「アラビヤに対する宣告。デダン人の隊商よ。アラビヤの林に宿れ。テマの地の住民よ。渇いている者に会って、水をやれ。のがれて来た者にパンを与えてやれ。彼らは、剣や、抜き身の剣から、張られた弓や激しい戦いからのがれて来たのだから。まことに主は私に、こう仰せられる。『雇い人の年季のように、もう一年のうちに、ケダルのすべての栄光は尽き果て、ケダル人の勇士たちで、残った射手たちの数は少なくなる。』イスラエルの神、主が告げられたのだ。」
イザヤ書21章13-17節
水、これほど貴重なものはありません。時代によってはこの水を巡った争いも頻発していたほど。それほどに人間にはこの水が必要なんですね。そういえば人の体の水分も、成人男性が60%、成人女性が50%と言われるほど、大半を占めていますね。神様は人を造られた時に、私たちの体内に必要な水分を十分にしてくださった(新生児は76%)わけですね。もっというと地球上の海が7割を占めていることからも、あらゆる点で神様はその水を得られるようにしてくださっているわけです。ただ驚くべきことに、それは誰にも与えられているということ。神様は悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださる、本当の意味で私たちを生かしてくださるのは神様であることを覚え、神様にいつも御霊の水、聖霊様を求め歩みたいものです。ここに命の川が溢れあなたを満たすから。
さて、↑は古代イスラエル王国が分裂して後、北イスラエルがアッシリヤ帝国に捕囚され、また南ユダ王国をアハズ王が統治していた時期からアハズの死んだ年までの間に、神様が預言者イザヤを通して諸国に預言されたもの、今回はアラビヤ、もう少し正確に言えば今のサウジアラビのあたり、もっと言うなら、イスラエル民族の兄弟部族、イシュマエルの流れをくんでいる彼らへの宣告になります。
サウジアラビアとイスラエルの関係に驚きを覚える方もいるかもしれませんが、私もです。ただ、昨日分かち合わせていただきましたドマ、もといエサウの建て上げたエドムに対して神様が語られたように、彼らに語られたということは、神様は彼らが神様に立ち返ることを願っていることが見えます。
考えてみれば、残虐を極めた古代アッシリヤ帝国の首都ニネベも、神様からの裁きの宣告を受けるのと同時に、預言者を遣わされ、彼らが悔い改めることを願ったことがあり、国家を上げて悔い改めたとき、その裁きの手を止めたことがありましたね。また、あの初代教会の時代、最初クリスチャンを迫害し、時には殺害に加担していたパウロという将来有望の律法の専門家も、復活のイエス様が彼のもとを訪れ、彼をさばくのではなく、むしろ悔い改めに導き、ご自身の恵みに招かれたことがありますね。最近でも諸国の中でも、復活のイエス様に出会って民族あげてクリスチャンになったところや、某先頭集団も、復活のイエス様に出会ってクリスチャンになった、なんて話も実はあったりします。神様は、私たちが生きることを何より願われている、だから語られるのです。出会われるのです。
その神様は、今、現在のサウジアラビア、当時のアラビヤに、「アラビヤに対する宣告」と宣言されるのです。実は、今申し上げたこと以上に、このアラビヤに語られるということは大きな意味合いを持っています。というのも、先ほどこのアラビヤは、もともとはイスラエル民族の兄弟イシュマエルから発生した国なのですが、そもそもの話がそのもとがかなり問題があったのです。ある意味ではイシュマエルがかわいそう、と思えるほどの。
このアラビヤ、イシュマエルの歴史をおいますと、イスラエルの父祖、アブラハムとサラの間には高齢になっても子供は与えられていませんでした。しかし、神様は海の砂、そのらの星のように増えること、彼らを通して多くの子孫が与えられること、祝福されることを約束されていたのですが、いつまでたっても子供が与えられずにいたため、周りの目も気にしたサラは、エジプトで得た女奴隷ハガルを夫アブラハムに与え、その子供を自分の子としようと考え、与えられた子がイシュマエルでした。しかし、神様はイシュマエルではなく、約束はアブラハムとサラの間に子供を与えることを計画されていた、ただサラもアブラハムも神様を信じ切れず、自分の手でことを進めた結果、神様はそれまでとは打って変わり、なんと13年にわたって、彼ら夫婦に対して沈黙されます。
一方で、サラは自分で蒔いた種、計画によってハガルが子供を得たにもかかわらず、彼女をいじめ、追い出し(ハガルが横柄な態度をとったこともあるのですが)たことがありました。そこで神様は逃げ出したハガルに出会いに来てくださり、彼女をなだめ、もう一度家に連れ帰ります(彼女は遜り、神様の恵みにしばらく与ることになります)。この時、実は受肉前のイエス様(わかりやすく言いますと、今から約2000年前に人となって生まれてこられた、それ以前のイエス様)がハガルの前に現れたのです。そして語られたのです。↑で「デダン人の隊商よ。アラビヤの林に宿れ。テマの地の住民よ。渇いている者に会って、水をやれ。のがれて来た者にパンを与えてやれ」と彼らについて預言されていますが、まさにイエス様ご自身が彼女に同じように会いに来て、彼女の渇きを満たしてくださったのです。この預言を見ながらこのハガルの出来事が思い出される、神様の愛は変わらないんだな、と思わされます。
その後、アブラハムとサラの間に約束の子イサクが与えられるのですが、14歳近くになったイシュマエルが、イサクが乳離れしたころにお祝いをしていた際、彼をあざ笑ったことをサラが気にし、できれば彼らをアブラハムたちから離してほしい、とサラはアブラハムに言い(ちょっとイシュマエルにしてもハガルにしてもかわいそう)、神様の導きのもと、彼らに必要な食物や水を持たせ、べエル・シェバという荒野に送り出し、彼らはイスラエル民族から離れていく事(正確には離される)になるのでした。ちなみに、父アブラハムが天に凱旋した時、イシュマエルはそれでも父の葬りのため、一度帰ってきて、イサクと共に父アブラハムを墓に葬りました。
ちなみにイシュマエルはその後子孫12人を残し、彼らはそれぞれの氏族の長となり、137歳という長寿を全うし、その民に加えられます。まだ実は他にもつながりがあり、昨日見ましたエサウも、このイシュマエルの一族から妻を迎えることになります。そういう意味では、イシュマエル一族を神様は完全に見放す、追放した、というよりも、何とかつなげようとされたのではないでしょうか。ハガルが、受肉前のイエス様に出会い繋げられていたように、イシュマエルたちが追放された際にも、もう一度呼びかけられ、彼らをその泉で回復させたように、神様は彼らを見捨てていないはずだったのです。
しかし、残念ながらイシュマエルの子孫たちは、この神様の計らいに心を留めず、むしろ彼らに敵対していった、と記録に残されています。そういえば、アブラハムの息子でイシュマエルの弟イサクの息子、ヤコブの子ヨセフをエジプトに売り飛ばしたのもまた、ヨセフの兄弟たちの嫉妬もありましたが、それに協力して売り飛ばしたのも、イシュマエルの対象でしたね。この敵対関係について、400年以上たったモーセの時代にも変わりませんでした。ゆえにモーセはその事実を変えず、そのまま書き残すのです。
神様はそんな彼らがそれでも立ち返ることを願い、「デダン人の隊商よ。アラビヤの林に宿れ。テマの地の住民よ。渇いている者に会って、水をやれ。のがれて来た者にパンを与えてやれ。彼らは、剣や、抜き身の剣から、張られた弓や激しい戦いからのがれて来たのだから」と預言されます。隊商と呼ばれるほどにある意味では成功を収めている部族。しかし、この預言のころ、アッシリヤの王サルゴンがアラビヤに攻めこんできて、今、デダンの隊商は逃げています。それでアラビヤの林に隠れ、そして、テマの地の住民が、その避難してきた人々に食糧や水を与えるのでした。
そう、神様は渇いている彼らに水を与え、パンを与えるように、と訴えかけるのです。神様はアラビヤの父祖、イシュマエルが苦しんだ時に助けてくださった神様が、今それでも彼らをもう一度神様の恵みで、満たそうと呼びかけられているのです。逃れる場所があるんだよ、と。神様が呼びかけられた、神様が用意されている、神様ご自身がその隠れ場、逃れの場所となってくださるのです。ただ、イシュマエルはこれを拒否した、その恵みを逃してしまった、でも神様はそれでも今、彼らに語り掛けているのです。
なお神様はイザヤを通して、「まことに主は私に、こう仰せられる。『雇い人の年季のように、もう一年のうちに、ケダルのすべての栄光は尽き果て、ケダル人の勇士たちで、残った射手たちの数は少なくなる。』イスラエルの神、主が告げられたのだ」と語られます。このアラビヤ・イシュマエル系部族、「デタン人」「テマ人」「ケダル人」は互恵関係によって自分たちを守っていたのですが、結局それはアッシリヤの王サルゴンによって打ち砕かれました。そして数が激減する、と。
しかし、「イスラエルの神、主」が告げられる、この神様がおられるのです。万軍の主が。互恵関係とかそういうレベルではない、神様の圧倒的な愛、私たちが何か良いことをしたから仕方ないな、と注がれる愛ではなく、まずご自身の命を注がれた究極の愛、御子イエス様の命さえ惜しまないこの愛ゆえに結ばれる、あの十字架が結んでくださったいのちの関係が示されたのです。そこに結ばれる実はいかほどばかりか。私たちの死は、命へ変えられるのです。
イエス様は、かつてイシュマエルが排除されたように感じた時にもなお、御手を伸ばされていたように、私たちを排除するために来られたのではないのです。イエス様の命がまず捧げられたのです、私たちの身代わりに。神様は、私たちを排除、死なすのではなく、私たちが生きる、本来の命の内に生きることができるように、イエス様を十字架所で最後まで張り付けたままにされ、死なせたのです。ありえない愛です。アブラハムの死が、もう一度イシュマエルをイスラエル、神様の家族へと招いたように、イエス様の死と復活によって、その閉ざされたはずの関係は開かれるのです。
私たちはある意味では飢え渇き、さ迷い歩いている、しかし、その私たちを探しに、あのイシュマエルやハガルを探しに来られたイエス様が今日、あなたに命をもたらそうと、今日もあなたを待っておられる、その御手を伸ばされておられる。本来神様の恵みを受ける価値のない私たちに、恵みを受けるに値しない罪人の私たちに、飢え渇くことのない命の泉で満たし、その十字架に張り付けられたイエス様の血と肉によって私たちは養われる、そこに神様の愛が驚くべき程に込められているのです。
そのイエス様は「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」と、また「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません」と仰られました。私たちのために心血を注がれ、その地、身からだ、何よりご自身いのちを持ってまであなたに与えられるこのパン、いのちの水を今日求め歩ませていただこうではありませんか。