「こうして、彼らは進んで行った。彼らがベニヤミンに属するギブアの近くに来たとき、日は沈んだ。彼らはギブアに行って泊まろうとして、そこに立ち寄り、町に入って行って、広場にすわった。だれも彼らを迎えて家に泊めてくれる者がいなかったからである。そこへ、夕暮れになって野ら仕事から帰ったひとりの老人がやって来た。この人はエフライムの山地の人で、ギブアに滞在していた。この土地の者たちはベニヤミン族であった。目を上げて、町の広場にいる旅人を見たとき、この老人は、『どちらへおいでですか。どちらからおいでになったのですか』と尋ねた。そこで、その人は彼に言った。『私たちは、ユダのベツレヘムから、エフライムの山地の奥まで旅を続けているのです。私はその奥地の者です。ユダのベツレヘムまで行って来ました。今、主の宮へ帰る途中ですが、だれも私を家に迎えてくれる者がありません。私たちのろばのためには、わらも飼葉もあり、また、私と、妻と、私たちといっしょにいる若い者とのためにはパンも酒もあります。足りないものは何もありません。』すると、この老人は言った。『安心なさい。ただ、足りないものはみな、私に任せて。ただ広場では夜を過ごさないでください。』こうして彼は、この人を自分の家に連れて行き、ろばに、まぐさをやった。彼らは足を洗って、食べたり飲んだりした。彼らが楽しんでいると、町の者で、よこしまな者たちが、その家を取り囲んで、戸をたたき続けた。そして彼らは、その家の主人である老人に言った。『あなたの家に来たあの男を引き出せ。あの男を知りたい。』そこで、家の主人であるその人は彼らのところに出て行って言った。『いけない。兄弟たちよ。どうか悪いことはしないでくれ。この人が私の家に入って後に、そんな恥ずべきことはしないでくれ。ここに処女の私の娘と、あの人のそばめがいる。今、ふたりを連れ出すから、彼らをはずかしめて、あなたがたの好きなようにしなさい。あの人には、そのような恥ずべきことはしないでくれ。』しかし、人々は彼に聞こうとしなかった。そこで、その人は自分のそばめをつかんで、外の彼らのところへ出した。すると、彼らは彼女を犯して、夜通し、朝まで暴行を加え、夜が明けかかるころ彼女を放した。夜明け前に、その女は自分の主人のいるその人の家の戸口に来て倒れ、明るくなるまでそこにいた。その女の主人は、朝になって起き、家の戸を開いて、旅に出ようとして外に出た。見ると、そこに自分のそばめであるその女が、手を敷居にかけて、家の入口に倒れていた。それで、彼はその女に、『立ちなさい。行こう』と言ったが、何の返事もなかった。それで、その人は彼女をろばに乗せ、立って自分の所へ向かって行った。彼は自分の家に着くと、刀を取り、自分のそばめをつかんで、その死体を十二の部分に切り分けて、イスラエルの国中に送った。それを見た者はみな言った。『イスラエル人がエジプトの地から上って来た日から今日まで、こんなことは起こったこともなければ、見たこともない。このことをよく考えて、相談をし、意見を述べよ。』」
士師記19章14-30節
相談する相手を間違えると時に大変なことになる、下手をすれば取り返しのつかないことになります。同時に意見に全く耳を貸さない(それに従うかどうかは別として)というのも問題があります。私たちは自分の気に入る答えをしてくれる人に相談、またはそういう意見を取り入れやすいですが、神様に聴くことを、祈ることを忘れてはいけません。神様は応えてくださるから。あなたを義の道に導かれるから。今こそイエス様の愛を覚え、祈り、従い歩みたいものです。
さて、ヨシュアの死後、これまで神様が愛と憐みゆえにイスラエルの民を救われ導いてこられてきたのに、神様を忘れたと言いますか、気にもとめない第3世代が起こります。彼らは神様から離れ、その結果敵が圧迫し、イスラエルは悔い改め、そして神様が士師を立てる、そして離れるとまた敵が圧迫する、そのような状態がずっと続いてくのでしたのでした。
しかしそれでも神様は彼らを見捨てることをせず、オテニエル、エフデ、シャムガル、デボラとバラク、そしてギデオンと士師をたててくださりました。途中ギデオンの息子のアビメレクの暴走がありましたが、その後トラ、ヤイル、イブツァン、エロン、アブドン、そして色々問題は起こしましたがサムソンと立てられました。神様はなんとか彼らが神様に立ち返るのを待っていました。途中ミカという人の起こした問題がありましたが、それでもなお神様は彼らを見捨てていません。
そんな混沌とし始めた時代の中、ある時レビ人がそばめをめとるも、その女性は浮気に走り、それでも彼女を何とか連れ戻そうと、彼女の父親のもとにお土産と共に向かいます。そして、その父親は彼を気に入って、長期間共に過ごしましたが、レビ人がもう出立したいと、自分の家に帰ります。
しかし、この旅路の中で大きな問題が発生し、イスラエル全体にそのダメージが広がっていきます。彼らは祈らず出発し、とりあえずエブスという異邦人の住む町のほうに向かいます。ただ、レビ人は、異邦人のところには泊まりたくない、ということでさらに先にあるベニヤミン族の相続地の中にあるギブアに到着すると、だれも泊めようとしてくれません。本来イスラエルには神様が彼らの出エジプトの旅から救い出してくださったこともあり、旅人をもてなすということをとても大事にしています。しかしまったく泊るところがない、異常事態が起こっていたのです。
その異常事態の原因は、↑の「この老人は、『どちらへおいでですか。どちらからおいでになったのですか』と尋ねた。そこで、その人は彼に言った。『私たちは、ユダのベツレヘムから、エフライムの山地の奥まで旅を続けているのです。私はその奥地の者です。ユダのベツレヘムまで行って来ました。今、主の宮へ帰る途中ですが、だれも私を家に迎えてくれる者がありません。私たちのろばのためには、わらも飼葉もあり、また、私と、妻と、私たちといっしょにいる若い者とのためにはパンも酒もあります。足りないものは何もありません。』すると、この老人は言った。『安心なさい。ただ、足りないものはみな、私に任せて。ただ広場では夜を過ごさないでください。』」という、老人とのやり取りの中で見えますね。
老人は親切にしてくれます。このレビ人の事情を聴いて彼を助けてあげたい、と考え、家に招き、食事など必要なものを用意してくれる、ということですが、ただ「広場では夜を過ごさないでください」と言ったのです。あまりに危険すぎるゆえに、まきこまれたくない、とレビ人たちを受け入れるところがなかった。それにこの町のやり取りをどこかで見たこと、聴いたことがありませんか?まさにソドムとゴモラの町の滅びる頃の状態とほぼ全く同じなのです。
御使いたちがソドムとゴモラの町を訪れ、ロトの家に招き入れます。危険ですから。そしてその御使いたちを出すように、そして彼らを知りたい(この表現は性的な意味を持っています)、と同性愛問題だけではなく、こともあろうに、町中こぞって襲い掛かってくる、ロトの家族以外まともな人がいなかった、というくらいでした。そしてさらにロトは旅人を守るために自分の処女の娘たち(嫁いでもいない)を差し出すから彼らに手を出さないでくれ、という始末。結局御使いたちはロトたちを守り、ソドムとゴモラの町の滅亡から救ったのでした。
もう↑の状態とほぼ全く同じような状態にベニヤミン族はなっていたんです。というのも次の章でも出てきますが、ギブアだけの問題で終わらず、なんとベニヤミン族はそのような恥ずべき行為をしている彼らの味方となり、イスラエルと対立することになるのです。神さまよりも、罪を犯した人を選んだ。彼らを悔い改めに導くために選んだのではなく、自分の部族のところにいるレビ人にも、隣の部族などに相談することもなく、祈る、祈ってもらうこともなく、罪に手を貸してしまうのです。何たる話。
まあこの老人も、確かにレビ人を守るためとはいえ、彼らを知りたい(これも性的な意味で使われている言葉)、と押しかけてきた街の人たちに「いけない。兄弟たちよ。どうか悪いことはしないでくれ。この人が私の家に入って後に、そんな恥ずべきことはしないでくれ。ここに処女の私の娘と、あの人のそばめがいる。今、ふたりを連れ出すから、彼らをはずかしめて、あなたがたの好きなようにしなさい。あの人には、そのような恥ずべきことはしないでくれ」と言って本当に彼らに渡してしまうのもあまりにひどい。彼はどうして今目の前に守らなければいけない、と思うレビ人に相談、祈ってもらわなかったのだろう。他にも方法はあったはずです。彼らは神様をないがしろにし、まあこれくらいいいや、としていた、放置ていた、それがベニヤミン族の闇につながり、また老人、レビ人の感覚を麻痺させていたのです。そして彼女は辱められ、家に戻ったところで命がつきました。読んでいてもおぞましいことが起こったのです。
それだけではありません。その後の対応も「それで、その人は彼女をろばに乗せ、立って自分の所へ向かって行った。彼は自分の家に着くと、刀を取り、自分のそばめをつかんで、その死体を十二の部分に切り分けて、イスラエルの国中に送った。それを見た者はみな言った。『イスラエル人がエジプトの地から上って来た日から今日まで、こんなことは起こったこともなければ、見たこともない。このことをよく考えて、相談をし、意見を述べよ。』」とあるようにもっと悪い。これは12部族の問題だ、としたいところでしょうが、どうするか決めるよう話し合いを始めますが、まったく彼らに祈った姿はありません。
実は問題を起こしたベニヤミン族がしばらく戦いで優勢となることが続きの章で見られます。19章を通して何度も申し上げてきましたが、どうして祈らなかったのか。復讐は主のもの、エジプトに勝利させてくださったのも神様、どうして神様に祈らなかったのか。神様がすべてを導いてくださることに信頼し、祈らなかったのか。たらればになるかもしれませんが、しかし、主は良き相談者です。聞いて答えてくださります。彼らを救い出された神様に、彼らは長い時間の経過とともに麻痺していました。
私たちはどうでしょう。神様との関係がマヒしていませんか?神様はあなたを救って終わり、時々助けて終わりな方ではない、あなたを丸ごと愛し、救うため、御子イエス様を私たちの罪の身代わりに十字架にかけ、死なせてくださったのです。しかし3日目によみがえられたことによって、このイエス様の十字架の前に悔い改め立ち返るすべての人の罪を赦し、神様の子としてくださるのです、家族としてくださるのです。
十字架は十字架で終わらず、復活へ、そして新しい命の始まり。この与えられた永遠の命、私たちも尽きることのない、変わることのない神様の愛から離れず、いつも祈り歩みたいものです。神様が御子イエス様の命を持ってまで取り戻してくださったこのいのちなのですから、世の理不尽をも吹き飛ばし、神様の栄光が、御心が現わされることを信じ委ねようではありませんか。神様はどんな中にあってもレビ人たちが事足りないように老人が助けようとしたように、あなたを砦となり匿い、守り、理不尽の中に放り出すことなく、共に進み、主の栄光を仰ぎ見させてくださるから。