―どうしても話しておきたいんだ― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「さてイエスは、十二弟子をそばに呼んで、彼らに話された。『さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子について預言者たちが書いているすべてのことが実現されるのです。人の子は異邦人に引き渡され、そして彼らにあざけられ、はずかしめられ、つばきをかけられます。彼らは人の子をむちで打ってから殺します。しかし、人の子は三日目によみがえります。』しかし弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。彼らには、このことばは隠されていて、話された事が理解できなかった。」

ルカによる福音書18章31-34節

 

大切な話を特別な人、信用できる人だけに話す人と、自分だけのひめゴトとして黙っているひとがいますが、あなたはちなみにどっちでしょう。特にこれ以上ないほどの喜びとなるとそれを自分だけのものにとどめるか、他の人に伝えるか、全く変わってきますよね。ただ神様は惜しまず与える、愛を注がれる神様、勝たれ導く神様なのです。あなたを救うためなら御子イエス様の命さえ惜しまない。この神様に私たちは委ね、惜しまず注がれる恵みに生かされ歩もうではありませんか。

 

さて、神の御子たるイエス様が人となって生まれてこられ、その公生涯を歩まれ、いよいよ十字架にかかる日が近づいてきたある日のこと、イエス様は十二弟子を傍に呼んで、話されます。今これを書きながら、イエス様が人となってお生まれになられた、って本当にすごいことだな、と思わされました。今旧約聖書はイザヤ書を見ていますがこのイエス様の誕生よりもはるか700年前に、イスラエルが堕落の一途をたどっていた時代に、それでも約束れされたこと(もっと言うならアダムとエヴァが罪を犯したときからこの十字架の約束は決められていたのですが)それがどれだけ堕落の道をたどっても神様はもうやめた、と愛することをやめることなく実行に移された、しかも神の御子たるイエス様を、わざわざ人となってまで生まれさせてくださったのですから。おなかもすけば血も汗も流れる、罪を犯さない点を除いては人と変わることなく

 

しかも幼少期から公生涯にかけても家族に仕え、またヨハネとマリヤの近くの家族にも、どれだけの恵みがそこから溢れたことでしょう。そして公生涯が始まって3年近く、イエス様は惜しむことなく各地を回り、癒し、教え、導いてこられたのです。時に殺されそうになろうと、イエス様は愛することをやめませんでした。

 

それだけではありません、今イエス様が御傍に呼んだのは「12」弟子です。そう、これからイエス様を裏切るイスカリオテのユダまで今イエス様は大事な大事な話だから聞いてほしい、と招かれているのです。イエス様の願いは御子イエス様を信じる人が一人として滅びることなく永遠の命を持つこと、それがここにも表れているのではないでしょうか。実際、イエス様はもう少し先の最後の晩餐の時もイスカリオテのユダも招き、最後の最後までその愛を注いだことが記されています。結局ユダはそれでも裏切る道を選ぶのですが。

 

そしてイエス様は彼らに「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子について預言者たちが書いているすべてのことが実現されるのです。人の子は異邦人に引き渡され、そして彼らにあざけられ、はずかしめられ、つばきをかけられます。彼らは人の子をむちで打ってから殺します。しかし、人の子は三日目によみがえります」と語られます。しかし彼らは「これらのことが何一つわからなかった。彼らには、このことばは隠されていて、話された事が理解できなかった」と仰られるのです。

 

イエス様は、これまで多くの裏切りや迫害を受け、これからに自らも「異邦人に引き渡され、そして彼らにあざけられ、はずかしめられ、つばきをかけられます。彼らは人の子をむちで打ってから殺します」と仰られていますが、それが起こるとわかっていて、それでもなおイエス様はエルサレム、十字架への道を進み続けるのです。やめようと思えばやめられたかもしれない、彼らを、私たちを見捨てようと思えば見捨てられる、しかしイエス様は私たちを見捨てることではなく、イエス様ご自身が殺されても、彼らが、私たちが生きることを願われ、その歩みを止めなかったのです。

 

そしてこのイエス様の死は死で終わらず、イエス様との関係は十字架で終わるのではなく、3日目によみがえられることによって、罪によって断絶され、ここまで見てきた神の国に入る事さえ赦されないはずの私たちを、このイエス様の究極の愛、十字架による死と復活によって招き入れられ、私たちは永遠の死から、永遠の命へ、神様の広げられる永遠の御国へと招き入れてくださるのです。

 

弟子たちはこの時、その目で見ているわけでもなく、またイエス様がそんな死ぬはずがない、と思ってか、理解することはできませんでした。しかし、神様はこのイエス様をもって私たちの理解をはるかに超えた神様の深い恵み、御心をあなたに注がれ、導かれるのです。イエス様の命にあって新しくされたこの命を、道を。あなたにも、今日イエス様は語られる、あなたに生きてほしい、とその命をかけてまで愛されたイエス様が今日あなたをその愛ゆえの命の道へと導かれる、あなたはこのイエス様の命がけの愛によって開かれたこの命、どれだけ期待しているでしょうか。こんな私、あなたさえ愛された、惜しまないイエス様に今日も明日も、とこしえに信頼し歩もうではありませんか。またこの受けた愛をもって世に、隣人に、仕える、伝える者でありたいものです。