「主は、イスラエルを打った者を打つように、イスラエルを打たれただろうか。あるいは、イスラエルを殺した者を殺すように、イスラエルを殺されただろうか。あなたは彼らを追い立て、追い出し、彼らと争い、東風の日、激しい風で彼らを追放された。それゆえ、次のことによってヤコブの不義は赦される。祭壇のすべての石を粉々にされた石灰のようにし、アシェラ像と香の台をもう立てなくすること、これが、自分の罪を除いて得られる報酬のすべてだ。城壁のある町は、ひとり寂しく、ほうっておかれる牧場のようになり、荒野のように見捨てられる。子牛はそこで草をはみ、そこに伏して、木の枝を食い尽くす。その大枝が枯れると、それは折られ、女たちが来てこれを燃やす。これは悟りのない民だからだ。それゆえ、これを造った方は、これをあわれまず、これを形造った方は、これに恵みを与えない。その日、主はユーフラテス川からエジプト川までの穀物の穂を打ち落とされる。イスラエルの子らよ。あなたがたは、ひとりひとり拾い上げられる。その日、大きな角笛が鳴り渡り、アッシリヤの地に失われていた者や、エジプトの地に散らされていた者たちが来て、エルサレムの聖なる山で、主を礼拝する。」
イザヤ書27章7-13節
子どもの頃、一度家から追い出されたことがあります。まあ今の時代では少し考えられない話かもしれませんが。兄とけんかをしたか何かだったと思いますが、それで追い出され、しばらく外をさ迷い歩いていたような気がします。そしてしばらくして恐る恐る家に帰ると、赦してもらい、家に入れてもらえた時は涙が止まらなかった記憶が。兄と喧嘩し、それだけでもある意味では家族関係は壊れる、しかも親からも捨てられたら、というのがとても悲しくなったんだと思います。そしてもう一度家族に繋がれた、何と感謝な事か、と今でも思います。神様は、私たちが好き勝手に生きて、なら勝手にしなさい、と見捨てるのではなく、むしろ御子イエス様を遣わし私たちを捜しに来てくださった。神であられながら人としてお生まれになってまで、命をかけてまで取り戻そうとされたのです。もう一度あなたを言回復させるため、家族として迎え入れるため。あなたはこの神様が示された愛をどう受け止めるでしょうか。
さて、↑は古代イスラエル王国分裂後、北イスラエル王国がアッシリヤによって滅ぼされ、南ユダはアハズ王が死んで後、ヒゼキヤ王の治世に入る、そのころに預言者イザヤを通して語られたことになります。↑のイザヤの黙示録と呼ばれる箇所、ここまでは世の終わりと、そこに残された希望、再臨のイエス様が来られる、永遠へと導こうとされているイエス様が再び来られ、地上がどんなに横暴な者が支配するようになろうとも、終わりの時には地は回復され、完全に静められること、驚くべき花嫁の晩餐をイエス様が私たちを迎える時のため、用意されている、何より、艱難苦難の中にあっても神様ご自身が私たちの城壁となり守り導いて下さる事、平和を「神様が」備えてくださっている事、そして最後にサタンへの完全な裁きが待っていることを見てきました。そして和が結ばれ、もう一度回復していく事が約束されたことを見ました。
そして↑で、イザヤの黙示録は最後に、神様と和が結ばれた後の回復の姿について、「主は、イスラエルを打った者を打つように、イスラエルを打たれただろうか。あるいは、イスラエルを殺した者を殺すように、イスラエルを殺されただろうか。あなたは彼らを追い立て、追い出し、彼らと争い、東風の日、激しい風で彼らを追放された」と、イザヤは神様の歌への応答として告白しています。
神様は、終わりの時についてここまで言及されてこられる中で、その神様が今その時に向かって導いている、招いているんだ、と前回の最後で「しかし、もし、わたしのとりでにたよりたければ、わたしと和を結ぶがよい。和をわたしと結ぶがよい。時が来れば、ヤコブは根を張り、イスラエルは芽を出し、花を咲かせ、世界の面に実を満たす」と歌いつつ、約束されましたね。神様は、イスラエルが裁かれたままで終わることを望まない、でもそれは不公平では?とある人は言うかもしれません。しかし、そもそもの話が、「わたしのとりでにたよりたければ、わたしと和を結ぶがよい。和をわたしと結ぶがよい」と、本来和を結ぶに値しないはずの、神様から散々離れている(このイザヤが啓示を受けた時期は特にひどかった)、そのような彼らに向けて神様が語られているのです。
ということは、同じように本来神様の恵み、愛を受けるに値しないはずの私達もまた、同じように本来「主は、イスラエルを打った者を打つように、イスラエルを打たれただろうか。あるいは、イスラエルを殺した者を殺すように、イスラエルを殺されただろうか。あなたは彼らを追い立て、追い出し、彼らと争い、東風の日、激しい風で彼らを追放された」というように、滅びたままであることを望まれない、望まれないから、頼ってけっておいでと、神様から和「解」をしようよ、と声をかけられているのです。そのために、彼らの内側にある様々な問題を取り除き、回復させる必要があったのです。
事実、歴史的にも、聖書の記述的にも、イザヤの言葉の通り、イスラエルは実際に北イスラエルはアッシリヤに、南ユダはバビロンに捕囚されていきます。何だ、裁かれているじゃないか、と思いたくなるかもしれません。私たちも神様がいるなら、どうしてこんなことを、と自分の状態を棚に上げて思う時があるかもしれませんが、そうではないのです。イスラエルの民の大きな問題は、偶像崇拝とかいろいろあるのですが、本質は神様を神様と思わず離れて好き勝手に生きていたことにあります。偶像というと何か物理的な像をイメージされる方も多いかもしれませんが、それもそうなのですが、本質は神様以外の何かを自分の神的なものとするところにあります。
しかし、本来は私たちは神様の息吹が吹きかけられ、神様によって生きたものとなる存在です。神様がアダムとエヴァを造られた時にそうして息吹を吹きかけられたように、私たちは神様の口から出るすべてのことば、恵み、それらによって初めて本当の私たちとなるのです。ところが、アダムとエヴァが罪を犯したことでエデンの園から追放され、彼らの命に死が入ってきたように、私たちは神様から離れることによってその本来の恵みを失ってしまう、それを神様は回復させたいのです。もう一度息吹を吹き込みたい、一時的ではない、永遠の命をあなたに与えたいのです。
イザヤが神様から受けた滅びゆくイスラエルの様子は、これまでのイザヤ書で見てきた通り、また↑で「それゆえ、次のことによってヤコブの不義は赦される。祭壇のすべての石を粉々にされた石灰のようにし、アシェラ像と香の台をもう立てなくすること、これが、自分の罪を除いて得られる報酬のすべてだ。城壁のある町は、ひとり寂しく、ほうっておかれる牧場のようになり、荒野のように見捨てられる。子牛はそこで草をはみ、そこに伏して、木の枝を食い尽くす。その大枝が枯れると、それは折られ、女たちが来てこれを燃やす。これは悟りのない民だからだ。それゆえ、これを造った方は、これをあわれまず、これを形造った方は、これに恵みを与えない」と語られている通り、凄惨なものがあります。
ただ、これは完全に砕き終わらせる、とは言われていません。「次のことによってヤコブ(イスラエル、もっと言うなら神様に立ち返る、↑でいうなら神様の砦にたよる)の不義は赦される」のです。彼らの内を支配していた様々な疑念、悩み、苦しみ、それらを一度砕き、そして本来恵みを与えられないものであったその彼らの内に神様はもう一度その息吹を吹き込み新しく回復、再建させてくださるのです。
実際彼らは苦しみの中をこれから通ります。捕囚という神様の民としては考えられない道を。しかし、神様はこれまでも分かち合わせていただいた通り、捕囚先でも預言者を置いて彼らを通して励まし、語り続け、導いて下さったり、捕囚先の高官に「神様が」その御手によってイスラエル人を置くことで、国家存亡の危機から回復させて下さったりと、神様は確かに彼らを見放さず、彼らが気付かない中にあっても神様はその御手を伸ばし、捕囚からの解放、また神様の赦し、恵みへと一緒に向かわせてくださったのです。
24章からイザヤを通して終わりの時へ向けた黙示録・啓示を神様は示されましたが、まさに、この赦し、回復に向けた神様のメッセージが込められていたのではないでしょうか。悟りのない私たちを悟らせるため、その言葉を語り、また具体的に導かれる、御手を伸ばされ行動に移される、形づくられた神様は、本来の神様の恵み、イメージされていた最高の姿を回復させるために一度砕かれようとも、もう一度形づくり、神様の霊で満たしてくださるのです。
イエス様の12弟子のひとり、ヨハネを通してイエス様は、「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい」と語られます。神様は愛する者をしかったり、懲らしめたりします。愛がない?でももし叱ったり、懲らしめたりすることがないとしたらどうなるでしょう。むしろ愛するがゆえに本来あるべき姿へ回復させるために、語り、子を導きませんか?神様はあなたが失われたままでいることを良しとはできないのです。
作家の大江健三郎さんは造詣の深い小説を書くことで有名ですが、彼のそうした小説はいったいどこから生まれてきたのか。それは彼の脳性マヒの息子のおかげだと言われています。人々は、一人では何もできない子どもを指して、彼は人生のお荷物だと言いました。しかし、大江健三郎さんはこう言いました。「もし私にこの面倒をみなければならない子どもがいなかったら、私は今このような作家になることはできなかったでしょう。私はこの子の世話をしながら、人の心の深い痛みが何であるかを理解し、見ることができるようになりました」と。彼の痛みであった息子が彼の洞察力を深めるための祝福になったのです。
イザヤの黙示録のこの最後のところで、神様の啓示を受けたイザヤは、神様は気に入ったものだけを拾い集めるのではない、そのような落穂となってしまった私たちをさえ見捨てず、最後まで探してくださることを語られました。
あのイエス様の例えられた99匹の羊を残しても迷子になった1匹の羊を捜した羊飼いのように、失われた銀貨、そして父親から自分勝手に財産をだまし取って出ていったのに、湯水のように財産を使い果たした後に飢饉で困っている息子をそれでも受け入れた父(神様)のように、失われたあなたを捜すため、御子イエス様が人となってまで生まれてこられ、そのどん底にまで来られた。私たちの罪を身代わりに背負われ、十字架にかかられてまで、神様の恵みから失い滅びるはずだった私たちを礼拝、神様との交わりの回復、いのちの交わりの回復のため、いのちを投げ出し、陰府に降るはずだった私たちの魂を引き上げてくださったのです。
もしあなたがこのイエス様の十字の御前に立ち返る時、私たちはこれまで見てきた永遠の命、やがてくる御国に、永遠の礼拝、神様の恵みの中に招き入れられる、その時はもう始まっているのです。あなたという一人の人が失われることを望まれなかったイエス様が、命をかけてまであなたを救いに来られた、そのあなたに神様が計画されている、探し出されただけではなく一緒に終わりの時まで導いて下さるイエス様から離れず、今日も歩ませていただこうではありませんか。回復された神様のいのちの交流の中に憩いながら。
