―ケチ?厳しい?商売の話ではなく― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「人々がこれらのことに耳を傾けているとき、イエスは、続けて一つのたとえを話された。それは、イエスがエルサレムに近づいておられ、そのため人々は神の国がすぐにでも現われるように思っていたからである。それで、イエスはこう言われた。『ある身分の高い人が、遠い国に行った。王位を受けて帰るためであった。彼は自分の十人のしもべを呼んで、十ミナを与え、彼らに言った。【私が帰るまで、これで商売しなさい。】しかし、その国民たちは、彼を憎んでいたので、あとから使いをやり、【この人に、私たちの王にはなってもらいたくありません】と言った。さて、彼が王位を受けて帰って来たとき、金を与えておいたしもべたちがどんな商売をしたかを知ろうと思い、彼らを呼び出すように言いつけた。さて、最初の者が現われて言った。【ご主人さま。あなたの一ミナで、十ミナをもうけました。】主人は彼に言った。【よくやった。良いしもべだ。あなたはほんの小さな事にも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。】二番目の者が来て言った。【ご主人さま。あなたの一ミナで、五ミナをもうけました。】主人はこの者にも言った。【あなたも五つの町を治めなさい。】もうひとりが来て言った。【ご主人さま。さあ、ここにあなたの一ミナがございます。私はふろしきに包んでしまっておきました。あなたは計算の細かい、きびしい方ですから、恐ろしゅうございました。あなたはお預けにならなかったものをも取り立て、お蒔きにならなかったものをも刈り取る方ですから。】主人はそのしもべに言った。【悪いしもべだ。私はあなたのことばによって、あなたをさばこう。あなたは、私が預けなかったものを取り立て、蒔かなかったものを刈り取るきびしい人間だと知っていた、というのか。だったら、なぜ私の金を銀行に預けておかなかったのか。そうすれば私は帰って来たときに、それを利息といっしょに受け取れたはずだ。】そして、そばに立っていた者たちに言った。【その一ミナを彼から取り上げて、十ミナ持っている人にやりなさい。】すると彼らは、【ご主人さま。その人は十ミナも持っています】と言った。彼は言った。【あなたがたに言うが、だれでも持っている者は、さらに与えられ、持たない者からは、持っている物までも取り上げられるのです。ただ、私が王になるのを望まなかったこの敵どもは、みなここに連れて来て、私の目の前で殺してしまえ。】』」

ルカによる福音書19章11-27節

 

ある人が面白いたとえをされていました。ある子供が大好きなお父さんに、「パパ、僕のこと好き?僕、道路の真ん中で大好きな縄跳びをしたいんだけど、僕のことが好きならいいよね?」とお父さんに尋ねたそうです。もし本当に大切に思っているなら、止めますよね。愛がない?いえ、愛するゆえでしょう。神様はあなたが生きるためならその身をはって、御子イエス様の命を持ってまで救わんとその御手を伸ばされ、語られます。あなたはこのイエス様の訴えにどう応えるでしょう。

 

さて、↑は神の御子たるイエス様が人となってお生まれになり、その公生涯を歩み続け、様々な人を癒し、救い、また悔い改めに導かれ、ついに十字架にかかる時が近づいたある日のこと、イエス様はエリコの町で、イエス様が語られたたとえ話になります。

 

まずこのたとえを詳しく見ていきたいのですが、ある身分の高い人が、王位を受けて帰るため、遠い国に行くのですが、自分の十人のしもべを呼んで、十ミナを与え(一人一ミナ=100日分の労働賃金、日給1万円とみれば100万円くらい)、これで商売をするように伝え、旅に出ます。そこで、1ミナを預かった人たちはそれぞれ出ていき商売をし、この主人が帰ってくるまでの間、ある人は10ミナ(1000万円)、ある人は5ミナ(500万円)に増やすことに成功しました。もう一人はどうせ取られるだけだし、と何もせずにいました。

 

そんな中、帰国し、王位を受けてた主人は、彼らからお金を返すように言うわけでもなく、「どんな商売をしたかを知ろうと」彼らの様子を見に行きます。今言ったように、成功した人は本当にうまく成功しましたが、一人は言い訳を並べ、どうせ取られるくらいなら、と隠しておき、減らさなければ別にいいだろうとたかをくくった、その結果彼からその1ミナは取り上げられてしまうのでした。

 

さて、これを見ると、じゃあ神様は何か能力の高い人だけを評価するのか?と言われたら、そうではないことがわかります。他に1ミナをもらった人たちの評価が語られていないことを考えますと、別に失敗したらダメ、というわけではないのです。このたとえ話をよく見てみますと、主人が旅に出た際、「その国民たちは、彼を憎んでいたので、あとから使いをやり、『この人に、私たちの王にはなってもらいたくありません』と言った」というのです。彼らの1ミナをもって商売をする、というのは単純に商売がうまくいった、行かなかった、増やした、減らした、という話ではないのです。

 

実はこの1ミナを預かった人たちと、王になってもらいたくない、といった人たちは別です。しかしその話を聞いて、じゃあみんなで王様をけり落としてやろう、としたのではなく、むしろ王様の受けた恵みをもってその恵みをあふれさせようと、使ったのです。100万円といったって、小さな金額ではありません。しかし、彼らは神様の愛を小さな事と考えずに、世の人はそんなものを信じてどうする、と思うことに対しても、感謝をもってこれを用い、仕えていたのです。主人、神様からしたら、1ミナをただで失おうと、このことを通して、神様の恵みが、主人が王として恵みを広げることを拒否している人たちが、神様の恵みに気づき立ち返る、いのちを得ることを何より願って任せたのです。

 

最後にイエス様は、「ただ、私が王になるのを望まなかったこの敵どもは、みなここに連れて来て、私の目の前で殺してしまえ」と仰られていますが、とても厳しい一言ですね。しかし、だからこそ神様はイエス様を遣わされ、あらかじめ語られているのです。そうならないように願われ。イエス様は神の御子であられながら、1ミナ(100万円)どころではない、そのすべてをあなたのために使うために人となって生まれてこられました。罪を犯さない点を除き、全く同じ人間となられ。しもべとなってへりくだり、徹底的に仕えられ、金額ではとてもじゃないほどのかけがえない命を、本来罪故に死すべき、神様を神様として望まない私たちの罪の支払いを、イエス様の命という代価をもって身代わりに支払われたのです。しかし3日目によみがえられた事によって、このイエス様の十字架の前に悔い改め立ち返るすべての人の罪は赦され、同じイエス様の復活の恵みに与らせていただけるのです。

 

このイエス様にあって与えられたこのいのち、一ミナどころの騒ぎではない、このいのちをもってあなたはどう生きるだろうか。主にあなたが捧げる時、これは豊かに広がる。何より、イエス様の命にあって広がるあなたの命はいかばかりか、イエス様があなたの内に住まわれ、ご統治される新しい命の価値は計り知れません。今日私たちはこのイエス様の恵みを受け、ミナを握りしめ、神様の栄光を現すものとして用いてくださることを切に祈ろうではありませんか。