―…のような者― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「エフライムの山地の出で、その名をミカという人がいた。彼は母に言った。『あなたが、銀千百枚を盗まれたとき、のろって言われたことが、私の耳に入りました。実は、私がその銀を持っています。私がそれを盗んだのです。』すると、母は言った。『主が私の息子を祝福されますように。』彼が母にその銀千百枚を返したとき、母は言った。『私の手でその銀を聖別して主にささげ、わが子のために、それで彫像と鋳像を造りましょう。今は、それをあなたに返します。』しかし彼は母にその銀を返した。そこで母は銀二百枚を取って、それを銀細工人に与えた。すると、彼はそれで彫像と鋳像を造った。それがミカの家にあった。このミカという人は神の宮を持っていた。それで彼はエポデとテラフィムを作り、その息子のひとりを任命して、自分の祭司としていた。そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なっていた。」

士師記17章1-6節

 

いいところどりをする、と言う人は世の中にはいますが、あえていうなら誰しもが自分にいいものをチョイスし、それによって自分を形成していこうとする、と言う意味でみんなそうなのかもしれませんが。誰かのようになりたい、とその人のいいところを取って、自分がもっとよくなる、なんてことをしていればつぎはぎだらけです。私たちは偶然ここに存在するのでもなく、神様によって造られたものという喜びをしっかりと握りしめ、歩みたいものです。

 

さて、神様を知らない、意にも介さない第3世代がヨシュアの死後、起こりました。彼らは神様から離れ、その結果敵が圧迫し、イスラエルは悔い改め、そして神様が士師を立てる、そして離れるとまた敵が圧迫する、そのような状態が続いていいました。

 

しかしそれでも神様は彼らを見捨てることをせず、その愛と憐れみゆえにオテニエル、エフデ、シャムガル、デボラとバラク、そしてギデオンと士師をたててくださりました。途中ギデオンの息子のアビメレクの暴走がありましたが、その後トラ、ヤイル、イブツァン、エロン、アブドン、そして色々問題は起こしましたがサムソンと立てられ、神様は彼らをそれでも見放さず、立ち返るのを待っておられました。それこそ昨日分かち合わせていただきました放蕩息子を待っていた父のように。

 

そんな中、士師がしばらくいない時代、イスラエルに王がおらず、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なっていた時代に入っていきました。ここから最後の士師サムエル(以前分かち合わせていただきましたサムエル記をブログで見ていただければわかると思いますが)まで混沌とした時代がイスラエルに続きます。めいめいが好き放題していたらどうなるかなんて、言うまでもありませんよね。もはや国でもなければ、せっかくイスラエルの民全体を神様がエジプトから救い出し、連れだし、救ってくださったのに、部族間の協力はない、士師記の最後の方で出てきますが、とんでもない大事件によって部族消滅の危機に陥ることもあります。

 

この先イスラエルが堕落していく、王国時代にもこれが罠となるきっかけとなる、そのきっかけが↑で起こります。エフライムの山地の出で、その名をミカという人が、彼の母に「あなたが、銀千百枚を盗まれたとき、のろって言われたことが、私の耳に入りました。実は、私がその銀を持っています。私がそれを盗んだのです」といいます。

 

はい、また出てきましたエフライム。士師の戦いの中でやたらとちょっかいを出し、手柄を欲したり、声をかけたのに助けに来てくれず、戦いが終わってから自分たちに声をかけなかったから、焼き払う、と言っていたあのエフライム族、またここで問題が起こります。

 

今、この文書を打ちながら思わされたのですが、問題を放置、まあまあ、と曖昧にしていたらそれはいつまでもなおりません。それは仕事でも家族、人間関係においても同じでしょう。もちろんどうしようもないこともあるかもしれませんが、神様にその問題を委ねる、その時神様は作り変えてくださるでしょう。神様は私たちが聖くあることを何より願っておられることを考えればなおさらのことです。

 

ところが、ここでミカという人が登場します(後の王国時代に活躍した預言者ミカ(マイカ)とは別)このミカという人の名前は、元のヘブル語では「ミーハーイェフー」となっているのですが、それを簡略化され、「ミーハー」となっています。その名前の意味するところは、「神のような者」という意味です。まあもちろんミカ自身がその名前を付けたわけではないのですから、↑にも出てくるお母さんが名付けたわけです。しかし、その願いもむなしく、またその母の思いを受け取るわけでもなく、彼の姿には神様のような者、という姿はどこにもありません。そう願っていたお母さんもですが。

 

まず、ミカは母親のもの、銀千百枚(そういえばサムソンをデリラに誘惑させるとき、領主たちは一人銀1100枚をデリラに渡す約束をしていたことを考えると、相当の額ですね)を盗み、そのことで母が盗んだ者を呪っているのが耳に入るのをミカは知ります。そこでミカはこの銀千百枚を母親に返しました。いくら家族でも、そんな大金を盗むなんて、しかもばれて呪われそうだから返すだなんて、もう、やりたい放題、好き放題もいいところです。

 

それを受け取った母親は、その中から息子のために聖別して主にささげ、自分の息子のために、彫像と鋳像を造るのです。テラフィム自体が実は偶像だったことを考えると、本来祭司が着るエポデと偶像を造るという、ありえないことを彼女はしたのです。何だそれ、という感じですよね。彼女の中である意味でもう、神様の概念がぶっとんでいたのです。

 

それはクリスチャンホームでありながら、子どものために七五三やひな祭り、五月の節句を祝ったり、もっとわかりやすく言うなら日本人が正月になると神社に初詣をし、葬儀は仏式、結婚式はキリスト教式で行うようなもので、もう色んな概念が混在している状態、極論いいところどりをしていたのでした。

 

ちなみにそれはテラフィムを造ったところにも表れています。どうもこのテラフィムというのは、家の神みたいなもののように考えられていたようで、その偶像に、日本でいうなら吉凶を判断するためにテラフィムという像に伺っていたようです(後のバビロン帝国の王がこれを行っていた記録も残っています)。イスラエルの増え広がる元となったヤコブの妻ラケルも、自分の家からこれを持ち出したこと上がりましたね。彼女はもとより、ミカも、本当の神様を知らないでいたのです。

 

神様に欠けがあるのでしょうか?それならどうしてこれまでイスラエルが離れても見捨てず士師を立て続けてこられたのか。だれだれが恵まれているから、彼のようになりたい、と真似すればいいのか。あの人は成功しているからあのやり方を取り入れよう、それでいいのでしょうか?神様はこの天地万物を造られ、すべての動植物、何より私たち人間を造られた方ですよ?その方にどうして欠けがあると言えるでしょうか。神様のうちにはすべてがあるのです。

 

ミカの母親はミカを神様に立ち返るよう導くべきでした。彼が盗みを告白したなら、いいよいいよ、次からは気をつけようね、どころか、彼を祝福するのです。一体どれだけ子離れできていないのでしょう。どうもミカの家母子家庭のようで、かなり資産のあった家のようです。自分の家に主の宮があり、この続きの箇所でレビ人を祭司として迎え入れたことから分かります。ある意味では当時は男性中心の社会にあって女性は立場が弱かった、ミカが離れたらどうしよう、という思いもあったのでしょう。

 

ミカの母親は、自分が誓ったようにミカをのろうのではなく、かえって「主が自分の息子を祝福されますように」と祝福し、神様の義にしたがえば、罪を犯した者は自分が行なったことに対して罰が与えられなければいけないか、あるいは罪の赦しと神のあわれみを請うために、罪のためのいけにえをささげなければいけません。罪を犯したことを悲しみ、罪を憎んで捨て去ることができてこそ、初めて平和が与えられるのです。しかし、その神様の平安よりも、自分の拠り所が神様ではなくなっていたのです。

 

1世紀に伝道をしていたパウロという人は「もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます」と勧めます。

 

神様は、神様の聖さに与らせたい、いいよいいよありのままで、ではないのです。むしろ平安なぎの実を結ぶべく、神様に立ち返ることをパウロは勧めます。パウロ自身何度も殺されそうになり、迫害されてきました。彼は周りと妥協すればある意味で楽だったかもしれない。しかし、何度牢屋にとらえられようと、彼は神様のくださる平安を求め続けたのです。そこにいのちがある、頼るべきは神様なんだ、と。

 

ミカの母親も、ミカ自身も、神様のもとにすべてがある事がもうわからなくなっていた。いろんなものを混在させ、つぎはぎだらけの生活にしていれば自明な事です。私たちは神様を求め続けようではありませんか。神様は完全で、かけたところはありません。つぎはぎだらけの生活よりも、御子イエス様を私たち失われたもののために、私たちの身代わりに十字架にかけ、罰し、死なせたのです。そして3日目によみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の前に悔い改め立ち返るすべての人の罪を赦し、神様の子とされ、イエス様と同じ復活の恵み、イエス様に接ぎ木された、1つとされるのです。その恵みが、平安なぎの実が結ばれていくのです。

 

イエス様の12弟子で使徒だった一人、ヨハネは「私たちが神の子どもと呼ばれるために、―事実、いま私たちは神の子どもです―御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです」と手紙をもって勧めます。

 

私たちが罪の内にとどまるのではなく、曖昧な状態でもなく、イエス様の似姿に月日と共にわずかずつでも変えられていく事、それこそがイエス様の望み。私たちはイエス様のような者、イエス様の御心にあって聖めていただき、イエス様の恵みに生かされ、歩もうではありませんか。イエス様の御心にあって結ばれる平安な義の実が結ばれることを、神様の御心が現わされていくことを信じ祈り。あなたは今日何を望み、誰に何を祈りますか?