―何のために奮い立とうか― | 子育て休職中牧師の聖書のおはなし

子育て休職中牧師の聖書のおはなし

東京で牧師をしておりましたが、子育てのため一時的に北海道に移住しました。
「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と語られた神様からのラブレター・聖書から少しずつ分かち合わせていただきますね(*^_^*)

「見よ。わたしは彼らに対して、メディヤ人を奮い立たせる。彼らは銀をものともせず、金をも喜ばず、その弓は若者たちをなぎ倒す。彼らは胎児もあわれまず、子どもたちを見ても惜しまない。こうして、王国の誉れ、カルデヤ人の誇らかな栄えであるバビロンは、神がソドム、ゴモラを滅ぼした時のようになる。そこには永久に住む者もなく、代々にわたり、住みつく者もなく、アラビヤ人も、そこには天幕を張らず、牧者たちも、そこには群れを伏させない。そこには荒野の獣が伏し、そこの家々にはみみずくが満ち、そこにはだちょうが住み、野やぎがそこにとびはねる。山犬は、そこのとりでで、ジャッカルは、豪華な宮殿で、ほえかわす。その時の来るのは近く、その日はもう延ばされない。」

イザヤ書13章17-22節

 

私たちは時に一念発起して何かに打ち込むことがあります。その時、そのあなたの内にどんな思いがあってするのでしょう。いずれにしてもそこに情熱、思いがなければいつかは燃え尽きてしまいます。しかし、神様のあなたへの情熱は冷めることなく、その御手を今日も伸ばされている。あなたは神様をあきらめることがあっても、神様はあなたに命を得てほしいと御子イエス様の命さえ惜しまなかった。この神様の愛の前に私たちはどう応答し、歩むでしょうか。

 

さて、↑は古代イスラエル王国が分裂して後、北イスラエルがアッシリヤ帝国に捕囚され、また南ユダ王国をアハズ王が統治していた時期に、神様が預言者イザヤを通して諸国に預言されたもの、宣告されたものになります。ここまでの預言では、神様ご自身が動かれ、招集する軍隊(御霊様であり、主の助けそのもの)が集められ、神様の愛、御心がなること、また大患難の中にあっても主がその御手を伸ばされている事、救いの日についてみてきました。

 

↑はさらにその続きになります。神様は預言者イザヤを通してなお、「見よ。わたしは彼らに対して、メディヤ人を奮い立たせる」と語られます。はい、今度は聞いての通りメディヤについて神様は言及されています。

 

13-14章はバビロンに対する宣告になっていますが、イスラエルを苦しめ、また諸外国に対しても行った残虐な行為ゆえに神様は彼らをさばきます。イスラエルも、ここまで見てきたように、ペルシャ帝国とメディヤの連合軍によってバビロンはうち滅ぼされ、イスラエルは解放されます。

 

ちなみに続きの14章に記されているのですが、この時の預言がなされたのは、まだバビロン捕囚が起こる前、アハズ王が死んだ年、BC715年になります。そしてメディヤ人がバビロンを倒したのはBC539年です。イザヤは約130年前にこの預言を行なったことになるわけです。ちなみに南ユダがバビロンによって捕囚されるということが決まったのが、アハズの息子ヒゼキヤ王の時代になります。そうすると、ある意味で彼らが捕囚されない道もある意味ではあった、神様のこの預言の前に悔い改めるか。しかし、ヒゼキヤにしても、後に宗教改革に取り掛かるヨシヤ王にしても、どこか自分の力で、という部分があったためか、結局神様を完全には求めないところがありました。神様は救いの御手を伸ばされている、でも現実はこんなに問題があるじゃないか、と。

 

ヒゼキヤ王についてはまた、イザヤ書の預言の中で触れていくと思うのでそれはその時に分かち合いますが、ヨシヤ王については列王記の分かち合いの中でも触れましたが(詳しくはブログの列王記のところを見ていただければ)彼はバビロンを討つためにイスラエルを通るエジプトに対して、神様はそれはしてはいけないといったのにもかかわらず、自分の領土を通ることは赦さない、と討って出、逆に返り討ちにあって殺されるという、何でこんないい王様、と評される王様が殺されなければいけないんだ、と不思議に思われる出来事があります。

 

ただ、彼はその時預言者を通して、神様が語られたことをないがしろにし、いや現実今エジプトが通りかかっている、このまま通ることを赦したら、バビロンの後にやられてしまうではないか、と神様の御言葉と現実を天秤にかけ、現実を取った、結果殺されてしまうのです。ゃあ神様はヨシヤ王の心配の通り、イスラエルを放っておくことをしたのか、もしヨシヤ王が出ていかなければ。そうではないのです。神様は彼が命を得てほしいと、それでも語りかけていたのです。

 

その神様の語りかけ、また律法の書(今でいう創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)を見つけて読み返し、宗教改革を行ったはずなのに、神様の約束をないがしろにした、そこまで熱心に律法の書を読んでいたのなら、預言者たち、イザヤが語ったことも聞いていた、伝聞ででも知っていたでしょう。しかし、この未来に向けて、バビロンを滅ぼしてくださる、打ち砕いてくださる、と言う約束、神様がその霊をもって奮い立たせて勝利させてくださる、と言う約束を彼は待てなかったのです。

 

私たちはどうでしょう。明日を保証してくださっている神様に信頼しているでしょうか。神様を待てずに何か別なものに頼る、と神様の約束をないがしろにしていないでしょうか。前の方の章で、イエス様がインマヌエル、共にい続けるという約束を見ました。それは、やはりイエス様誕生の約700年前になされたものです。しかし、捕囚などを通って、見捨てられてもおかしくない中で、確かにイエス様の誕生、救いの約束は果たされたのです。

 

神様は、イスラエルのためにメディヤの魂を奮い立たせ、バビロンを討たせました。神様は確かに私たちのために震え立ち、立ち上がって、戦ってくださる、またその御業もって、私たちの魂をも良い意味で震え上がらせ、立ち上がらせてくださるのです。主があなたの人生を貫き導いてくださるのだから、どうして神様から離れる必要があるでしょう。明日を保証するのは神様なのですから。

 

なお神様はイザヤを通して、「彼らは銀をものともせず、金をも喜ばず、その弓は若者たちをなぎ倒す。彼らは胎児もあわれまず、子どもたちを見ても惜しまない」と語られます。彼らは、金銀で、お金でどっちにつくかを決めない。捕囚民を助けてどうして自分たちに得があるか、などとは考えない。バビロンが頼っていた金銀によらず、神様の金銀と言いますか、金銀に勝る恵みを彼らは求めたのです。実際に捕囚後に神様を恐れる王は出てきて、彼らは神様の溢れんばかりの恵みを受けることになります。

 

神様のなさることは、この世の何ものとも比較できません。金銀に勝る神様の恵みは私たちを救いに導かれるのです。それは、御子イエス様の愛、いのちです。この御子イエス様の命に変わるものなどありません。このイエス様の命をもって、神様は私たちを取り戻された、私たちを縛り付ける思い煩い、痛み、何より罪、サタン一切から取り戻し、神様の栄光の内に招き入れるために、イエス様はご自身の命を惜しまれなかったのです。この世の何ものがこのイエス様の愛に勝ることができるでしょうか。

 

私たちは確かに周りには戦わなければいけない問題は山積しているかもしれません。しかし、メディヤを立ち上がらせた神様は、あなたのために、御子イエス様をもって間であなたのために戦われ、取り戻そうとしてくださるのです。今、イザヤを通して未来が語られている通り、神様は今だけ救って後は好きにすればいい、と見放すのではなく、このイエス様の命にあって私たちは取り戻される、主のものとされるのです。あなたを苦しめるもののために毅然として戦われる。イエス様の命を持ってまであなたのために戦い取り戻された、この神様の愛をどうして疑うことができるでしょう。今、今日あなたのために、語られている、それは目先の話ではない、あなたを丸ごと愛し、導くため、日々語られ、導かれていることを私たちは忘れてはいけません。

 

さらに神様はイザヤを通して、「こうして、王国の誉れ、カルデヤ人の誇らかな栄えであるバビロンは、神がソドム、ゴモラを滅ぼした時のようになる。そこには永久に住む者もなく、代々にわたり、住みつく者もなく、アラビヤ人も、そこには天幕を張らず、牧者たちも、そこには群れを伏させない。そこには荒野の獣が伏し、そこの家々にはみみずくが満ち、そこにはだちょうが住み、野やぎがそこにとびはねる。山犬は、そこのとりでで、ジャッカルは、豪華な宮殿で、ほえかわす。その時の来るのは近く、その日はもう延ばされない」と語られます。

 

ソドムとゴモラの町は、一瞬にして廃墟になり、その後再建されることはありません。今もです。神様は、完全な勝利を十字架上で成し遂げられました。あなたを取り戻す、という。私たちをイエス様の愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエス様にある神の愛から、私たちを引き離すことはできません、この確信あなたにもありますか?その確信を結ばせ、成就させてくださるのは、このイエス様の命を惜しまなかった神様以外にはあり得ません。

 

確かに様々な問題が私たちを襲い掛かることはあるかもしれませんが、主が、今引用したパウロの手紙のように、間違いなく共におられ、イザヤを通して預言されたように、インマヌエル、イエス様の十字架によって結ばれた永遠の計画にあって、私たちと共におられ、進まれ、導かれるのです。そこにあなたを打ち倒すことができるものなどいません。あなたにこの確信はありますか?

 

ところで「そこには永久に住む者もなく、代々にわたり、住みつく者もなく、アラビヤ人も、そこには天幕を張らず、牧者たちも、そこには群れを伏させない。そこには荒野の獣が伏し、そこの家々にはみみずくが満ち、そこにはだちょうが住み、野やぎがそこにとびはねる。山犬は、そこのとりでで、ジャッカルは、豪華な宮殿で、ほえかわす」と語られていますが、実際はどうなのか。ペルシヤ人クロス王がバビロンの町を陥落させたとき、彼は町を滅ぼしませんでした。ギリシヤのアレキサンダー大王もペルシヤに打ち勝った後、この町を使いました。けれども少しずつ廃れてゆき、紀元後三世紀には完全な廃墟となりました。

 

じゃあその後再建しようとした人はいなかったのか?いえ、いたんです。バビロンの町を再建しようとした人それが、イラクの元大統領、サダム・フセインです。けれども彼もこれを完成させることなく、世を去ったのです。バビロンを再建していた時、アラブ人のベトウィンはおどろくことに、そこに入ろうとしませんでした。理由は、悪霊がそこをすみかとしているから、ということです。↑にある「野やぎ」と言う言葉は悪霊と訳すことができる言葉です。さらに黙示録18章にも、バビロンが悪霊の住まい、とあります。

 

私たちはイエス様の命によって買い戻されたものです。もう私たちは私たちの内を、またあなたの遣わされている場所を悪霊の住処にしてはいけない、むしろ私たちは主の宮、神様の栄光が現わされる場所と変えられていく事を切に祈ろうではありませんか。あなたの内に永遠に住まわるために、ご自身の命を惜しまず与えてくださったイエス様、復活と共にあなたの内に住まわれ、導かれるイエス様から離れることなく、その御声に聴き従い、歩みたいものです。