―それでも、なお、それでも、なお、それでも、なお― | 子育て休職中牧師の聖書のおはなし

子育て休職中牧師の聖書のおはなし

東京で牧師をしておりましたが、子育てのため一時的に北海道に移住しました。
「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と語られた神様からのラブレター・聖書から少しずつ分かち合わせていただきますね(*^_^*)

「主がヤコブに一つのことばを送られた。それはイスラエルに落ちた。この民、エフライムとサマリヤに住む者たちはみな、それを知り、高ぶり、思い上がって言う。『れんがが落ちたから、切り石で建て直そう。いちじく桑の木が切り倒されたから、杉の木でこれに代えよう。』そこで主は、レツィンに仇する者たちをのし上がらせ、その敵たちをあおりたてる。東からはアラムが、西からはペリシテ人が、イスラエルをほおばって食らう。それでも、御怒りは去らず、なおも、御手は伸ばされている。しかし、この民は、自分を打った方に帰らず、万軍の主を求めなかったそこで、主はイスラエルから、かしらも尾も、なつめやしの葉も葦も、ただ一日で切り取られた。そのかしらとは、長老や身分の高い者。その尾とは、偽りを教える預言者。この民の指導者は迷わす者となり、彼らに導かれる者は惑わされる。それゆえ、主はその若い男たちを喜ばず、そのみなしごをも、やもめをもあわれまない。みなが神を敬わず、悪を行ない、すべての口が恥ずべきことを語っているからだ。それでも、御怒りは去らず、なおも、御手は伸ばされている。悪は火のように燃えさかり、いばらとおどろをなめ尽くし、林の茂みに燃えついて、煙となって巻き上がる。万軍の主の激しい怒りによって地は焼かれ、民は火のえじきのようになり、だれも互いにいたわり合わない。右にかぶりついても、飢え、左に食いついても、満ち足りず、おのおの自分の腕の肉を食べる。マナセはエフライムとともに、エフライムはマナセとともに、彼らはいっしょにユダを襲う。それでも、御怒りは去らず、なおも、御手は伸ばされている。」

イザヤ書9章10-21節

 

人は苦労しながらも、なんだかんだで失敗を繰り返しながら、らせん階段を上るように少しずつ成長していきます。ただ、そんな私たちを引き上げる方がいなければ逆に下がっていくだけ。人の努力では限界が時にはありますね。神様は、それでも私たちを見捨てず、いのちの道へと、命あるものへと代え、導いてくださる。この神様に今日、あなたの足を、あなた自身を委ね、歩ませていただこうではありませんか。

 

さて、↑はまだ古代イスラエル王国分裂後、南ユダ王国をアハズ王が統治していた時代の話になりますが、彼は徹底して神様が嫌うことを繰り返し行い、他の偽の神々に頼っても、これまでイスラエルを守り支えてきた神様だけには頼らないと宣言したり。そんな彼に、イザヤを通して神様は、救い主イエス様ご降誕の預言がされました。

 

その成された預言の中で、イエス様を通して神様は、「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」とイエス様が呼ばれるようなご自身の業を、熱心な思いをもって現わされる、というのです。主権者である神様が、子の暗闇の現実の中にあって、主の御名のもと宣言されたのです。

 

今の時代かなりきな臭くなってきましたが、自分たちには関係ない、と思わないでください。遠いところじゃなく、例えばあなたのまわりにも平和ではない状態があるかもしれない。仕事、家庭、その他諸々。しかし、神様が主権者であること、その神様にゆだねるとき、本当の平和が、成し遂げられる、神様の力ある御手をもって変えられるということを覚え、祈り続けたいものです。

 

話を↑に進めて、ここでは神様は3つの裁きを宣告されます。それならこれまでの預言は何だったんだ、と思うかもしれませんが、むしろ↑で「それでも、御怒りは去らず、なおも、御手は伸ばされている」と3回にわたって語られている、それでも、こんな状況下にあっても神様は救い主イエス様の誕生の預言を取り下げず、むしろ彼らが救われること、いのちを得ることを熱心に思い、その御手が伸ばされているのです。彼らに、私たちに。

 

では、神様は何を語られたのか。1つ目はイスラエルに対してですが、神様はイザヤを通して「主がヤコブに一つのことばを送られた。それはイスラエルに落ちた。この民、エフライムとサマリヤに住む者たちはみな、それを知り、高ぶり、思い上がって言う。『れんがが落ちたから、切り石で建て直そう。いちじく桑の木が切り倒されたから、杉の木でこれに代えよう。』そこで主は、レツィンに仇する者たちをのし上がらせ、その敵たちをあおりたてる。…それでも、御怒りは去らず、なおも、御手は伸ばされている」と語られます。

 

もともとヤコブ、一つのイスラエル民族だった、神様の恵み溢れる民族のはずだったのですが、彼らは国家が分裂した後、北イスラエルは高慢になり、神様よりも自分たちファーストに走り、迷走し、国民も苦しみます。実際、彼らはたとえ、何かを損なっても、私たちにはまだ力がある、自分たちの力と知恵、また自分たちにあるもので、やり直せば良いこと、と虚勢をはるのでした。

 

イザヤが預言者として召され、活動を始めたころは南ユダはウジヤ王が治めていましたが、北イスラエル王国ではヤロブアム二世が王として統治していました。彼も神様から離れていたのですが、それでもこの時、イスラエルはソロモンが王であった時の領土を回復したのでした。それはヤロブアム二世が何か良いことをしたからではなく、むしろ彼は神様から離れていた。それでも、神様は一方的な主の憐れみによって、その領土を回復させてくださったのです。それにもかかわらず、それは自分たちの力によるものだ、と高慢になり、この神様の憐れみに帰るのではなく、むしろ悪に悪を重ねていくのでした。

 

特に今預言が語られている、北イスラエル王国の末期は、王の側近や部下が王を暗殺して自分が王となって、数年後、数ヵ月後に今度は自分の側近に殺される、という繰り返しで終わっています。まさに、「れんがが落ちたから、切り石で建て直そう」という態になっていたのです。他のもので補充すれば神様に頼らなくても良い、という態度です。というよりも自分たちが思うようにしていれば何とかやり過ごせるだろう、と変な過信を持っていたのです。虚勢をはって神様に立ち返るのではなく、むしろかたくなになっていたのでした。

 

神様がまず北イスラエルを、ヤロブアム2世を含め腐敗しきっていた彼らをもう一度神様の恵みに立ち返ることができるよう、その愛をまず示された、それにもかかわらず、これは自分たちの力による、それは「それでも、御怒りは去らず、なおも、御手は伸ばされている」と言われても仕方がない話です。そしてついにはアッシリヤ帝国によってそぎ落とされてしまうのですが。そうならないよう、神様は御手を伸ばされ続けた、まさかのあり得ない回復をなされた、時にはアッシリヤの中枢にまで神様は御手を伸ばされ、預言者を遣わし、彼らの悔い改めによって北イスラエルを100年近く守られたこともあったのです。

 

もし、この問題を神様が、もうお前たちのことなど知らん、と放置していたらどうなっていたでしょう。熱さ過ぎれば喉元忘れ、また別な何かに変えればいい、とした結果その別な何かが最後は自分たちを追い込んだのです。神様は他に変わるものが無いほど憐れみをもって御手を伸ばされ、救おうとされているのです。裁かれるのではなく、救われ、永遠のいのちを得てほしい、それが神様の願いなのです。イエス様の誕生の預言に込められた御心をあなたの内にあらわしたいのです。私たちは目の前の問題にとらわれ過ぎて、その中に輝く神様の救い、愛から目をそらしてはいけない、神様は何もない、と私たちが思う中に確かにおられ、あなたの道を導かれるのです。

 

それが2番目の神様の指摘、「しかし、この民は、自分を打った方に帰らず、万軍の主を求めなかったそこで、主はイスラエルから、かしらも尾も、なつめやしの葉も葦も、ただ一日で切り取られた。そのかしらとは、長老や身分の高い者。その尾とは、偽りを教える預言者。この民の指導者は迷わす者となり、彼らに導かれる者は惑わされる。それゆえ、主はその若い男たちを喜ばず、そのみなしごをも、やもめをもあわれまない。みなが神を敬わず、悪を行ない、すべての口が恥ずべきことを語っているからだ。それでも、御怒りは去らず、なおも、御手は伸ばされている」に現れています。

 

これは指導者への裁きが語られています。彼らは、イスラエルが神様の目にどのような状態になっているかを見せるのではなく、かえって偽りを教えました(イスラエルがこのままでは外敵に襲われる、ということを教えないことです)。そして多くの真実を語る預言者を迫害、殺害したのです。それゆえ、このような指導者らは、神様によってイスラエルから切り取られました。

 

時に神様の語ることは厳しく聞こえるかもしれませんが、むしろ真実の中に神様の愛が現わされていることが見えるのです。先ほどの1番目の裁きの宣告で見たように。神様は切り取られる、失われるのではなく、あなたがいのちをえることを願われる。だから問題がある中で、神様がはっきり語る中で、そこから脱出させようとその御手を伸ばされるのです。神様は惑わす方ではなく、あなたの足の灯、道の光なのです。

 

それが明白になるのが、3番目の裁き、「悪は火のように燃えさかり、いばらとおどろをなめ尽くし、林の茂みに燃えついて、煙となって巻き上がる。万軍の主の激しい怒りによって地は焼かれ、民は火のえじきのようになり、だれも互いにいたわり合わない。…それでも、御怒りは去らず、なおも、御手は伸ばされている」という宣言です。

 

これはユダを攻撃しようとするエフライムとマナセに対するさばきになります。神様は、私たちが直視できないような現実にあってもその御手が伸ばされている、あなたを苦しめる者から救い出してくださる、だから北イスラエルがとってきた他のものにかえればいい、という高慢、虚勢をはる必要はなく、むしろ私たちは神様に立ち返りたいものです。南ユダからすればアハズ王の治世で見捨てられてもおかしくない中で、それでも神様は救いの御手を伸ばされ、今こそ回復の時、立ち返る時なんだ、と訴えるのです。あなたが悪に食いつくされることがないよう、裁きに食いつくされる前に立ち返ることを願い。

 

あなたが世に、あらゆる思い煩いに、何より罪、サタンに食いつくされることがないように、神様はまだ私たちが暗闇、罪の中にいるときにまず愛してくださりました、愛を示されました。あなたを救うためなら、と私たちの思い煩い、痛み、何より罪、一切を背負うために、同じ人となってうまれてこられ、同じ重荷を背負ってくださり、最後は私たちの裁き、死を取り除くため、私たちの身代わりに十字架にかかられ、死なれたのです。しかし3日目によみがえられたことによって、このイエス様の十字架の前に悔い改め立ち返るすべての人の罪を赦し、裁きから引き上げられ、神様の家族、子として迎え入れられるのです。

 

確かにこの3つの裁き、南ユダが直面しているような問題も私たちの周りにはあるかもしれません。しかし、あなたを見捨てるつもりなら、神様は御子イエス様を死なせることなど選ばなかったでしょう。しかし、それでもあなたを救うためにあなたのうちに来られたのです。ここに永遠の愛、いのち、御国が広げられていくのです。とっかえひっかえしなければならないほど、時代とともに変容するものではない、永遠の主権をもってあなたを養われる。あなたを食い尽くす様々な問題、罪、一切にイエス様は十字架の愛をもって勝利されました。もう神様をとっかえひっかえするのはやめよう。イエス様の命にあって新しい命へと代えられた今私たちはこの驚くべき恵み、愛から離れず、神様の恵みに生かされ、歩みたいものです。