―もう一度立ち上がらせてくださる方がいる― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、互いに呼びかわして言っていた。『聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。』その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。そこで、私は言った。『ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。』すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。彼は、私の口に触れて言った。『見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。』」

イザヤ書6章1-7節

 

私たちは時に、何かの悲しみ、絶望、様々なことによってもう立ち上がれなくなる時があります。現状を見て失望して。私もそれで苦しんだこともあるのでそれを否定するつもりはありませんが、ただ私たちは、その私たちを支え、立ち上がらせてくださる、いやそれで終わらず、共にくびきを負って進んでくださる神様がいるということを忘れてはいけません。あなたは一人ではない、あなたと出会い、立ち上がらせてくださる神様がいるということを感謝し、共に歩ませていただこうではありませんか。

 

さて、古代イスラエル王国が分裂してしばらくたち、アッシリヤが台頭していたころ神様から預言者として召し出されたイザヤの話が続いていますが、↑は彼が活動を始めたウジヤ王の治世が終わった、ウジヤが死んだ年に神様からイザヤが見せられた幻、語られたことになります。

 

そもそもウジヤ王の治世の中で、これまで見てきたように神様はイザヤを通して彼らの堕落していた姿を告発されていました(立ち返ることを願い)が、イザヤは↑を見る限り自分がその時何かしらの罪にあったことを告白しています。ある人は神様を見たから、といいますが、「しかも」とある以上、彼は何かしらの罪にあったことが見えます。

 

ではウジヤ王の治世はどんなものだったのか。そもそもウジヤ王というのは別名で、正確にはアザルヤ(主は助ける)という名前です。ただ、アザルヤ王は、彼の治世の間支えていたゼカリヤが召された後、神様から離れ、5章で見てきたようなひどい状況にしてしまったのです。それゆえに、アザルヤという名前からウジヤ(主は力)という名前に変えられるのでした。

 

ただ、そのゼカリヤが存命中は、彼は神様を恐れ、神様の御心を求め歩んでいます。ゼカリヤを通して神様のすばらしさを知り、また体験するのです。実際、彼の治世はソロモン以降、ユダが最も繁栄した時代でした。強大な軍事力を持ち、西と南の海洋基地としての港を支配したことによって、経済的な繁栄を誇る国となりました。そのような祝福を与えたのは神様でした。彼の父たちが神様から離れていたことで見捨てられてもおかしくない中、神様を求めた、その中で神様は彼の治世を祝福してくださっていたのです。

 

ところがゼカリヤの死後、アザルヤの心は高ぶり、「香をたく」(いけにえを焼いて煙にすること)という祭司職の越権行為をし、ついに身に滅びを招いたのでした(神様の裁きとしてツァラアトが彼の身におこった)。そう、アザルヤは肝心なものがゼカリヤの召天によって抜け落ちてしまったのです。彼のアザルヤという名前のヘブル語の文字から、レーシュという文字が抜け落ちてウジヤとなったのですが、そのレーシュという文字・言葉には「自分の生き方、行動の土台をなす思考、考え」という意味があります。

 

なぜ↑のウジヤの死後、というところでこんなに細かく見ているのか、これで見えてきたでしょうか。私たちにとって抜けてはいけないもの、それは神様という土台なのです。5章で共に分かち合わせていただいた、神様の「ああ」という嘆きの問題の根幹には、何を土台にして生きているか、神様を土台として生きている中にあって私たちは本来ある恵みを、祝福を受けることができることがわかりますね。

 

ゼカリヤという、神様の恵みを分かち合う方が召されたことによって、アザルヤの土台がある意味崩れてしまったのです。誰かが生きている間は言うことを聞く、有名なあの人が言っているから、従う、何かの記念に信じる、何か自分にとってのプラスがあるから神様に従う、ではなく、神様があなたを支えてくださっているということを忘れてはいけません。↑の続きの箇所で、改めてイザヤの預言者としての召しが訪れるのですが、その上でどうしても欠かせないのが、自分が何を土台としているのか、その再確認なのです。それが↑の神様の現われに出ているのです。召し、という特別なものではなくとも、あなたを神様が造られ、導かれている、その中であなたは何を土台とするでしょうか。嵐が来たら倒れるようなものを土台としていませんか?私たちは変わることのない神様に信頼し歩みたいものです。

 

話を↑に進め、ウジヤ王が死んだ年に、イザヤは、高くあげられた王座に座しておられる神様を見ました。そのすそは神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていました。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、互いに呼びかわして「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ」と言っていました。その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされていたのです。

 

神様は、私たちを神様の霊で満たされる方、聖なる万軍の主があなたを覆いたいのです。イザヤは自分が神様の前に取るに足らない、それこそ彼がイスラエルに預言したように、自分も神様の御前になんとけがれた者だろう、と知るのです。それだけではなく、神様に出会ったことで、神様のあまりの聖さに触れて、自分は死ぬだろう、と思ったのです。

 

しかし神様が、見せてくださった、というのは特別な事に感じるかもしれませんが、たまたま見たのではなく、神様が見せてくださったのです。死なせるためではない、この聖なる宮、神様の恵みの内に、愛の内に招くために見せてくださる。時にイザヤが何かを感じたように、自分の問題に気付かせてくださり、そこから立ち上がらせてくださる、回復させてくださるのです。神様の恵みが全地に満ちること、それこそが神様の願い、御心が天で行われるとおりに地でも行われること、神様のご統治、公正なさばき、愛が満ち溢れることを願っておられるからこそ、神様はこんな私、弱い私、汚れた私に出会ってくださるのです。

 

特別な何かをした、よいことをしたからではありません。神様は今日あなたに出会い、今日見せ、今日語ってくださるのです。昔だけ存在した神様ではない、昔も今も、これからも存在し続け、またあなたを養い導いてくださるのです。アッシリヤ捕囚の宣言で神様は預言を終わらせたのではなく、神様はある瞬間だけかたられるのではなく、今日もあなたに語られるのです。あなたはこの神様の前に何を願うでしょうか。このままでいいや、ありのままで、と終わらせるのか、それとも神様の霊で聖められ、命あるものとされるか。あなたは何を望むでしょう。

 

さらにイザヤはこの時の体験を、「すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。彼は、私の口に触れて言った。『見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。』」と語ります。

 

神様が私たちに触れられるとき、私たちは本当の回復を得ます。神様があなたと出会ってくださり、私たちは変えられるのです。イザヤはこれを拒否しませんでした。自分の唇は、意や自分は神様の霊で満たされ生きたい、ウジヤのように、土台が安定しないで自分自身が神様の恵みから離れ、崩れるのではなく、神様の恵み、聖が覆うことを何より願ったのです。レーシュ、神様という土台が自分を支え、神様が導いてくださる、それはたとえ困難な時代、ウジヤの時代に語られたような困難な時に陥ろうとも、神様が共にいてくださり、恵みを現される、それを何より願ったのです。

 

私たちが罪ゆえに失ってしまった、本来神様が下さる恵み、これをもう一度回復させようと、神様は御子イエス様を私たちの罪の身代わりに十字架にかけられ、死なせたのです。本来あり得ない話です。しかし、あなたが失われることを神様は願わないゆえに、あなたの罪を取り除こうと、この愛の決断をされたのです。あなたをもう死という墓から引き上げるため、イエス様は陰府に降ってまで、あなたを取り戻そうとされたのです。そして3日目によみがえられたことによって、このイエス様の十字架の前に悔い改め立ち返るすべての人の罪を赦し、聖め、あなたを新しくしてくださるのです。

 

ウジヤはゼカリヤの死をきっかけに肝心な神様の恵みを自ら手放してしまいましたが、しかし神様はあなたにイエス様の死と復活をもって、あなたの土台、あなたの内に住まわれ導かれる、救い主となってくださったのです。まだ何か良いことをする前に、まず神様がその愛を現されたのです。なんという恵みでしょう。私たちはこの神様の大いなる愛を、決断を無駄にしてはいけません。あなたをそこまでの愛を持ってまで取り戻された、その神様があなたを回復され、なそうとされる計画に私たちは大いに期待しようではありませんか。ウジヤのように手放すものではなく、イザヤのように、この愛を受ける者であろうではありませんか。そこに神様が満たされる愛を、御心がなることを願い。

 

イエス様は「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです」と仰られましたが、このイエス様が仰る永遠の命に至る豊かな実を期待し、主の現わされる聖なるご計画に従い、歩ませていただこうではありませんか。