―幻の谷2:与えられた鍵― | 子育て休職中牧師の聖書のおはなし

子育て休職中牧師の聖書のおはなし

東京で牧師をしておりましたが、子育てのため一時的に北海道に移住しました。
「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と語られた神様からのラブレター・聖書から少しずつ分かち合わせていただきますね(*^_^*)

「万軍の神、主は、こう仰せられる。さあ、宮廷をつかさどるあの執事シェブナのところに行け。あなたは自分のために、ここに墓を掘ったが、ここはあなたに何のかかわりがあるのか。ここはあなたのだれにかかわりがあるのか。高い所に自分の墓を掘り、岩に自分の住まいを刻んで。ああ、ますらおよ。主はあなたを遠くに投げやる。主はあなたをわしづかみにし、あなたをまりのように、くるくる丸めて、広い広い地に投げ捨てる。あなたはそこで死ぬ。あなたの誇った車もそこで。主人の家の恥さらしよ。わたしはあなたをその職から追放し、あなたの地位から引き降ろす。その日、わたしは、わたしのしもべ、ヒルキヤの子エルヤキムを召し、あなたの長服を彼に着せ、あなたの飾り帯を彼に締め、あなたの権威を彼の手にゆだねる。彼はエルサレムの住民とユダの家の父となる。わたしはまた、ダビデの家のかぎを彼の肩に置く。彼が開くと、閉じる者はなく、彼が閉じると、開く者はない。わたしは、彼を一つの釘として、確かな場所に打ち込む。彼はその父の家にとって栄光の座となる。彼の上に、父の家のすべての栄光がかけられる。子も孫も、すべての小さい器も、鉢の類からすべてのつぼの類に至るまで。その日、―万軍の主の御告げ―確かな場所に打ち込まれた一つの釘は抜き取られ、折られて落ち、その上にかかっていた荷も取りこわされる。主が語られたのだ。」

イザヤ書22章15-25節

 

「カギを握る」、これは握っている人がある意味で今後を左右することになるわけですが、その人がどう行動するか、それが左右させると言ってもいいでしょう。あなたのまわりを、あなた自身を、あなたの遣わされているところを。ただ、私たちは別に特別な鍵はいらないのです。私たちには神様がおられる、神様が私たちの目の前にふさがっているであろう問題、壁、扉を開けてくださる、だから私たちはこの神様に大いに信頼しよう、この神様があなたに用意されている御心、ご計画を待ち望もう。

 

さて、↑は古代イスラエル王国が分裂して後、北イスラエルがアッシリヤ帝国に捕囚され、また南ユダ王国をアハズ王が統治していた時期からアハズの死んだ年までの間に、神様が預言者イザヤを通して諸国に預言されたもの、今回は昨日の続きで幻の谷、イスラエル(南ユダ王国)のエルサレムという都市について神様が宣告された内容になります。

 

なぜエルサレムが幻の谷と呼ばれていたのか、エルサレムは地形的に多くの丘に取り囲まれていて、その間に谷があります。そしてこの谷の存在によって、エルサレムはこの世から遮断され、そこからただ神様を見上げ、その神様は幻をもってご自身の御旨を民に何度も啓示されるのでした。多くの預言者たちがそうして神様の幻の啓示を受けています。このように、エルサレムは自然の要塞となっているのと同時に、神様ご自身が、その御言葉をもって、また養いをもって守られていた場所だったのです。そういう意味では神様ご自身のおられるところこそ、いのちの溢れる場所となる、といってもいいでしょう。

 

↑の前は南ユダの最後の王ゼデキヤについて語られ、彼は神様から徹底して離れ、預言者たちを迫害し、殺し、神様からの警告を無視した結果、最終的にとらえ移される前に自分の眼前で子供を殺害され、目もつぶされ、ととても目も当てられない状況を迎えたこと、一方で彼の祖父エホヤキンはバビロンにとらえ移されるも、それでもその中で神様の守り、養いのもと、神様の恵みを享受し、その愛をあふれんばかりに注がれたことを見ました。こんなところ、と思う前に、むしろ神様はご自身の恵みに招かれているのです。

 

続けて神様はイザヤを通して「万軍の神、主は、こう仰せられる。さあ、宮廷をつかさどるあの執事シェブナのところに行け。あなたは自分のために、ここに墓を掘ったが、ここはあなたに何のかかわりがあるのか。ここはあなたのだれにかかわりがあるのか。高い所に自分の墓を掘り、岩に自分の住まいを刻んで。ああ、ますらおよ。主はあなたを遠くに投げやる。主はあなたをわしづかみにし、あなたをまりのように、くるくる丸めて、広い広い地に投げ捨てる。あなたはそこで死ぬ。あなたの誇った車もそこで。主人の家の恥さらしよ。わたしはあなたをその職から追放し、あなたの地位から引き降ろす」と語られます。

 

今度語られている時代は、南ユダの末期、ゼデキヤの治世におこることではなく、そうならないためにも、とそれより少し前、まさに今、アハズ王が死に、次に出てくるヒゼキヤ王の治世の時に、アッシリヤの王セナケリブがエルサレムを包囲した頃の神様の宣告になります。南ユダ王国の末路について預言され、今目の前の時について語られているのは、まさに今、神様は立ち返ることを願って語られているのです。

 

1世紀に伝道していたパウロという人は、手紙で「兄弟たち。あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。『きょう』と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。『きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。』と言われているからです」と書き送ります。

 

神様の恵みに与らせていただくために、神様の安息に招き入れられるために、今日聖霊様があなたの内に働き、導かれ、語られ地得るうちに、心頑なになるのではなく、互いに励まし合い、罪から離れ御怒りではなく恵みの内を歩みたいものです。

 

実際、↑で出てくるヒゼキヤ王の世代におこった問題、その本質は神様よりも自分の栄誉を求めたところにありました。ここで執事シュブナをその地位から引き下ろせ、と言われていますが、どうしてなのか。もう少し後の章になってわかる事なのですが、どうもシュブナは、「主人の家の恥さらし」をしたようで、エルサレムがアッシリヤによって包囲されるという危機の中で、エジプトとの緊密な協力を訴えただけでなく、そこに助けを求めたようなのです。

 

ただ、自分たちが危機に陥った時、どうしたらいいかわからず、強いものに頼りたい気持ちはわかります。しかし問題はそこにあったのではなく、先の章を見ますと、彼らの考えの根底に、「自分のために」という動機が潜んでいたことをイザヤは指摘しているのです。ただアッシリヤの問題が目の前にある事でわからないこともありませんが、シュブナがエジプトを頼ったことだけが問題なのではなく、彼が自分の利益、繁栄を考え、自国を犠牲にしようとしたことに問題があるのです。

 

しかし、昨日今日と共に見ましたが、神様を求める、神様がご臨在くださるエルサレム、幻の谷、いや神様がおられるところにおいて何を恐れることがあるでしょう。事実、バビロンが台頭する前のこの時代、最強と言われていたアッシリヤは、このヒゼキヤの時代に驚くべき逆転を起こされます。彼らは南ユダを、幻の谷を取り囲みますが、しかし神様を神様は取り囲むことなどできず、かえって彼らの内に働き、またアッシリヤ自身に働かれ、いよいよイスラエルは終わりか、と思われていた時、神様の使いはアッシリヤの陣営で、十八万五千人を打ち殺し、それゆえにアッシリヤの王セナケリブは立ち去り、帰って首都ニネベに住んだのですが、彼が彼らの拝む神ニスロクの宮で拝んでいた時に、セナケリブ王の子、アデラメレクとサルエツェルが、剣で彼を打ち殺すという大事件が起こり、ついにアッシリヤは滅びていきます。

 

神様ご自身による救いという驚くべき御業を、執事シュブナは本来体験する素晴らしい機会を失ってしまった、職から追放され、あなたの地位から引き降ろされてしまったのです。確かに圧倒的不利な状況でしたが、自分が生きるためではなく、神様が生かされることを、神様がここに働かれる以上にどこに恵みが、祝福が、いのちが、本当の益があるでしょう。

 

神様は神様のしもべ、「ヒルキヤの子エルヤキムを召し、あなたの長服を彼に着せ、あなたの飾り帯を彼に締め、あなたの権威を彼の手にゆだねる。彼はエルサレムの住民とユダの家の父となる。わたしはまた、ダビデの家のかぎを彼の肩に置く。彼が開くと、閉じる者はなく、彼が閉じると、開く者はない。わたしは、彼を一つの釘として、確かな場所に打ち込む。彼はその父の家にとって栄光の座となる。彼の上に、父の家のすべての栄光がかけられる。子も孫も、すべての小さい器も、鉢の類からすべてのつぼの類に至るまで。その日、―万軍の主の御告げ―確かな場所に打ち込まれた一つの釘は抜き取られ、折られて落ち、その上にかかっていた荷も取りこわされる。主が語られたのだ」と宣言を受けます。

 

シュブナの長服、飾り帯が、エルヤキムに移される、しかし、シュブナにこの長服と飾り帯を与えていたのは神様です。神様の油注ぎ、祝福が彼の内を覆い、彼を支えられるのです。神様の誉れ、栄光が彼の内に現され、豊かに働かれるようになるというのです。ただ地位あるものに引き上げられた、というだけではありません。祭司が長服を着、その人を通して神様が栄光を現されたように、神様がその服を着せるということは、神様ご自身がその人の内に豊かに働かれるということなのです。地位が移され偉くなったのではない、かえって、神様のしもべ、謙遜になる中で、私たちは自分の栄誉ではなく、神様の栄光を仰ぎ見させていただけるのです。

 

私たちは古い自分がのぞき去られ、復活のイエス様が私たちの内に住まわれる時、本当の意味で長服、飾り帯をつけさせていただけます。鍵が与えられているといいますが、自分の繁栄を求めるための扉の先には自分の求める以上のものはない、いやそこには限界がありますが、神様に向けて、神様が用意されているご計画を信じ、その鍵をとる時、神様の扉が開かれるのです。

 

私たちはシュブナである必要はないのです。自分が誇り高ぶり、自分の栄光を求める先には何もない、しかし、私たちが主イエス様の御前に立ち返る、私たちの罪の身代わりに私たちの罪も、死も、一切を身代わりに背負われ十字架にかかられ死なれた、そして3日目によみがえられたイエス様の前に悔い改め立ち返る時、私たちは神様の子として迎え入れられる、その子としての義の衣、いや復活のイエス様ご自身を着せていただけるのです。このイエス様の愛によって和解された関係、その中に現わされる神様の御心の前に何ものも立ち上がることはできません。ハデスの門もそれには打ち勝てないのです。

 

私たちはこの神様の御心が、御国がなることを切に祈ろうではありませんか。私たちのために確かな場所、十字架にくぎ付けられたイエス様がどれだけの愛を注いでくださったのかを改めて覚え、ヒゼキヤからリバイバルが一時的とはいえおこったように、イエス様の完全なるリバイバルがあなたの内に、またあなたのまわりに、あなたの遣わされている場所、置かれている場所に起こる事を切に祈ろう。十字架と共に張り付けられた私たちは古いものは確かに壊れて、脱がされても、今復活のイエス様にあって新しくされたのです。今日、あなたの内にご計画されているはずの神様のご計画、イエス様の命にあってなされる御心がなることを切に祈ろうではありませんか。神様も今日、あなたがその鍵をもって神様を求めることを待っておられるから。