―たとえ笑いものになっても― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「そこで、ペリシテ人は彼をつかまえて、その目をえぐり出し、彼をガザに引き立てて行って、青銅の足かせをかけて、彼をつないだ。こうしてサムソンは牢の中で臼をひいていた。しかし、サムソンの頭の毛はそり落とされてから、また伸び始めた。さて、ペリシテ人の領主たちは、自分たちの神ダゴンに盛大ないけにえをささげて楽しもうと集まり、そして言った。『私たちの神は、私たちの敵サムソンを、私たちの手に渡してくださった。』民はサムソンを見たとき、自分たちの神をほめたたえて言った。『私たちの神は、私たちの敵を、この国を荒らし、私たち大ぜいを殺した者を、私たちの手に渡してくださった。』彼らは、心が陽気になったとき、『サムソンを呼んで来い。私たちのために見せものにしよう』と言って、サムソンを牢から呼び出した。彼は彼らの前で戯れた。彼らがサムソンを柱の間に立たせたとき、サムソンは自分の手を堅く握っている若者に言った。『私の手を放して、この宮をささえている柱にさわらせ、それに寄りかからせてくれ。』宮は、男や女でいっぱいであった。ペリシテ人の領主たちもみなそこにいた。屋上にも約三千人の男女がいて、サムソンが演技するのを見ていた。サムソンは主に呼ばわって言った。『神、主よ。どうぞ、私を御心に留めてください。ああ、神よ。どうぞ、この一時でも、私を強めてください。私の二つの目のために、もう一度ペリシテ人に復讐したいのです。』そして、サムソンは、宮をささえている二本の中柱を、一本は右の手に、一本は左の手にかかえ、それに寄りかかった。そしてサムソンは、『ペリシテ人といっしょに死のう』と言って、力をこめて、それを引いた。すると、宮は、その中にいた領主たちと民全体との上に落ちた。こうしてサムソンが死ぬときに殺した者は、彼が生きている間に殺した者よりも多かった。そこで、彼の身内の者や父の家族の者たちがみな下って来て、彼を引き取り、ツォルアとエシュタオルとの間にある父マノアの墓に彼を運んで行って葬った。サムソンは二十年間、イスラエルをさばいた。」

士師記16章21-31節

 

人は誰しもが間違いを犯すことがあります。その時どうするか、我を突き通すか、それともやり直すか。私たちは間違いを間違いのままでいることよりも、たとえ周りからなんと言われようとも、やり直す、方向転換する、悔い改めよう。神様はもう一度あなたを導いてくださるから。あなたを見捨てられなかった神様にもう一度私たちは立ち返ろうではありませんか。

 

さて、神様がイスラエルの民を恵みと憐れみによって奴隷としてとらえられていた彼らをエジプトから救い出し、約束の地に入り、相続地を得、ヨシュアの召天後のことです。イスラエルに、神様がこれまで彼らを導いてきてくださったことを忘れ、神様を知らない第3世代が起こりました。彼らは神様から離れ、その結果敵が圧迫し、イスラエルは悔い改め、そして神様が士師を立てる、そして離れるとまた敵が圧迫する、そのような状態が続いていいました。

 

しかしそれでも神様は彼らを見捨てることをせず、その愛・憐れみゆえにオテニエル、エフデ、シャムガル、デボラとバラク、そしてギデオンと士師をたててくださりました。途中ギデオンの息子のアビメレクの暴走がありましたが、その後トラ、ヤイル、イブツァン、エロン、アブドンと、士師を立て、支え続けてきて下さったのです。

 

ただこれだけ愛されていたにもかかわらず、またもイスラエルは神様から離れ、イスラエルは40年ペリシテ人の圧迫に苦しめられ、それでも彼らを見捨てられなかった神様は、マノア夫妻を通して、ナジル人(特別な誓願をかけた人)として、サムソンという士師を立て、救いを約束されたのです。しかしサムソンはこれを意に介さず、好き放題に行動し、結婚問題では痛い目にあい、やったらやり返されるに疲れ、ユダ族にペリシテに売り渡されるも、それでも助かる、さらに愛したデリラにペリシテへ、銀5500枚でサムソンを売られ、結局捕らえられてしまいました。神様との関係を、まあこれくらい、とあいまいにしていた結果、その蒔いた種を刈り取ることになったのです。

 

それでも、神様はサムソンを見捨てていませんでした。たとえ彼が、その目をえぐり出され、彼をガザに引き立てて行かれ、青銅の足かせをかけられ、彼をつながれ、牢の中で臼をひく、というどん底にあろうとも神様は彼を見捨てなかったのです。神様が彼をナジル人として選び分けられた、ある意味では神様の約束です。その神様が彼を見捨てなかった、たとえ罪に陥ってももう一度回復してほしい、と。なんという憐みでしょう。

 

そんな中、ペリシテ人の領主たちは、自分たちの神ダゴンに盛大ないけにえをささげて楽しもうと集まり、「私たちの神は、私たちの敵サムソンを、私たちの手に渡してくださった」と言い、ペリシテの民はサムソンを見たとき、自分たちの神(ダゴンなど)をほめたたえ、「私たちの神は、私たちの敵を、この国を荒らし、私たち大ぜいを殺した者を、私たちの手に渡してくださった」と言うのです。

 

神様が敗北した?そんなことはないのです。神様を冒涜した彼らは、↑を最初に読んでくださった方は読んでの通り、全滅することになります。3000人もの人が集まり、3000人ともに最期を迎えることとなるのです。

 

何があったのか。ここに集まっていたペリシテ人たちは、心が陽気になり、「サムソンを呼んで来い。私たちのために見せものにしよう」と言って、サムソンを牢から呼び出します。サムソンは彼らの前で戯れさせられます。彼らがサムソンを柱の間に立たせたとき、サムソンは自分の手を堅く握っている若者に「私の手を放して、この宮をささえている柱にさわらせ、それに寄りかからせてくれ」と願い出ました。もう、笑いもの扱いされています。屈辱もいいところでしょう。

 

しかし、彼はここではじめて、「神、主よ。どうぞ、私を御心に留めてください。ああ、神よ。どうぞ、この一時でも、私を強めてください。私の二つの目のために、もう一度ペリシテ人に復讐したいのです」と祈りました。彼はその屈辱に、本来の我の強さはへし折られるも、自分の支えとなる柱、主なる神様に求めたのです。誰も助けに来ないイスラエルの民を捨て、ペリシテに助けを乞うのでもなく、彼はただただ主なる神様に御心にとめてください、と祈ったのです。かつての自分を見、砕かれ、神様の御心を求めたのです。

 

そういえば、古代イスラエル王国2代目の王ダビデが不倫の末、その発覚を恐れ、不倫相手の旦那さんを隠蔽殺人をもって死に追いやったという大事件を起こしたことがありました。それが家族の分裂、王国をおわれることへとつながっていったのですが。そんな中で彼は心砕かれます。自分の骨が干からびるほどにつらかった、と振り返ります。

 

そんなダビデ王は、「神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました。…神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。私は、そむく者たちに、あなたの道を教えましょう。そうすれば、罪人は、あなたのもとに帰りましょう。神よ。私の救いの神よ。血の罪から私を救い出してください。そうすれば、私の舌は、あなたの義を、高らかに歌うでしょう。主よ。私のくちびるを開いてください。そうすれば、私の口は、あなたの誉れを告げるでしょう。たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。どうか、ご恩寵により、シオンにいつくしみを施し、エルサレムの城壁を築いてください…」と祈りました。

 

ダビデ王も王になる前から油注がれ、神様に特別に選ばれていました。そんな彼がある意味ではサムソンを超えたとんでもない罪を犯した、神様の御前にどうして出ることが赦されるでしょう。しかし、それでも神様はダビデ王を憐れまれ、守られ、王位に戻されるのでした。ダビデが「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。どうか、ご恩寵により、シオンにいつくしみを施し、エルサレムの城壁を築いてください」と祈ったように、砕かれた霊、悔いた心を神様は受け入れてくださるのです。そして喜びへと、神様との回復の祭壇がまさに築かれるのです。自分の回復をダビデは祈ったのではない、エルサレムの城壁、神様の御国の回復を祈り願った、それが成されたのです。見捨てられず。

 

話を戻し、神様はサムソンの悔いた心、魂を受け入れてくださり、サムソンの内に御力を働かせてくださった。神様を侮辱するペリシテも、ダゴン神殿も完全に壊されるのでした、サムソンの命はここで失われますが。ただ、彼は実はヘブル人への手紙に挙げられている、信仰者の記録の中に、名前がとり上げられているのです。ここまで見てきた士師記の士師たち「ギデオン、バラク、サムソン、エフタ」に加え、古代イスラエル王国2代目の王ダビデや最後の士師であり預言者であったサムエル、そして多くの預言者たちと共にその名が覚えられている、確かに地上での生涯はここで終えましたが、彼は神様の御もとに引き上げられたのです。

 

彼は完全にペリシテ人に勝利したわけではないのに、と思うかもしれませんが、それでも神様にとって、神様の御前に悔いた心、魂ほど喜ばれるものはありません。神様は、神様を神様とせず好き勝手に歩む私たちを見捨てず歩む私たちの罪の身代わりに十字架にかけて死なせたのです。しかし3日目によみがえられたことによって、このイエス様の十字架の前に悔い改め立ち返るすべての人の罪を赦され、神様の子として受け入れてくださる。新しい命がここから始まるのです。たとえ、自分の古い神殿が崩れようとも、神様が新しい命をその御心をもって建て上げてくださるのです。

 

ある人は十字架を信じて何になる、と言うかもしれません。しかし、イエス様を信じるクリスチャンを最初は迫害し、殺害にまで協力していたパウロは、復活のイエス様に出会い、変えられたのです。そして迫害、いのちを何度も狙われました。しかし、彼は手紙で「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です」と勧めます。信じたことによって迫害をかえって受けた、しかし変えられた人生は神様の力が豊かに働く、いや神様の喜び、愛で満たされたものであった、と告白するのです。私たちは今こそ、神様の御前に心、魂を砕き、悔い改め祈ろう。そしてこの神様の究極の愛に生かされ、その栄光を仰ぎ見、歩ませていただこうではありませんか。ここにいのちがあるから。