―信頼と休息― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「その日になると、イスラエルの残りの者、ヤコブの家ののがれた者は、もう再び、自分を打つ者にたよらず、イスラエルの聖なる方、主に、まことをもって、たよる。残りの者、ヤコブの残りの者は、力ある神に立ち返る。たとい、あなたの民イスラエルが海辺の砂のようであっても、その中の残りの者だけが立ち返る。壊滅は定められており、義があふれようとしている。すでに定められた全滅を、万軍の神、主が、全世界のただ中で行なおうとしておられるからだ。それゆえ、万軍の神、主は、こう仰せられる。『シオンに住むわたしの民よ。アッシリヤを恐れるな。彼がむちであなたを打ち、エジプトがしたように杖をあなたに振り上げても。もうしばらくすれば、憤りは終わり、わたしの怒りが彼らを滅ぼしてしまうから。オレブの岩でミデヤンを打ったときのように、万軍の主がアッシリヤにむちを振り上げる。杖を海にかざして、エジプトにしたように、それを上げる。その日になると、彼の重荷はあなたの肩から、彼のくびきはあなたの首から除かれる。くびきはあなたの肩からもぎ取られる。』彼はアヤテに着き、ミグロンを過ぎ、ミクマスに荷を置く。彼らは渡し場を過ぎ、ゲバで野営する。ラマはおののき、サウルのギブアは逃げる。ガリムの娘よ。かん高く叫べ。よく聞け、ラユシャよ。哀れなアナトテ。マデメナは逃げ去り、ゲビムの住民は身を避ける。その日、彼はノブで立ちとどまり、シオンの娘の山、エルサレムの丘に向かって、こぶしを振り上げる。見よ。万軍の主、主が恐ろしい勢いで枝を切り払う。たけの高いものは切り落とされ、そびえたものは低くされる。主は林の茂みを斧で切り落とし、レバノンは力強い方によって倒される。」

イザヤ書10章20-34節

 

あなたにはこの人だけは信頼できる、という人がいますか?それはどんな人でしょう。ある人は背中を預けられる人、ある人はいざという時に一緒にいる人、など答えが返ってきます。人それぞれ意見はあるかもしれませんが、いざという時に離れていてしまう方では困りますよね。互いに支え合い、励まし合い。ただ、神様はインマヌエルなるイエス様を私たちのために遣わしてくださりました。世の終わりまで共におられると約束してくださったイエス様が、あなたがどんな時であっても共にいて、休ませ、また養い、導いてくださる。私たちはこの神様にいつまでも「信頼」し歩もうではありませんか。

 

さて↑は、古代イスラエル王国分裂後、北イスラエルがアッシリヤに捕囚される直前、南ユダ王国ではアハズ王が統治していたころ、神様が預言者イザヤを通して語られた言葉になります。アハズ自身も神様から離れ、もう見捨てられてもおかしくない中、神様はもう捨てる、と宣言されるのではなく、彼らが悔い改め立ち返ることを願いその御手を伸ばされたのでした。

 

そして神様がいつまでも共にいるよ、と言う約束を込めて、インマヌエルなる救い主イエス様の誕生を約束された、どんなに彼らが神様から離れようともその約束を取り下げず、語り続けるのでした。インマヌエルと呼ばれる、ように神様がそのご栄光をイエス様を通して現わされる、と。実際のイエス様の誕生はこの時より700年近く先の話になります。それを今、約束されるということは、ずっと先の未来だけ神様が保証されているわけではない、今彼らを、私たちをその恵みの中に、永遠の計画の中に招かれているのです。

 

しかし、北イスラエルはアラムと手を組み、兄弟国の南ユダを攻め、南ユダもアッシリヤと手を結ぶことによって何とか自分たちを守ろうとします。しかし、北イスラエルの連合軍はアッシリヤに打たれ、また南ユダもアッシリヤに苦しめられていく事になります。アハズは徹底して、何が何でも神様を求めない、他のアッシリヤなどとは手を結んでも、これまでイスラエルを養い支え、導いてきてくださった神様だけはどういうわけか頼らず、じゃあ、とアッシリヤが彼らを攻撃し苦しめます。

 

ただ神様は昨日分かち合わせていただきましたが、じゃあ彼らを見捨てたのかと言われれば、彼らをそれでも憐れみ、この後ヒゼキヤの時代にアッシリヤに責められる中、神様は不思議な業により、アッシリヤ群を一度時刻に引き返させ、結果、当時のアッシリヤの王セナケリブは暗殺され、衰退し、ついにはバビロンに討たれることとなるのです。神様は、インマヌエルなる救い主イエス様を与えてくださる約束の中にあって彼らを見捨てず、彼らをさばく約束をされ、実行されたのでした。

 

↑は、今度はアッシリヤの捕囚や脅威にさらされる南ユダについて語られます。滅ぼしつくされて終わり、ではない、残りの者たちの回復について語られます。神様はイザヤを通して「その日になると、イスラエルの残りの者、ヤコブの家ののがれた者は、もう再び、自分を打つ者にたよらず、イスラエルの聖なる方、主に、まことをもって、たよる。残りの者、ヤコブの残りの者は、力ある神に立ち返る。たとい、あなたの民イスラエルが海辺の砂のようであっても、その中の残りの者だけが立ち返る。壊滅は定められており、義があふれようとしている。すでに定められた全滅を、万軍の神、主が、全世界のただ中で行なおうとしておられるからだ」と語られます。

 

南ユダの問題なら私たちには関係ない、と思われますか?しかしイエス様の誕生の預言がこの前後に挟まれていることを考えますと、ただこの時の回復の話だけを指していないことがわかります。「その日」というのは、第一義的にはアハズ王の死後、なお続くアッシリヤによる南ユダの苦境が続きます。

 

ヒゼキヤ王はこの時代の中、アッシリヤを退けることでは知られているのですが、しかし、すぐに回復するわけではなく、その時まで14年の時がかかります。そしてまた後の章でも触れますが、相当厳しい状況に彼らは直面します。アッシリヤに囲まれ、馬頭され、罵られ、食料も囲まれなくなっていった。北イスラエルを捕囚したアッシリヤの力、当時彼らの支配は相当残虐なものであったことはこれまでも見てきましたが、そのような勢力に囲まれ、南ユダは苦境に立たされるのです。

 

しかし彼らもついに、預言者イザヤのもとに遣いを送り、「神様に」祈ってほしい、と要請します。周辺の列強国の一つ、エジプトに頼るわけでもなく、台頭し始めていたバビロンにこの時は頼るわけでもなく、目に見える何かではなく、確かに生きておられる神様に祈ってほしい、と頼るのです。自分たちの勝利の方法を指南してくれ、ではなく、神様以外に助けはないんだ、と願うのです。

 

その立ち返る民が起こった時について神様はイザヤを通して「シオンに住むわたしの民よ。アッシリヤを恐れるな。彼がむちであなたを打ち、エジプトがしたように杖をあなたに振り上げても。もうしばらくすれば、憤りは終わり、わたしの怒りが彼らを滅ぼしてしまうから。オレブの岩でミデヤンを打ったときのように、万軍の主がアッシリヤにむちを振り上げる。杖を海にかざして、エジプトにしたように、それを上げる。その日になると、彼の重荷はあなたの肩から、彼のくびきはあなたの首から除かれる。くびきはあなたの肩からもぎ取られる」と語られます。もうアッシリヤを恐れる必要はない、と。

 

神様がそこに介入される約束をされるのです。必ず勝利へと導かれる、と。実際、その戦いの時に、悔い改め、神様を求めるヒゼキヤ王の使者に「あなたがたの主君にこう言いなさい。主はこう仰せられる。『あなたが聞いたあのことば、アッシリヤの王の若い者たちがわたしを冒涜したあのことばを恐れるな。今、わたしは彼のうちに一つの霊を入れる。彼は、あるうわさを聞いて、自分の国に引き揚げる。わたしは、その国で彼を剣で倒す。』」と伝えます。そして事実そこから彼らは敗北、帝国の崩壊へと向かっていくのです。残虐と暴力が跋扈した支配はもうすたれ、失われるのです。この辺の詳しい話は、またこの辺りの話が出て着るイザヤ書中盤で詳しく分かち合いますね。

 

ただ一つ言えるのは、「その日」は↑の預言が語られた時より少し先の時代の話ですが、「もう再び、自分を打つ者にたよらず、イスラエルの聖なる方、主に、まことをもって、たよる。残りの者、ヤコブの残りの者は、力ある神に立ち返る」、その時確かに起こるのです。回復が。神様ご自身の愛は残っている、その神様に立ち返る、その時神様の霊が震え、働かれるのです。神様が最初から見捨てていたならこんなことは言わない、でも神様はインマヌエルというその約束がある未来の一時でだけではなく、その恵みの中に確かに招かれているのです。

 

神様の内にこそ希望がある。残された者、どんな状況下にあっても私たちはこの神様の希望に信頼する者でありたいものです。神様が、その勢いをもって戦ってくださる。あなたは捨てられたのではない、あなたが帰ってくるのを神様は待っておられるのです。神様の愛がまだあなたの内にとどまっている、それなのにどうしてこの希望を捨てることができるでしょうか。

 

↑の最初で、何度となく、「たよる」、「立ち返る」と述べられていますが、実はこれはとても大きな意味を持った言葉なのです。「足を洗う・互いに愛し合う」こと、そして「休ませる」と言う意味合いを持っています。私たちが全幅の信頼をもってイエス様のもとに寄りかかる時、私たちは本当の意味での安らぎ、神様の与えてくださる安息、平安を得させていただけるのです。それは↑で神様ご自身が成してくださるのです。与えてくださるのです。初めに神様が愛を示され、神様が私たちの変えるべき場所を示されたのです。

 

それはヒゼキヤの時だけではない、イエス様の十字架にあって今もあなたに約束されているのです。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」とイエス様ご自身が約束されているように。イエス様があなたの休みどころとなってくださり、そこで養われ、安らがせていただける、だからこそ私たちは神様をあきらめてはいけません。

 

イエス様の十字架にあってあなたは平安へと招かれたのです。イエス様の命がけの愛をもって。あなたがまだ罪の中にいる時からあなたを見捨てず、よい計画を持たれ、その計画、あなたの救いのために御子イエス様を私たちの罪の身代わりに十字架にかけられ、死なせたのです。そして3日目によみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の前に悔い改め立ち返るすべての人の罪を赦し、神様の子として、家族に招き入れてくださるのです。

 

このイエス様の命にあって招かれた新しい命、そこに神様がどれだけの愛を涙をもって示されたか。私たちのために、私たちが世の思い煩いなど一切から解き放たれ、自由にされ、神様の与えてくださる平安を私たちはまず示されたのです、招かれたのです。私たちは誰に信頼するでしょうか。

 

実はヒゼキヤのその戦いの中で敵は「ヒゼキヤに伝えよ。大王、アッシリヤの王がこう言っておられる。いったい、おまえは何に拠り頼んでいるのか。口先だけのことばが、戦略であり戦力だと思い込んでいるのか。今、おまえはだれに拠り頼んで私に反逆するのか」と嘲笑してきたのですが、あなたは何により頼みますか?むしろ口先だけのあなたを支配する、苦しめる者、そんなものに私たちは縛られるのではなく、インマヌエルの約束を成就される神様に今日立ち返ろう。ここにまことの平安、安らぎが、いのちが、イエス様の命を持ってまで取りもどされ、成し遂げられる良い計画を神様はすでに準備されているのだから。今日神様に「信頼」するものであろう。