失敗の意義は | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

失敗は教師であるべきであって、葬儀屋であるべきではない。失敗は遅れであって、敗北ではない。失敗は一時的な遠回りであって、行き止まりではない。
ージョン・マクスウェル牧師ー

 

誰にでも失敗はあります。でもそれは終わりではありません。

神様は一度の失敗で見捨てるような方ではありません。

これら全部をイエス様に十字架で背負わせ、身代わりに罰せられたのです。そして3日目によみがえられた。

 

わざわざそこまでしなくても、と思う人もいるかもしれません。でもそれでも遠回りに見えて、

新しい命を与えるため、神様の家族として迎え入れるためなされたのです。葬儀屋としてあなたを罰し、葬るのではなく。

 

この世的に敗北したように見えて神様は、勝利の行列へと招いてくださるのです。

時に失敗することはあっても、そのことを通して神様はすべてを働かせて益としてくださるのです。それが十字架にある約束なのです。

 

もちろん人ですから失敗もします。

でも、まことの教師、救い主なるイエス様に立ち返ろう。そして正しい道へ導いていただこうではありませんか。