「ウジヤの子のヨタムの子、ユダの王アハズの時のこと、アラムの王レツィンと、イスラエルの王レマルヤの子ペカが、エルサレムに上って来てこれを攻めたが、戦いに勝てなかった。ところが、『エフライムにアラムがとどまった』という報告がダビデの家に告げられた。すると、王の心も民の心も、林の木々が風で揺らぐように動揺した。そこで主はイザヤに仰せられた。『あなたとあなたの子シェアル・ヤシュブとは出かけて行って、布さらしの野への大路のそばにある上の池の水道の端でアハズに会い、そこで彼に言え。気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはなりません。あなたは、これら二つの木切れの煙る燃えさし、レツィンすなわちアラムとレマルヤの子との燃える怒りに、心を弱らせてはなりません。アラムはエフライムすなわちレマルヤの子とともに、あなたに対して悪事を企ててこう言っています。【われわれはユダに上って、これを脅かし、これに攻め入り、わがものとし、タベアルの子をそこの王にしよう】と。神である主はこう仰せられる。【そのことは起こらないし、ありえない。実に、アラムのかしらはダマスコ、ダマスコのかしらはレツィン。―六十五年のうちに、エフライムは粉砕されて、もう民ではなくなる。―また、エフライムのかしらはサマリヤ、サマリヤのかしらはレマルヤの子。もし、あなたがたが信じなければ、長く立つことはできない。】』」
イザヤ書7章1-9節
私たちは何か思いもよらないことが起こると、動揺します。それはどうしようもないことですが、その時私たちはどうするでしょうか。あがき続けて疲れて寝る?忘れる?でもそれが長期にわたるものだったらどうにもなりませんよね。ただ、私たちは神様がいることを忘れてはいけません。神様は私たちが知らないでいるだけで、私たちを何とか導こうとその御手を伸ばされているのです。あなたを引き上げる、救うために。私たちは静かに神様を待とう。静まり祈り、ただひれ伏し、主を待ち望もうではありませんか。待っている間もあなたを守り導いてくださるから。
さて、↑はウジヤ王の死後、イザヤの再召命の後の話になります。↑の続きではイエス様の誕生の預言が語られるのですが、その背景には何があったのか、それがここで語られています。1-5章でイザヤが活動していた時期のウジヤ王の子のヨタム王の子、ユダ(南ユダ王国、ということ)の王アハズの治世に、アラムの王レツィンと、イスラエルの王レマルヤの子ペカが、エルサレムに上って来てこれを攻めてきたのです。イスラエルの王、北イスラエルですよ。分裂しているとはいえ、同じイスラエル民族、エジプトから一緒に出エジプトした仲間ではありませんか。それがなんと、こともあろうに南ユダに、敵国と一緒に攻めてきたのです。とんでもない状況に南ユダ王国は陥っていたのです。
どうして?神様は何もしてくれないのか?と思いたくなるでしょうが、彼らには大きな問題があったのです。まあ私たちも、なぜ神様はこのような状態になっても放っておかれるのか、と思うことがありますが、しかし考えてみれば私たちはその時神様に背を向けていないだろうか、神様はあなたを救おうとイザヤを通して語られているし、今もあなたに語ろうとし、救い出そうとしているのに、私たちが背を向けてどうしますか。そんな時、怒る前に神様を求めることを忘れていませんか?
それで、そのアハズ王の問題なのですが、ウジヤは5章までで触れたように、ゼカリヤが生きている間は神様を求め、従っていたのですが、そこから離れ国は衰退してしまいました、が、その息子ヨタムは神様を求め、立ち返り、彼は神様の目にかなう歩みをしていた、と評価されています。捕囚後の歴史家エズラもそのように彼を評価しています。
この時、ヨタム王はアモンとの戦いにおいて勝利し、それゆえに経済的な豊さが与えられたのです。また、ユダの山地に町々を建て、森林地帯には城壁とやぐらを築いたのでした。その背後には確かに神様の与えてくださる経済的な富があったのです。それゆえに彼は勢力を増し加えることができました。というよりも神様が増し加えてくださった、彼の道を確かなものとしてくださったのです。
しかし、その息子アハズは父に従わず、神様から離れ、神様の目に悪とされることをことごとく行ったのです。神様の祝福を見ていたはずなのに、彼は徹底して離れた。父の能力よりも自分の方が優れていると思い違いをしたのか。父ヨタムは神様に従っていた、その彼の歩み、治世を確かな、揺るがないものにしてくださった、すべては神様からきていたのにもかかわらず、神様から離れる、なんと悲しいことでしょう。彼は異教の神、バアルとモレクを礼拝し、神様が最も忌み嫌う幼児犠牲までしていました。この幼児犠牲というのは、自分の願いを神に受け入れてもらうために自分の子どもたちを火の中をくぐらせるという最大限の犠牲です。カルトすぎる行動ですね。彼は神様以外であれば何でも神にしてしまう王でした。
それでも神様は、この北イスラエルとアラムの連合軍が彼らに勝つことができないように、南ユダを憐れまれ、助けてくださっていたのです。その時のことを、歴史家エズラは「彼の神、主は、彼をアラム(今でいうシリヤ)の王の手に渡されたので、彼らは彼を打ち、彼のところから多くのとりこを捕らえて行き、ダマスコへ帰った。彼はイスラエルの王の手にも渡されたので、イスラエルの王は彼を打って大損害を与えた。レマルヤの子ペカはユダで一日のうちに十二万人を殺した。みな勇者たちであった。彼らはその父祖の神、主を捨て去っていた。ついで、エフライムの勇士ジクリは、王の子マアセヤ、その家のつかさアズリカム、王の補佐官エルカナを殺した。さらに、イスラエル人は、自分の同胞の中から女たち、男女の子どもたちを二十万人とりこにし、また、彼らの中から多くの物をかすめ奪って、その分捕り物をサマリヤに持って行った」と記録に残しています。
アラム(シリヤ)とイスラエルは、このようにものすごい損害をユダに与えたのですが、主がご介入されて、捕虜を帰還させて、勝たせないようにさせたのです。結局北イスラエルには、預言者オデデがサマリヤにやって来て、ユダを激しい憤りを持って殺した罪を指摘して、捕虜を解放しなければ主の怒りが下ることを警告がありました。そこで北イスラエルは捕虜を丁重に扱って、ユダに帰してくださったのです。神様の助けはここにもあった、神様がイザヤだけではなく、様々な方法をもって彼らを救おうとされたのです。
ちなみに北イスラエル、このペカ王はこの後暗殺され、さらにその次の王ホセアは投獄され、さらにアッシリヤ帝国に北イスラエルは捕囚されていくことになります。彼らもまた、この罪故に罰せられた、神様はそれでも神様を求めるものを憐れまれるのです。一方、南ユダ王国は、次に起こされる王、ヒゼキヤによって一時的に回復することにそれゆえなっていきます。神様が神様に立ち返るヒゼキヤを憐れまれ、すべてにおいて守られたのです。
ただそれにもかかわらず、「エフライムにアラムがとどまった」という報告がダビデの家(ようするに南ユダ王国)に告げられると、王の心も民の心も、林の木々が風で揺らぐように動揺してしまいます。神様が彼らをそれでも憐れまれお守りになったのに、アハズには神様に対する信仰は全くありませんでした。神様が守ってくださった、と思うよりも、たまたま、偶然助かったのかもしれない、今回だけかもしれない、と彼の心はどっちつかず、動揺し続けます。
結局アハズ王はまことの神様以外のものであれば、何でも頼ろうとする臆病な人間でした。何で彼らを守ってくださった神様を求めることをしないのか、父の治世で何を見て、学んでいたのか。そんなアハズ王は、アラム(シリヤ)にやられたら、その勝利を収めさせたのはダマスコの神々だということで、ダマスコの神々を寄せ集め、アッシリヤが力をふるうと、そこの神殿の祭壇の図面に基づいて、祭司にアッシリヤの宗教の祭壇を造らせるのです。
しかし、私たちは勇敢であろうではありませんか。それらに勝利された主がおられる、あなたのために戦われる主が共におられるのですから。あなたを包囲するのは敵ではない、あなたの救い主、勇士たる主が共におられるのです。何を恐れる必要があるでしょう。確かに私たちが立ち向かうには困難な問題が時にはあります。しかし、それらをすべて打倒される神様がおられる、あなたを導きだしてくださる方が、神様がいるということを忘れてはいけません。動揺してあっちこっちに奔走している暇があるなら、祈ろう、神様はあなたの祈りに応えてくださるから。前章で見ましたように、見捨てられそうな状態にありながらも神様はそれでもイザヤを遣わされたように、神様はあなたに救いの勇士、主を遣わしてくださったのだから。
神様はイザヤに、アハズに対して「そのことは起こらないし、ありえない。実に、アラムのかしらはダマスコ、ダマスコのかしらはレツィン。―六十五年のうちに、エフライムは粉砕されて、もう民ではなくなる。―また、エフライムのかしらはサマリヤ、サマリヤのかしらはレマルヤの子。もし、あなたがたが信じなければ、長く立つことはできない」と語るように命じますが、たとえあなたの前に立ちふさがる問題があろうと長くたつことはできない。むしろ信じるあなたを主が支えてくださる、あなたが動揺し心配する「そのことは起こらないし、ありえない」と主が約束してくださるのです。
あなたを暗闇の中で滅び失せることが内容、罪に縛られ滅びることが内容、そのことが起こらないように、神様は預言者どころか、神の御子イエス様を私たちに遣わしてくださったのです。そして何の罪もないイエス様が、私たちが滅びることがなく永遠の命を持つようにと、私たちの罪を身代わりに背負われ、十字架にかかられ、死なれたのです。しかし3日目によみがえられたことによって、このイエス様の十字架の前に悔い改め立ち返るすべての人の罪を赦し、神様の子として引き上げてくださる、連れ帰ってくださった、受け入れてくださるのです。滅びの中から自由へと。なんという幸いでしょう。
私たちは神様に対し、「そのことは起こらないし、ありえない」というのではなく、御子イエス様に合ってあなたを打ち倒すことはありえない、とあなたを打ち砕こうとするものに信仰をもって宣言しようではありませんか。それらに動揺するのではなく、主に祈り、期待し、真の救い主、命をかけてまであなたを救い出されたイエス様があなたと共にいること、救い導きだされることに心を止め、委ね、祈るものであろうではありませんか。すべてにおいておこることは、あなたの周りの状況に対しても、あなたに対しても、神様の御心、御子イエス様の命をかけてまで愛されたその御心、ご計画が起こり、必ずなることを信じて。