「宮に入られたイエスは、商売人たちを追い出し始め、こう言われた。『【わたしの家は、祈りの家でなければならない】と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にした。』イエスは毎日、宮で教えておられた。祭司長、律法学者、民のおもだった者たちは、イエスを殺そうとねらっていたが、どうしてよいかわからなかった。民衆がみな、熱心にイエスの話に耳を傾けていたからである。」
ルカによる福音書19章45-48節
家を持っている人、まあ持っていなくても、子どものころ、自分の部屋があった人なら、そこをイメージするとわかりやすいかもしれませんが、やはりその家、部屋をいいものにしようと色々考えますよね。そして何か問題があればそれを何とかしようと改善するものです。そのアドバイスは時に自分の思う通りではない時もあるかもしれませんね。では、あなたという家についてはどうでしょうか。神様はあなたを住まいとし、よいもので満たそうとあなたのところを訪ねてこられます。あなたを命で満たすため。あなたはこの神様の招きにどうこたえるでしょうか。
さて、↑は神の御子たるイエス様が人となってお生まれになり、その公生涯を歩み続け、様々な人を癒し、救い、また悔い改めに導かれ、ついに十字架にかかる時が近づきエルサレムに入場され、イエス様は宮に入られると、何とイエス様はそこにいる商売人たちを追い出し始め、「『わたしの家は、祈りの家でなければならない』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にした」と聖なる怒りをもってそこを「聖め」るという出来事がありました。
え?イエス様が怒るの?商売の何が問題なの?と様々疑問が出てくるかもしれません。まず、この場所が神殿で、人々が神様を求め、何とか救いを得たいと集まってくる場所なのですが、そこで捧げるいけにを彼らは売っていたのです。もちろん神殿にくる人たちは、それこそこれまで旧約聖書で見たいけにえの規定通り携えてきていたのです。ところが、この商売人たちは自分たちが設けるために、彼らの神様への思いを踏みにじるかのように、そのいけにえに傷をつけ、自分たちの用意しているいけにえを高く売りつけていたのです。さらに、このいけにえを買うために、ローマ帝国の日常使われている貨幣を、古い日常使っていないユダヤの貨幣に割の合わないレートで両替させられるのです。
もっというなら、この神殿はどういうわけか区分けされていて、最も聖なる場所にはユダヤ人、成人、男性、健常者しか入ることが許されませんでした。そこでなされる祈りはヘブライ語のみですからヘブライ語を話さない外国人にとってはここに加わることはある意味できません。また非ユダヤ人、子ども、非男性、しょうがい者、また申しました通り、ヘブライ語を話さない人にとって、そこは神様の住まう神殿のはずが、多比入れなかったのです。そして先ほどの商売人、両替の件からもわかる通り、経済的に貧しい人も実質的にここに入ることはできませんでした。
一体どうしたことでしょう。それはイエス様も悲しまれますよ。実はこの神殿が一番最初にたてられた、ソロモン王の時代、といいますか、建てる前に、ダビデとソロモンに対して神様は「わたしは、この宮に、わたしがイスラエルの全部族の中から選んだエルサレムに、わたしの名をとこしえに置く」と約束されました。また神殿が建てられた時、神様はソロモンに、「わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。今や、わたしはこの所でささげられる祈りに目を留め、耳を傾けよう。今、わたしは、とこしえまでもそこにわたしの名を置くためにこの宮を選んで聖別した。わたしの目とわたしの心は、いつもそこにある」と約束されていたのです。
そう、神様の名前、神様ご自身がそこにおられる場所、私たちと神様が命の交流をなして下さると約束された場所から神様を排除し、神様を求める人たちを締め出してしまっていたのです。イエス様はただ商売云々のことを怒られたわけではない、なぜ神様と私たちの交流の場、回復の場がそのように汚されなければいけないのか、もう一度祈りの家として、天と地がつながる祈り、その祈りで、その神様のこたえ、恵みで満ち溢れる場所へと回復させるため、商売人を追い出し、その商売道具などもひっくり返されたのです。
昨日ちょうど分かち合った中で、イエス様が「聞いて悟りなさい。口に入る物は人を汚しません。しかし、口から出るもの、これが人を汚します」と仰られた箇所を少しとり上げさせていただきましたが、イエス様は、汚れたものではなく、私たちを神様から引き離すものではなく、よいもので満たすために、来られた、その口から語られなされる御業、御心、愛で満たすためにいま、この神殿に来られたのです。今から約2000年前のクリスマス(実際は12月ではありませんが)に来られたのです。この神殿だけではない、あなたという家を、神様の住まわれ、その恵みで満たされる家として回復させるために。
もう一度神様との関係を回復させるため、ここに十字架をたて、その十字架に私たちが神様から追い出されて終わらないよう、私たちの罪を身代わりにイエス様が背負われ、かかられ、死なれたのです。しかし3日目によみがえられたことによって、このイエス様の十字架の前に悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子として回復させてくださる、イエス様と同じ復活の恵みに与らせていただき、この新しい命、あなたという家の内に聖霊様が住まわれ満ち溢れるのです。そうしてあなたという家、あなた自身のうちが変えられ、癒し、本当の回復、いのちへと変えられていくのです。
↑の最後で、「祭司長、律法学者、民のおもだった者たちは、イエスを殺そうとねらっていたが、どうしてよいかわからなかった。民衆がみな、熱心にイエスの話に耳を傾けていたからである」と、この後の様子が記されていますが、あなたはどちらでしょうか。こんなイエス様などいらない、自分のもう神ではない、と追い出すか、それとも、わたしを憐れんでください、救ってください、導いて下さい、と熱心にイエス様を求めるか、あなたはどちらですか?今日私たちはイエス様に、私たちの内側を聖めていただき新しくしていただこう、主よ、来てください、と祈り、招いて終わりではなく、このイエス様のくださった永遠に後、恵みの内を歩ませていただこうではありませんか。私たちが満ち足りないものを満たすために自分の内にあれこれ持ち込む必要はない、イエス様がすべてを備え、養い、導かれるから。