―どこに富・いのちを求めようか― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「またある役人が、イエスに質問して言った。『尊い先生。私は何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。』イエスは彼に言われた。『なぜ、わたしを【尊い】と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかにはだれもありません。戒めはあなたもよく知っているはずです。【姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。父と母を敬え。】』すると彼は言った。『そのようなことはみな、小さい時から守っております。』イエスはこれを聞いて、その人に言われた。『あなたには、まだ一つだけ欠けたものがあります。あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。』すると彼は、これを聞いて、非常に悲しんだ。たいへんな金持ちだったからである。イエスは彼を見てこう言われた。『裕福な者が神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。』これを聞いた人々が言った。『それでは、だれが救われることができるでしょう。』イエスは言われた。『人にはできないことが、神にはできるのです。』すると、ペテロが言った。『ご覧ください。私たちは自分の家を捨てて従ってまいりました。』イエスは彼らに言われた。『まことに、あなたがたに告げます。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てた者で、だれひとりとして、この世にあってその幾倍かを受けない者はなく、後の世で永遠のいのちを受けない者はありません。』」

ルカによる福音書18章18-30節

 

世の中には色んな意味で成功を収めている、と言われている人がいますが、本当に優れている人、価値がある人とはどのような人なのでしょうね。というよりもそこにどれだけの価値があるのでしょう。もちろん成功をした、と思う人は満たされるのでしょうけど、またそれはいつかは追い抜かれます。じゃあ本当の成功、富はどこにあるのでしょう。私たちは神様が私たちを本当に命あるもの、価値あるものとさせてくださることを忘れてはいけません。私たちはこの神様をいつまでも追い求めようではありませんか。神様は御子イエス様の命を持ってまであなたを愛されたのだから。

 

さて、↑は神の御子イエス様が人となってお生まれになったある日、宗教家たちが、「神の国はいつ来るのか」という質問をしてきたことに対して、「神の国は、人の目で認められるようにして来るのではありません」とイエス様は答えられ、いくつかたとえ話をされた後、その話を聞いてイエス様に自分がいかに優れているのかを示そうとする役人が来ました。

 

その役人がイエス様に「尊い先生。私は何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか」と尋ねるのですが、イエス様は「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかにはだれもありません。戒めはあなたもよく知っているはずです。『姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。父と母を敬え。』」と答えます。そこで役人はさらにイエス様に、「そのようなことはみな、小さい時から守っております」と答えるのでした。

 

役人からしたら、自分はもうあれもこれも当然のように行ってきた、誰からも尊敬されるべき人間、むしろイエス様に尊いですね、と言われたかったのかもしれません。だからイエス様がいう神の国は当然自分のものになるでしょう、そう宣言してください、あなたにはそれができるから、と彼の内にあってイエス様に尋ねたのです。

 

しかし、イエス様は彼に「あなたには、まだ一つだけ欠けたものがあります。あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい」と答えました。これはただ善行を積めば天国に行けるとか、そういうことをイエス様が仰っているのではないのです。

 

イエス様は他の福音書で「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです」とも語られました。そう、本当の宝と言うのは、決して奪い去ることのできない、神様のもとにこそあるのです。イエス様が仰られたのは、善行が足りない、と言うことではなく、むしろ本当の善なる神様ご自身を求めていない、神様が本当の命を与えてくださるのにどうして神様を求めていないのか、それを問われたのです。

 

役人は確かに富んでいました。しかし、その富がどこからきているのか、彼は理解していないのです。神様が彼を富ませて下さっていることを、私たちの全てを神様が満たし、貧しくとも豊かだと言わせて下さる、そのように満たして下さることを彼は理解せず、自分の成功による事だと考え、自分が否定されたかのように悲しむのでした。

 

イエス様は「裕福な者が神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい」と仰りますが、イエス様は、その難しいことを、本来の富で、いのちで私たちを満たすため、最も難しいこと、ラクダが針の穴を通る以上に難しい、何の罪もないイエス様が天の御国にはいるのが難しいほど、この世の富で満たそうとする、神様を神様と思わず歩む私たちを神様の御国に迎えるために、私たちの罪の身代わりに十字架にかかられ、死なれたのです。しかし3日目によみがえられたことによって、このイエス様の十字架の前に悔い改め立ち返るすべての人の罪を赦し、神様の子としてくださるのです。

 

イエス様は、狭いと思う中を通るのは難しい、本来閉ざされたはずの御国への道を、神様の蔵をその命をもって開かれたのです。そこに注がれる恵みはいかばかりでしょう。イエス様は弟子たちに「まことに、あなたがたに告げます。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てた者で、だれひとりとして、この世にあってその幾倍かを受けない者はなく、後の世で永遠のいのちを受けない者はありません」と最後に告げられますが、家族をないがしろにしなさい、ということではありません。むしろ神様はあなたの父と母を敬え、と教えられています。

 

だから私たちは彼らを捨てるというよりも、彼らが新しくされることを願い、祈る事、その中に神様の富が豊かに広がる、恵みが広がる、私たちは親しい友だから、この富を失っては元も子もない、と思うのではなく、むしろイエス様にあって広がる、新しいこの命、イエス様の御心が完全にあらわされることを切に祈ろうではありませんか。閉ざされたはずの神様との関係がイエス様の命によって、そこまでしてまで広げられたのですから、私たちは自分の内だけにこのイエス様の愛を留めるのではなく、これが豊かに広げられることを切に祈ろうではありませんか。役人のように自分の内だけにこの恵みを留めるのではなく、豊かに広がって満ち溢れる事を。