―見つかるまで必死に探し続ける愛― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「『…また、女の人が銀貨を十枚持っていて、もしその一枚をなくしたら、あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜さないでしょうか。見つけたら、友だちや近所の女たちを呼び集めて、【なくした銀貨を見つけましたから、いっしょに喜んでください】と言うでしょう。あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。』」

ルカによる福音書15章8-10節

 

大切なものをなくすと、必死に探しますよね。人なら、迷子なら、大切な家族ならなおのこと必死になってでも探すでしょう。見つかったらどれだけ皆さんは喜ぶでしょう。私も以前財布を落として、中身が何一つなくなることなく帰って来た時には本当に感動、感謝しました、神様に。一切を守ってくださった神様。神様はしかしなお私たちが失われることを何より悲しまれます。私たちは神様が今日もあなたを見つめ、救わんとその御手を伸ばされ続けていることを感謝しようではありませんか。

 

さて、↑は神の御子イエス様が人となってお生まれになり、その公生涯を歩んでいたある日、罪人たちと食事をしていることをパリサイ人(ようするに当時の宗教家)が批判していた、そのことに対してイエス様が答える形をもってたとえ話をされた、その2つ目のものになります。

 

イエス様は失われた立った一匹の羊でも99匹を置いてでも探しに行って、見つかった時、一緒に祝い喜ぶではないか、と最初のたとえで話され、あなたという人のかけがえのなさ、失われることの悲しみ、見つかった時の喜びについてみました。

 

今度のたとえも、非常に似ています。ある意味この15章は三品一セットといえるほどに中身は共通したものがありますが、たとえを変えられたということはもう少し深めてみてほしい、というイエス様の思いがあるのでしょう。

 

イエス様は続けて「また、女の人が銀貨を十枚持っていて、もしその一枚をなくしたら、あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜さないでしょうか。見つけたら、友だちや近所の女たちを呼び集めて、『なくした銀貨を見つけましたから、いっしょに喜んでください』と言うでしょう。あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです」とたとえを話されます。

 

どういうこと?10枚のうちの1枚でしょ、と思う方もいるかもしれませんが、実はこれは女性が花嫁となる時、10枚の銀貨で1セットのものなのです。だから、1枚くらいいか、という問題ではないのです。もちろんたった1枚の銀貨でも価値がある、とも言えます。ローマ帝国の支配下にイスラエルはあったわけですから。ただ、そういう問題ではないのです。

 

たとえ、自分の犠牲をどれだけ払っても、その欠けた1枚は何にも代えがたい1セットのものですから、何が何でも探さなければなりません。花嫁が、泥だらけになっても探す、どれだけ大切なものでしょう。灯をつけて、ということは暗い中なのかもしれません。何が何でも見つけなければ、という思いがひしひしと伝わってきます。そして見つかったなら喜ぶ、それはそうでしょう。とても欠かせない1枚なのですから。たかが1枚ではないのです。

 

さて、イエス様の話されたとえ話がいかに深刻な状況の中探し、そして見つかった時の喜びようがこうして見えてきたわけですが、このたとえには重要な喜びが2つあります。1つは、見つかるまで何が何でも、泥だらけになっても、傷らだけになっても恥を惜しんで探される、ということ。欠かすこと、何にも代えがたい1枚、それはどうでもいい1枚ではない、その1枚を探すためになら、何が何でも、という愛が見えて取れます。

 

↑で天で喜ばれる、ということから、この探している人はイエス様に例えられることも見えてくるかと思いますが、イエス様にとってあなたは欠かせない、何にも代えがたい存在なのです。失われてはいけない、イエス様が共に食事をするのに、イエス様の家族として失われてはいけない、とても効果で尊い一枚、一人、あなたなのです。イエス様がやがて私たちを花嫁として受け入れるとき、あなたという一人がそこにいないことを悲しまれるのです。だからこそ、イエス様は必死になって探されたのです。神の御子でありながらそのありようを捨てられないとは考えず、罪を犯さないという点を除いて全く人と同じようになって生まれてきてくださったのです。

 

そして神の御子でありながら仕えられ、イエス様が招いてきた人だけを受け入れるのではなく、イエス様ご自身が足を運ばれ、あっちこっち、時には通る必要のない町だって通ってまでその愛を伝え、また実行し、歩きとおされたのです。人と同じ重荷を背負い、時に裏切られ、殺されそうになってもそれでも、最後まで愛されることを誓われ、十字架への道をやめることはありません。それはまさにこのたとえをもって宣言されました。

 

そしてこの先弟子や群衆に裏切られても、もうやってられない、と彼らを捨てて天に帰ることもされなかった。鞭打たれ、罵られ、傷つけられ、なぜそこまで、と思う中でもイエス様は十字架から降りることなく最後まで、私たちという失われた一人を神様の恵みのもとに引き上げようと、死にまで従われたのです。そして3日目によみがえられたことによって、このイエス様の十字架の前に悔い改め立ち返るすべての人の罪を赦し、墓の中から私たちを引き上げられ、新しくされる、イエス様の復活の恵みに私たちも共に与らせていただけるのです。

 

そこまでされてでもあなたが命を得ることを天では喜ばれる。私たちはこの示されたたった一つの救い、イエス様の命がけの愛、これをどう受け取っているでしょうか。この10枚の銀貨をつなぐのはイエス様の十字架の愛、いのちです。私たちはこのイエス様に繋がれ、天の御国にまで導かれるのです。これほどまでに愛される方が。あなたにとっては八百万の神の一つ、自分に利益をもたらすなにかとみるのか、それとも、これ以外ありえない、救い主として信じ受け入れるのか、あなたはどっちでしょう。あなたをイエス様の命にあって輝かせていただける、御心が現わされる喜びを、私たちも喜び、イエス様から離れず、歩もうではありませんか。