―ああ…2:悲しみ、失望、怒りを変えるものは― | 子育て休職中牧師の聖書のおはなし

子育て休職中牧師の聖書のおはなし

東京で牧師をしておりましたが、子育てのため一時的に北海道に移住しました。
「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と語られた神様からのラブレター・聖書から少しずつ分かち合わせていただきますね(*^_^*)

「ああ。うそを綱として咎を引き寄せ、車の手綱でするように、罪を引き寄せている者たち。彼らは言う。『彼のすることを早くせよ。急がせよ。それを見たいものだ。イスラエルの聖なる方のはかりごとが、近づけばよい。それを知りたいものだ』と。ああ。悪を善、善を悪と言っている者たち。彼らはやみを光、光をやみとし、苦みを甘み、甘みを苦みとしている。ああ。おのれを知恵ある者とみなし、おのれを、悟りがある者と見せかける者たち。ああ。酒を飲むことでの勇士、強い酒を混ぜ合わせることにかけての豪の者。彼らはわいろのために、悪者を正しいと宣言し、義人からその義を取り去っている。それゆえ、火の舌が刈り株を焼き尽くし、炎が枯れ草をなめ尽くすように、彼らの根は腐れ、その花も、ちりのように舞い上がる。彼らが万軍の主のみおしえをないがしろにし、イスラエルの聖なる方のみことばを侮ったからだ。このゆえに、主の怒りが、その民に向かって燃え、これに御手を伸ばして打った。山々は震え、彼らのしかばねは、ちまたで、あくたのようになった。それでも、御怒りは去らず、なおも、御手は伸ばされている。主が遠く離れた国に旗を揚げ、地の果てから来るように合図されると、見よ、それは急いで、すみやかに来る。その中には、疲れる者もなく、つまずく者もない。それはまどろまず、眠らず、その腰の帯は解けず、くつひもも切れない。その矢はとぎすまされ、弓はみな張ってあり、馬のひづめは火打石のように、その車輪はつむじ風のように思われる。それは、獅子のようにほえる。若獅子のようにほえ、うなり、獲物を捕らえる。救おうとしても救い出す者がいない。その日、その民は海のとどろきのように、イスラエルにうなり声をあげる。地を見やると、見よ、やみと苦しみ。光さえ雨雲の中で暗くなる。」

イザヤ書5章18-30節

 

人には喜怒哀楽と、様々な感情がありますね。言葉には表せない、喜怒哀楽にあてはめられないほどの絶望に陥ることもあります。涙は喜びに帰られる日が来る、と希望を持っていても、それがいつ起こるかわからない不安、焦り。挙げたらきりがないほどです。しかしこれを支える何かがない限り、ダダ下がりです。私たちはそんな姿を悲しまれる神様を忘れてはいけません。神様はあなたが暗闇に陥る、縛られることを良しとされない、だからこそあなたに語られる、愛を実行に移される、御子イエス様の命を惜しまず与えてくださった神様が。あなたは今日、どれだけ神様を求めているでしょうか。

 

さて、ユダとエルサレムについて、ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に預言者イザヤを通して神様が語られた言葉、その中のウジヤ王の時代に語られた言葉の最後が↑になります。ここの最後にはアッシリヤ捕囚に言及されるのですが、どうして神様はそれを止めないのか?私たちが苦労がある時どうして神様は何もしてくれないのか?と思う人も多いでしょう。しかし、そうではないのです。

 

昨日、神様が嘆かれた「ああ」について2つ触れてきましたが、まず私たちは問題があった時に、神様のせいにしやすい。まあ、神様ではなくとも自分は悪くはないんだ、と何とか言い逃れする道を模索します。が、私たちの内に問題がある時、それが変わらなければ本当の意味で良いものにはならないですよね。しかし、これまでも分かち合ってきましたが、もし見捨てるならもう語りません。捕囚にあって、頭を冷やせ、と言われてもおかしくはない、それでも神様が「あらかじめ」語られているのは、それでも神様はあなたに恵みを注ぎたい、神様の愛する存在として造られたそのあるべき姿に回復することを願っている、だからこそ語られているのです。

 

そもそも、この「ああ」ということばは実はとても厳しい言葉なんです。なんとなく嘆いている言葉ではない、「わざわいだ」とか、もっと正確に言うなら「わざわいあれ」と強い言葉で使われているのです。神様の失望、悲しみ、怒りが込められたものなのです。それなら見捨てられてもおかしくない、でもやはり神様は語り続けるのです。あなたは神様を冷たい思うでしょうか?あなたは神様の「ああ」をどう感じるでしょうか。しかし神様はそれでもあなたを愛し、待っておられるのです。

 

昨日の箇所では、民が貧しい人から神様から与えられている土地の搾取している現状、また浪費による貪欲・道楽について神様は「ああ」と訴えられていました。↑では「ああ。うそを綱として咎を引き寄せ、車の手綱でするように、罪を引き寄せている者たち。彼らは言う。『彼のすることを早くせよ。急がせよ。それを見たいものだ。イスラエルの聖なる方のはかりごとが、近づけばよい。それを知りたいものだ』と。ああ。悪を善、善を悪と言っている者たち。彼らはやみを光、光をやみとし、苦みを甘み、甘みを苦みとしている。ああ。おのれを知恵ある者とみなし、おのれを、悟りがある者と見せかける者たち。ああ。酒を飲むことでの勇士、強い酒を混ぜ合わせることにかけての豪の者。彼らはわいろのために、悪者を正しいと宣言し、義人からその義を取り去っている。それゆえ、火の舌が刈り株を焼き尽くし、炎が枯れ草をなめ尽くすように、彼らの根は腐れ、その花も、ちりのように舞い上がる。彼らが万軍の主のみおしえをないがしろにし、イスラエルの聖なる方のみことばを侮ったからだ」と神様が語られているように、大きくひとくくりにすると倫理的堕落について「ああ」と嘆かれています。

 

昨日の2つにしても、今日の4つにしても同じですが、神様はそこからの回復を願っているからこそ今、立ち返れ、と訴えているのです。その神様を公然と神を侮辱している人たちについて3つ目で、本来支えてくださる神様の定められた価値観を完全に反対にしてしまう人たちについて4つ目で、むしろその神様ではなく、悪を正当化して、それを知識という名の下で理論武装する人たちについて5つ目で、聖霊様に酔うのではなく、神様の愛に満たされるのではなく、お酒を飲みたいがために、わいろを受け取って公正な裁きを行なわない人たちについて6つ目で取り上げられています。

 

ざっと書き上げただけでもとんでもないことだらけですね。ただ、中心がどこにあるのかで全く状況が変わってくるのが見えるでしょう。このまま放置していたらどうなりますか?私たちは神様がいるから、神様が愛してくださるからこそ生きていられるのです。神様が私たちを、私たちが知らない間も、寝ている間も心臓を動かし、呼吸させてくださり、また私たちは当たり前と思っていますが、衣食住を神様は支えてくださっているのです。

 

そんな神様は自分の望む神様ではない、としてしまったら、どうして神様の本来与えてくださる恵みを受けられるでしょう、神様が支えようと、これまで様々な律法を見てきましたが、配慮くださりその御手を伸ばされているのに、その神様に反対して何になるでしょう。自分の価値観を押し付け自己中心に生きたらどうなるのか、それはもう神様云々抜きにしてもどうなるかわかりますよね。神様はその愛で支えてくださる、ああ、と言いながらも最後まで立ち返るのを待ってくださっているのに。神様の愛ははじめに愛され、語られる、でも私がまず最初、では何になるでしょう。神様は、わいろを受け取らなければ助けてくださらない方ではないのです。公正で、正義を行ってくださるのです。私たちが何か良いことをしたからしょうがないから助けよう、なんておっしゃられる神様ではありません。

 

最初はイエス様を迫害する、クリスチャンを殺すことさえいとわなかったパウロは、まだそのような中にあった中で、復活のイエス様が彼に出会ってくださり、彼を悔い改めに導いた、彼が求めていた本当の救い主がイエス様だということを知らせてくださったのです。

 

そのパウロは、「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです」と手紙で書き送っています。

 

↑の最後に、神様はアッシリヤによる捕囚について言及されています。ある意味で、彼らが歩んでいた通りになってしまう、と。しかし、捕囚によって散らされ、自分たちのアイデンティティさえ奪われる、自分たちはこう生きる方が楽しいんだ、と思っていたことは崩れ去る、と。神様が支えてくださっているのに神様から離れてしまえば、その主権は自分のものになるのではなく、世の何かに支配され、奪われるだけです。そして裁かれる、というところで↑の章は終わります。

 

どうしてですか、と思うところですが、私たちは神様との関係を自分で遮ったり終わらせようとしていませんか?しかし、神様はそれでも先ほど引用しましたパウロの書き送った手紙のように、そんな救い主イエス様を迫害し、クリスチャンを殺すことさえいとわない彼をどうして止めないのか、むしろ神様は彼が命を得、古く縛られた知識や何やらで、神様を求めていたのに知らないでそれを排除してしまっている、そんな彼をも神様は憐れまれ、こともあろうにその迫害していたイエス様ご自身が彼の罪を赦されたのです。まずご自身の愛を示された、彼のため、私たちの罪の身代わりに十字架にイエス様がかかられ死なれることで。しかしそれで終わらず3日目によみがえられたことによって、神様との和解の道を示されたのです。このイエス様の十字架の前に悔い改め立ち返るすべての人の罪を赦し、和解され、神様の子とされるのです。

 

ここまでの愛があなたをおわれる、大いに喜ばせてくださる、なんという力強い愛、絆。あなたは何を今日頼りにしていますか?いつかはなくなるものですか?しかし神様は永遠の和解をあなたとし、あなたをご自身の恵みのもとに引き寄せてくださるのです。その神様の霊に、愛に満たされた今、何を疑い恐れる必要があるでしょう。あなたを死の縄目から取り戻され、引き揚げられたその先にある神様の愛はどれだけ偉大な事でしょう。

 

私たちは今日神様に帰ろうではありませんか。神様に賄賂はいらない、もうむしろ和解のためのいけにえとしてイエス様がなられたのだから。今日、神様に帰ろう。「人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです」とパウロが語る、いや、見させていただいた、私たちの覆いが取り除かれた先にある神様の恵みに期待して。