「その日、麗しいぶどう畑、これについて歌え。わたし、主は、それを見守る者。絶えずこれに水を注ぎ、だれも、それをそこなわないように、夜も昼もこれを見守っている。わたしはもう怒らない。もしも、いばらとおどろが、わたしと戦えば、わたしはそれを踏みつぶし、それをみな焼き払う。しかし、もし、わたしのとりでにたよりたければ、わたしと和を結ぶがよい。和をわたしと結ぶがよい。時が来れば、ヤコブは根を張り、イスラエルは芽を出し、花を咲かせ、世界の面に実を満たす。」
イザヤ書27章2-6節
音楽、これは本当に楽しいですよね。万民共通と言いますか、歌うのが苦手な人でも聞いていれば楽しめるという人もいますし、歌えば元気が出る、という人もいます。そういう意味で「音楽」という物を生み出した人はすごいですよね。誰だと思います?発祥の地は、古代ギリシャ(紀元前1000年頃)とは言われていますが、実際はもっとさかのぼります。アダムとエヴァの息子カインの子孫のユバルという人がそうだとか。しかしどうやって生み出されたのか、を考えると、一つ一つの中に神様が奏でてくださる音に気付いて音楽となったのでしょう。私たちは神様が喜び、奏でてくださっている生涯をどれだけ喜んでいますか?あなたは神様の素晴らしい御手の中導かれているということをどうか忘れないでください。神様があなたの内におられ、喜び導かれるから。
さて、↑は古代イスラエル王国分裂後、北イスラエル王国がアッシリヤによって滅ぼされ、南ユダはアハズ王が死んで後、ヒゼキヤ王の治世に入る、そのころに預言者イザヤを通して語られたことになります。↑のイザヤの黙示録と呼ばれる箇所、ここまでは世の終わりと、そこに残された希望、再臨のイエス様が来られる、永遠へと導こうとされているイエス様が再び来られ、地上がどんなに横暴な者が支配するようになろうとも、終わりの時には地は回復され、完全に静められること、驚くべき花嫁の晩餐をイエス様が私たちを迎える時のため、用意されている、何より、艱難苦難の中にあっても神様ご自身が私たちの城壁となり守り導いて下さる事、平和を「神様が」備えてくださっている事、そして最後にサタンへの完全な裁きが待っていることを見てきました。
↑は今度は神様の歌になります。これは神様をほめたたえる歌ではなく、なんと神様が歌われているものです。イザヤは神様の啓示を受け、神様が勝利される日「その日、麗しいぶどう畑、これについて歌え。わたし、主は、それを見守る者。絶えずこれに水を注ぎ、だれも、それをそこなわないように、夜も昼もこれを見守っている」と歌っているのを聴きます。はい、ここの「わたし、主」というところです。しかも、自身に鼓舞するように「その日、麗しいぶどう畑、これについて歌え」と仰られるのですから。
麗しいぶどう畑って何?と思われる方もいるかもしれませんが、これは以前、同じイザヤ書でも表現されていたのですが、イスラエルを指します(ここでは北イスラエルや南ユダという区切りというよりもイスラエルの民、と言った方が妥当かと思います)。その時、神様はこのイスラエルに対して、イザヤを通し、「さあ、わが愛する者のためにわたしは歌おう。そのぶどう畑についてのわが愛の歌を。わが愛する者は、よく肥えた山腹に、ぶどう畑を持っていた。彼はそこを掘り起こし、石を取り除き、そこに良いぶどうを植え、その中にやぐらを立て、酒ぶねまでも掘って、甘いぶどうのなるのを待ち望んでいた。ところが、酸いぶどうができてしまった。そこで今、エルサレムの住民とユダの人よ、さあ、わたしとわがぶどう畑との間をさばけ。わがぶどう畑になすべきことで、なお、何かわたしがしなかったことがあるのか。なぜ、甘いぶどうのなるのを待ち望んだのに、酸いぶどうができたのか。さあ、今度はわたしが、あなたがたに知らせよう。わたしがわがぶどう畑に対してすることを。その垣を除いて、荒れすたれるに任せ、その石垣をくずして、踏みつけるままにする。わたしは、これを滅びるままにしておく。枝はおろされず、草は刈られず、いばらとおどろが生い茂る。わたしは雲に命じて、この上に雨を降らせない」と厳しい裁きの宣告を受け、事実北イスラエルはアッシリヤの捕囚を受け、散らされ、南ユダも、周辺国に苦しめられた後、最後はバビロンによって捕囚されます。
しかし、これまでイザヤ書でおってみてきました通り、神様はイスラエルの民を見捨てることはありませんでした。それでも、何とか彼らが立ち返るよう、多くの預言者を遣わし、彼らを支え、また彼らを通して奇跡をおこなわれ、語られることで、神様ご自身がまだ彼らを見捨てていないことを示されたり、アッシリヤがさらに南下してきた時も神様はヒゼキヤ王の時代に彼らを救い、アッシリヤも衰退、崩壊します。バビロン捕囚においても、神様は彼らが週されていった先にも預言者を置かれ、彼を通して語られたり、バビロン政府内にイスラエル人を置くことで支え、また国家存亡の危機から救われたこともありました。
まだ、イザヤはこの段階では、ヒゼキヤ王の時の勝利を見ていませんし、バビロン捕囚の時に何があるのかはわかりません。具体的に見ているわけでもありません。しかし、神様はこれまで彼らの周辺諸国への預言を通して神様がその御手を全地に伸ばされ、守られていることを知り、また24章から見てきたイザヤの黙示録中で、神様が勝利に向けて導いて下さっていることを語られてきた、イザヤにとってどれだけの励ましになったでしょう、この神様が共にいるとはなんという幸いでしょう。あなたはイザヤではないから関係ない、と思われるかもしれませんが、神様は、先ほど引用したイスラエルのひどいありさまだったぶどう畑、彼ら自身を、「麗しいぶどう畑」に変えてくださるのです。彼らを罵るわけでもない、裁いて終わり、というわけでもない、彼らについて「歌え」というほどの喜びに神様はある、そのような状況に神様は導いて下さるのです。神様の喜びがわが喜びとなる日となるよう、神様は導いて下さるのです。
その神様は「わたし、主は、それを見守る者。絶えずこれに水を注ぎ、だれも、それをそこなわないように、夜も昼もこれを見守っている」と歌います。これは独り言のように言っておられるだけなのではなく、イザヤにこの歌が啓示されているのです。まあ気が向いたらしよう、とかそういうレベルの話ではなく、神様がイザヤに約束の歌として聞かせているのです。神様が、守られる、絶えず渇いたぶどう畑を潤し、神様の実が豊かに結ばれるよう、夜も昼も、彼らが、私たちがつらい時でも、元気な時でも、変わらずそうしてくださる。というよりも私たちはつらい中にいるときは神様は何をしているんだ、何でこんな自分が苦労しているのに何もしないんだ、と思う中にあっても働かれているのです。
時には先ほど引用させていただいたところで語られているような、酸いぶどうが収穫されるような私たちかもしれない、状況かもしれない。しかし、本当の意味で豊かな実を結ばせるのは、私たちの努力によるのではなく、私たちを育てる神様が水をやって潤してくださるからこそ、「神様の結ばせてくださる豊かな実」を私たちは見ることができる、味わうことができるのではないでしょうか。
神様はなお続けて、「わたしはもう怒らない。もしも、いばらとおどろが、わたしと戦えば、わたしはそれを踏みつぶし、それをみな焼き払う」と歌われます。あ、ここで一つ間違えて理解されると困るのが、もう怒らないから何をしてもいいよ、というわけではありません。これを書くと、愛がないとか、裁いているとか、いろいろ言う方がいますが、もう少し本質を見ると言いますか、神様がもう怒らない、という言葉に何を込められているのかを考えたいです。
1世紀のパウロという伝道者は「神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです」と手紙で書く送ります。神様を侮った関係、そんなところにそもそも神様の命はそこにはないですよね。私たちは神様愛しているなら、自分がこんな悪いことをしても赦してね、と言ってそれがその通りだったらどうでしょう。とんでもないことになりますよね。その蒔いた種は刈り取らなければいけない、それは実感されたことがある方もいるのではないでしょうか。むしろ、御霊のために蒔くものは、御霊から永遠のいのちを刈り取る、むしろ神様はこの永遠の命、イエス様の命にあって与えられる新しい命の内に神様が実らせる豊かな実を刈り取ってほしい、そう願っておられるのです。
それならそもそも神様の怒りはどこにいったのか。もう怒らない、と言いますが。神様の怒りは、別にまあまあいいよいいよ、とされたわけではありません。イスラエルの民も、結局捕囚によって刈り取りをすることになりましたし、怒りがまったく帳消しとされたわけではないのです。むしろ、神様の怒りは私たちに本来注がれ、滅びてもおかしくない中、むしろ私たちの身代わりに神の御子たるイエス様に注がれたのです。ありえない話です。何の罪もないイエス様がどうしてそんな私たちの罪を身代わりに背負わなければいけないのか。しかし、神様の怒りの杯は、私たちの頭上ではなく、御子イエス様の頭上にかえされ、罰せられたのです。すべての私たちへの、私たちの罪への怒りはイエス様に注がれた。それゆえに、このイエス様の十字架の前に悔い改め立ち返るすべての人の罪は赦される、その怒りから逃れさせていただけるのです。そして神様の子として新しい恵みの中を歩ませていただけるのです。すべての汚れ、罪、一切はイエス様に注がれた怒りの杯ゆえに聖められるのです。
私たちはこの、もう怒らない、和解させていただいた、イエス様の命にあって結ばれたこの関係に招かれているのです。麗しいぶどう畑、イエス様の命にあって収穫させていただける、結ばせていただける、永遠の命の実に私たちが生きることを願われているのです。酸いぶどうから麗しのぶどう畑に、このイエス様の身代わりの十字架ゆえに変えていただける、↑で見た神様のなさる一つ一つは、まさにこのイエス様の十字架にあって約束される、成就するのです。
神様は↑の最後で、なお続けて「しかし、もし、わたしのとりでにたよりたければ、わたしと和を結ぶがよい。和をわたしと結ぶがよい。時が来れば、ヤコブは根を張り、イスラエルは芽を出し、花を咲かせ、世界の面に実を満たす」と歌われます。まさに神様の願いは、私たちが、神様と敵対するのではなく、和解すること。怒りが取り去られてはい、終わり、ではなく、もう一度回復させたい、と私たちに恵みの雨を注ぎ、もう一度枯れたぶどうを回復させ、麗しいぶどう畑にしてくださる、「芽を出し、花を咲かせ」てくださるのです。あなたの内に、あなたの遣わされているところに、実を満たしてくださるのです。
私たちは今日、このイエス様の命がけの愛、和解によってなされる大いなる神様の御業、勝利を待ち望もうではありませんか。神様が喜び歌ってくださるほどに、その喜びをあなたに現そうと、今日もあなたにその御手を伸ばされています。私たちもこの神様を心の底から喜び、驚くべき御業がなることを、神様の栄光が溢れることを祈ろうではありませんか。怒りの杯が十字架によって代わりに注がれたなら、そこから神様が結んでくださる和解の実はいかほどばかりか。この神様が結んでくださる命の日々を喜び今日も歩もう。
