、あなたがたは逃げてみよ。『私たちは早馬に乗って。』それなら、あなたがたの追っ手はなお速い」と言われるほどの状況、エジプトに頼る、それ以上に神様に頼ろうとしない、だからやれるものならやってごらん、と言われていた、それでも神様は憐れまれた、↑の前で「それゆえ、主はあなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。主は正義の神であるからだ」神様が宣言された通り、神様はそれでも恵みを注ぎたいのです。

 

それゆえに、そのユダ・イスラエルユダを苦しめていたアッシリヤをさばくために、神様が来られると宣言されているのです、主の御名が遠くから来る、と。遠いの?と思われるかもしれませんが、神様は決して遠くはなれているわけではありません確かに私たちが何か問題に直面するとき、神様が遠く感じる事があるかもしれませんが、しかし、それはどちらが動いたのか、考えてみてください、私たちがむしろ神様を信頼できず離れてしまった、遠く離れてしまったのではないでしょうか。

 

しかし神様はこの遠く離れた私たちを見捨てるのではなく、その埋めがたい距離を一瞬にして縮める、躊躇することなく、今から約2000年前に人となってお生まれになられ、人の間に住まわれたのです。神様でありながらそのありようを捨てられないとは考えずに。それこそ、ある意味で私たちの地獄を神様の恵みに、天国に変えるために。神様は遠く離れて何もしない、戦われない方ではない、神様はあなたのために戦われる神様であるということを忘れてはいけません。むしろ私たちが神様と戦ってさらにはなれることがないよう、私たちは神様の恵みをしっかりと受け取り歩みたいものです。

 

話を↑に戻して、神様はなおイザヤを通して「あなたがたは、祭りを祝う夜のように歌い、主の山、イスラエルの岩に行くために、笛に合わせて進む者のように心楽しむ」と語られます。これを聞いてふと考えたのですが、この祭りをだれが行わせてくださるんだろう、ということ。もちろん、神様が私たちを回復させて下さり、祭りを祝う夜のような楽しみを回復させてくださるんだろう、という側面もあります。

 

しかし一方で、イエス様がされた放蕩息子の話を思い返すとそうでもないのです。その放蕩息子は、父親(神様)から離れて好きに生きたい、と父親が生きているうちに父親から財産を分けてもらい、街で好き放題するのですが、飢饉が訪れて食べるものに困って豚のエサさえ食べることを望むほどでした。しかし、彼は我に返り、父のところに帰って、使用人としてでもいいから受け入れてもらえたら、と戻るのですが、そこで謝ったところ、「父(神様)が」彼のために宴会を用意したのです。最高の着物と食事を用意し、周りも驚くほどの宴会を神様が。

 

イエス様はこの時、「ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです」と仰られていました。あなたが命を得る事、それほどの喜びはなく、その時まさに大いなる宴会が広げられるのです。そこにその放蕩息子が召使としてではなく子として受け入れられ、招かれたように、あなたもこの驚くべき喜びに招かれるのです。

 

それはね、世の中きれいごとばかりじゃない、クリスマスクリスマス言っていられない、という人もいるでしょう。しかし、↑の最初で見ました通り、神様が遠く離れた距離をないものにするべく、まずイエス様が私たちのところにお生まれになってくださった、ということを忘れてはいけません。イエス様はちやほやされるために来られたわけではなく、むしろ私たちの内に住まわれ、同じ重荷を背負い、その中に御国を、神様の御心を、恵みを広げてくださったように、あなたのうちにも広げてくださる、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」、とイエス様が宣言された通り、イエス様が近づけてくださった、まさにここにイエス様は現して下さるのです、天の御国を。イエス様から目を離す、別な方向に進むのではなく、イエス様の示され導かれる道を進ませていただこう、イエス様があなたの内に御国を来たらせ、御心をなして下さるから。

 

一方で神様はイザヤを通して「しかし、主は威厳のある御声を聞かせ、激しい怒りと、焼き尽くす火の炎と、大雨と、あらしと、雹の石をもって、御腕の下るのを示される。主の御声を聞いてアッシリヤはおののく。主が杖でこれを打たれるからだ。主がこれに下す懲らしめのむちのしなうごとに、タンバリンと立琴が鳴らされる。主は武器を振り動かして、これと戦う。すでにトフェテも整えられ、特に王のために備えられているからだ。それは深く、広くされてあり、そこには火とたきぎとが多く積んである。主の息は硫黄の流れのように、それを燃やす」と裁きの宣告、地獄についても語られます。

 

まあ、このイザヤの語られている時の状況を考えれば、この裁きの対象はアッシリヤ帝国になるのですが、そのアッシリヤ帝国に対する神様のさばきはユダにとっては喜びの回復の時ですが、アッシリヤにとってはそうではないですよね。彼らにとっては恐怖と嘆きの時です。アッシリヤに対する神様の怒りは「威厳のある御声、激しい怒り、焼き尽くす火の炎、大雨、あらし、雹の石」となり、神様の怒りにアッシリヤは全く気力を失うのです。

 

これはある意味で私たちにとっては希望ですね。私たちを打ち砕こうとするもの、神様から引き離そうとするもの、そうしたものに神様は裁きを宣告されているのです。彼らの力は弱まり、そして神様の御業によって私たちは逆に喜びの回復を得るのですから。

 

ただ、ここで地獄について語られていることについて厳粛に私たちは受け止めなければなりません。神様がある、と仰られていることに。↑の「トフェテ」というのが地獄のことを指すようで、ほかの訳では火葬場、ギリシャ語ですと、ゲヘナ。そこは永遠に燃え続ける火で焼かれる所です。多くの人が死んだら終わりだと考えていますが、実際は違います。死んだらその体は朽ちて滅びますが、たましいは天国か地獄に行くのです。天国はさきほども見たように喜びに見た溢れたところです。もはや悲しみ、叫び、苦しみもありません。なぜなら、以前のものが、過ぎ去ったからです。この地上のものを引きずることはありません。全く悲しみや叫びや苦しみがない所、それが天国です。

 

地獄の話をすると、あれこれいわれそうなのですが、本来ここはサタンの落ちるはずの場所。そして私たちは本来エデンの園と言いますか、神様の住まうところにとどまらせていただける、永遠に住まわせていただけるはずだったのです。ところが人は神様から離れ、エデンの園から離れ(厳密には追放)てしまい、このゲヘナと言いますか地獄に向かっていくはずだったのです。

 

しかしそのまま私たちが滅びゆくことを放置できない神様は、本来エデンの園から追放され、埋めることのできない隔たりがあったところを、天国と地獄の間を本来行き来できず永遠に滅びるところを、御子イエス様がこれをないものにするために、繰り返しになりますが、来られたのです。そして来られただけではなく、私たちのこの神様を神様とせず、好き勝手に神様のおられるところから離れ、永遠の滅びに向かうはずの私たちを、御子イエス様が私たちのこの罪の身代わりに十字架にかかられ、死なれたのです。そして死んですぐに生き返ったのではなく、私たちのこの滅びの道から引き上げるため陰府に降られ、そして3日目によみがえられたのです。

 

本来遠く離れ、断絶されたはずの私たちを救うため、あなたを救いに来られたイエス様、負う必要のない私たちの罪を身代わりに背負ってまであなたを救いに来られた、そこまでされたイエス様があなたにどれだけの計画を持っているか想像つきますか?あなたを回復させ、取り戻し、この宴会に、天の御国、永遠の命に今日招かれているのです。私たちはもう地獄、罪によって神様のくださったいのちを失ってはいけない。神様のくださる一つ一つの恵み、イエス様の命にあって広げられた天の御国の前味、恵みに生かされ、歩ませていただこうではありませんか。