「主は私に仰せられた。『一つの大きな板を取り、その上に普通の文字で、【マヘル・シャラル・ハシュ・バズのため】と書け。そうすれば、わたしは、祭司ウリヤとエベレクヤの子ゼカリヤをわたしの確かな証人として証言させる。』そののち、私は女預言者に近づいた。彼女はみごもった。そして男の子を産んだ。すると、主は私に仰せられた。『その名を、【マヘル・シャラル・ハシュ・バズ】と呼べ。それは、この子がまだ【お父さん。お母さん】と呼ぶことも知らないうちに、ダマスコの財宝とサマリヤの分捕り物が、アッシリヤの王の前に持ち去られるからである。』主はさらに、続けて私に仰せられた。『この民は、ゆるやかに流れるシロアハの水をないがしろにして、レツィンとレマルヤの子を喜んでいる。それゆえ、見よ、主は、あの強く水かさの多いユーフラテス川の水、アッシリヤの王と、そのすべての栄光を、彼らの上にあふれさせる。それはすべての運河にあふれ、すべての堤を越え、ユダに流れ込み、押し流して進み、首にまで達する。インマヌエル。その広げた翼はあなたの国の幅いっぱいに広がる。』国々の民よ。打ち破られて、わななけ。遠く離れたすべての国々よ。耳を傾けよ。腰に帯をして、わななけ。腰に帯をして、わななけ。はかりごとを立てよ。しかし、それは破られる。申し出をせよ。しかし、それは成らない。神が、私たちとともにおられるからだ。」
イザヤ書8章1-10節
以前、ポップ(商品に着目させるもの)について仕事で勉強する機会があったのですが、あまり長いものはダメ(3行程度)、色は3色程度(組み合わせも考える)、分かりやすい字体で、などありました。商品を手に取ってもらうまでの役割をこれが持っているのですが、昔の映画の看板などもそうですよね。いずれにしても、短くとも、宣伝ではありませんが、注目してもらう、という役割があります。曖昧な一言よりも、はっきりとした一言。神様のメッセージは愛。はっきりとあなたへの愛があなたの内に刻まれています。あなたはこの神様の愛にどれだけ信頼していますか?
さて、南ユダ王国をアハズ王が治めていたときにイザヤを通して神様は彼らに語られるのですが、前の章では救い主イエス様の誕生の預言が、アハズが神様の御前に悪を行っているとわかりながらも、それでも彼が立ち返ることを願い、なされたのです。インマヌエルと呼ばれるイエス様が彼らの救いのしるしとして、私たちの救いのしるしとして与えられる、と。実際、北イスラエルはもうじきアッシリヤに捕囚され、南ユダにも危機が迫っている、その中で神様は彼らを見捨てていない、私たちを見捨てていないことを語られたのです。
そんな中、神様はイザヤに「一つの大きな板を取り、その上に普通の文字で、『マヘル・シャラル・ハシュ・バズのため』と書け。そうすれば、わたしは、祭司ウリヤとエベレクヤの子ゼカリヤをわたしの確かな証人として証言させる」と仰ります。「マヘル・シャラル・ハシュ・バズのため」って何?と思うかもしれませんが、7章で少し触れましたが、それはイザヤの子供の名前で、その意味するところは、「分捕りは急、略奪は速やか」という意味を持ちます。
この言葉をそのまま、大きな板に記すように命じられるわけです。民もこの言葉にはびっくりしたでしょう。言葉だけを聞くと強烈に聞こえますが、よくよく7章の神様がイザヤを通して語られたことを思い返せば、それは南ユダを責めているアラム(ダマスコ、レツィン)と北イスラエルの中心部族のエフライム(サマリヤ、ペカ)の分捕り物がアッシリヤによって速やかに持ち去られる、という約束なのです。
ただ、神様からのメッセージはこれだけにとどまりません。イザヤがこののち、女預言者に近づき(変な意味ではなく、おそらく神様に導かれたのか)、彼女はみごもるのでした。そして男の子を産みます。すると、神様はイザヤに「その名を、『マヘル・シャラル・ハシュ・バズ』と呼べ。それは、この子がまだ『お父さん。お母さん』と呼ぶことも知らないうちに、ダマスコの財宝とサマリヤの分捕り物が、アッシリヤの王の前に持ち去られるからである」と仰られるのです。
まあ自分の子供の名前くらい自分でつけさせてほしい、と思われる方もいるかもしれませんが、預言者を通して与えられた子供ですから、神様のメッセージを受け取り、理解し、受け入れるのでした。カルト的、という意味ではないですよ?この名前は神様の約束という確信があるからこそなのです。今彼らを苦しめている者たちを神様が取り除いてくださる、それはもちろんアハズ王の治める南ユダだけの希望ではなく、神様がインマヌエルなる救い主を与えてくださる、そのずっと共にいてくださる約束が遠い未来だけではなく、今もここに現わされる、その喜びを知ることとなるのです。
預言者は神様の御ことばを預かり、また語るものです。そしてその御心を現すはたらきをします。預言者を通して神様が大きな板で目立つよう、分かるように記されただけではなく、神様ご自身がその名前を付けるように仰られたことで、神様の約束が確かなものであることを彼らは知ることになる、それでどうするか、それが問われたのです、アハズ王に、また私たちに。インマヌエルなる神様が救わんとされているんだよ、あなたはどうするの?と。神様の御思いが消えることのない確かな意思として示された、あなたは?と。
ただ、一方で神様はさらに、続けてイザヤに、「この民は、ゆるやかに流れるシロアハの水をないがしろにして、レツィンとレマルヤの子を喜んでいる。それゆえ、見よ、主は、あの強く水かさの多いユーフラテス川の水、アッシリヤの王と、そのすべての栄光を、彼らの上にあふれさせる。それはすべての運河にあふれ、すべての堤を越え、ユダに流れ込み、押し流して進み、首にまで達する。インマヌエル。その広げた翼はあなたの国の幅いっぱいに広がる」と語られます。
と言いますのも、南ユダ王国の民の中には、アッシリヤに服従することで守ってもらうアハズの政策に反対する勢力も、↑で「この民は、ゆるやかに流れるシロアハの水をないがしろにして、レツィンとレマルヤの子を喜んでいる」と語られているように、あったようです。どっちが正しいのか、と言われたら残念ながら両方とも問題があります。実際に神様が本来南ユダを↑の約束のように守ろうとしているのに、神様をないがしろにしていては、やがてユーフラテス川の水・アッシリヤが北イスラエルに留まることなく、南ユダにまで攻め込んでこられる、というのです。実際、アハズの次の王、ヒゼキヤの時代までアッシリヤはその手を休めず、神様の助けが来るまで彼らは苦しんでいたわけですから(その話はまた、イザヤ書の後の章で触れられます)。
そもそも神様が指摘されている「ゆるやかに流れるシロアハの水をないがしろにしている」というこのシロアハの水ですが、これはギホンのところにある水です。分裂前の、まだ神様を慕い求めていた古代イスラエル王国3代目の王、ソロモンがそこで祭司ツァドクと預言者ナタンに油注がれ王となりました。つまりシロアハの水は非常に少なく、小さいものですが、イスラエルにとってはとても重要なものであり、少ないものに感じても、大きな、枯れることのない神様の恵みが彼らを覆っている、インマヌエルなる方が、その広げた翼はあなたの国の幅いっぱいに広げて下さる、というのです。
「インマヌエル」という約束をしてくださった神様は、口で語られるだけではなく、実際に神様に立ち返り、涙と共に祈りをささげたヒゼキヤ王の治世で「国々の民よ。打ち破られて、わななけ。遠く離れたすべての国々よ。耳を傾けよ。腰に帯をして、わななけ。腰に帯をして、わななけ。はかりごとを立てよ。しかし、それは破られる。申し出をせよ。しかし、それは成らない。神が、私たちとともにおられるからだ」とアッシリヤの敗北について言及されているように、実際にアッシリヤがエルサレムを包囲した時に、一夜にして十八万五千人の軍隊が倒れることとなり、またアッシリヤのセナケリブ王も国に帰った後、自国で殺される事となります。そして衰退し、今度はバビロンが台頭してくるわけですが。
インマヌエルなるイエス様を遣わされると約束された神様は、ある一時だけ共にいて助けてくださるわけではなく、またアッシリヤ、バビロン捕囚を終えてもなお神様の御手が共にあってイエス様が人となって生まれてこられたように、確かにその御手は伸ばされ続けているのです。目の前の現実にどうしようもなく、何に頼ったらいいのかわからずさ迷い歩く私たちの道を照らしてくださる、導いてくださる、その両羽を広げ私たちを覆い、その翼で守り、導いてくださるのです。とこしえに。
そのために神様は私たちの苦しみも、不義、何より罪を私たちの身代わりにこのインマヌエルなるイエス様に背負わせ、十字架にかけ、死なせたのです。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の前に悔い改め立ち返るすべての人の罪を赦し、神様の子として迎え入れてくださるのです。
この十字架の福音、救いがあなたの内に、あなたに「神様が」イエス様の血潮をもって書き刻まれたのです。イエス様の命をもってまであなたに宣言されたこの救い、インマヌエル、神様がとこしえに共にあなたといる、と宣言された、この十字架の愛の前に私たちは今一度立ち返り、覚えるものでありたいものです。あなたにはあなたへの神様の約束が、このイエス様にあって現わされていくのですから、私たちはこの神様に信頼し、従い続けたいものです。あなたは一人ではなく、インマヌエルなるイエス様の命をかけた翼があなたのすべてのゆく道において覆われているのだから。どんなに時代が変容しても変わることのないイエス様の約束を握りしめ、主の照らされる道をまっすぐに歩ませていただこうではありませんか。