「ある安息日に、食事をしようとして、パリサイ派のある指導者の家に入られたとき、みんながじっとイエスを見つめていた。そこには、イエスの真っ正面に、水腫をわずらっている人がいた。イエスは、律法の専門家、パリサイ人たちに、『安息日に病気を直すことは正しいことですか、それともよくないことですか』と言われた。しかし、彼らは黙っていた。それで、イエスはその人を抱いていやし、帰された。それから、彼らに言われた。『自分の息子や牛が井戸に落ちたのに、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者があなたがたのうちにいるでしょうか。』彼らは答えることができなかった。」
ルカによる福音書14章1-6節
最近では少しずつ、少しずつではありますが、日本でも弱さを抱えている方を理解し助ける働きが出てきていますが、それでも、差別的に見る人たちもまだまだいます。しかし、私たちが忘れてはいけないのは、あなたが他よりも優れているとか、その人がどうのとか、いうことなどできないのです。というのも、私たちは神様によってつくられた存在、神様にこそ栄光が帰されるべきであり、何より神様が愛されている。どうして私たちがあーだこーだいえましょう、私たちはただただ神様の愛に生かされ、また隣人を愛する、そのような命の関係に生きさせていただきたいものです。
さて、神の御子イエス様が人となってお生まれになり、その公生涯を歩まれていたある日のこと、「ある安息日に、食事をしようとして、パリサイ派のある指導者の家に入られたとき、みんながじっとイエスを見つめていた。そこには、イエスの真っ正面に、水腫をわずらっている人がいた」ということがありました。
パリサイ人の家にイエス様が行く、というのもまた珍しいことと感じる方もいるかもしれませんが、もしかしたらパリサイ人がイエス様を招いたのかもしれません。というのも、なぜか水腫を患っている方がパリサイ人の家にいたからです。しかも彼らは安息日に仕事と言いますか、癒すことも含めすることを赦していない中だったので、イエス様を招いて、罠にはめようとしたのかもしれません。
ただ、イエス様がそれを知らなかったのか?いえ、知っていたのです。パリサイ人たちは自分を陥れようと躍起になっていることも知っている、何らかの形で何とか殺せないかと模索していることも知っている、それでもイエス様は彼らの家にいって、しかも食事をされるのです。食事をするということは、当時のイスラエルの文化を考えれば、仲間として見るということ。つまりイエス様はパリサイ人をも、なんとか悔い改めに導き、神様のもとに帰ってほしい、と願っていたのではないでしょうか。イエス様はやがて彼らによって十字架にかけられることを知っている、どうしてそんな人たちと食事をしなければいけないのか、仲良くしなければいけないのか、とは考えず、その食事の席に向かわれたのです。
しかし、そんなことに水腫で苦しむ人を利用する彼らパリサイ人もどうなのでしょう。さらし者にしたいのか。どうして、彼を休ませる、何か美味しい食事や飲み物などで休ませることを考えなかったのか、ないしイエス様が来られるのだから癒してください、とお願いしなかったのか、本当に彼を大切にしていたなら。
彼らは何もしなかった。励ましの言葉をかけることもなく黙っていた、イエス様が何をするのか、何を言うのかをじっと観察していたのでした。しかしイエス様は躊躇することなく「安息日に病気を直すことは正しいことですか、それともよくないことですか」と言って水腫の人を癒されたのでした。
あ、そもそも水腫、ということですが現代医学の認識では、鬱血性心不全と腎不全が第一の原因として挙げられていまする。どちらも放置すればもう一方の疾患を惹起するもので、近代的な臨床検査なくしてはそのどちらが原因であるかを同定することはできず、その治療もできません。さらに、それらをもたらしうる疾患としてネフローゼ症候群、肝硬変などの全身性、打撲などの局所性、心不全、炎症性水腫などのその他水腫に分けられるそうです。
まあ私もそうですが素人の私でもはっきりとわかるものではない、その上この時は現代医学の認識よりも2000年近く前の話です。普通に手の打ちようのないくるしみをともなうもの、放っておくパリサイ人たちの神経が理解できません。ただイエス様は彼を躊躇することなく、医学などや安息日といった限界、理解を超えた愛をもって彼を抱きしめ、奇跡、癒しをなされたのです。
イエス様を試すためではなかった場合であっても、確かにパリサイ人の常識で安息日に何かをするということはあり得ない話だった、また医療の限界から癒すことさえ不可能な話だからあきらめていたのか。しかし、イエス様にお願いすることはできます。せっかくイエス様が目の前に来られたのに、どうして願わないで黙ってどうするか見ているなんてしてられるだろう。
イエス様の行動からやはり試すために水腫を患った方をこの食卓に招いていたとしか考えられませんが、イエス様の愛、なさることに限界はありません。そもそもイエス様を罠にはめるとわかっていてなおパリサイ人の家にイエス様が行かれたのは、彼らにそれでも悔い改めて、本当の神様の恵みに立ち返ってほしい、その願いがあったからではないでしょうか。だから、彼らに「自分の息子や牛が井戸に落ちたのに、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者があなたがたのうちにいるでしょうか」と問いかけるのでした。私たちの価値、常識でははかり知れない神様の愛が今ここに現わされるんだ、と。そもそも安息日は「神様が」定められた「聖なる日」。祝福の日、神様と出会いその恵みの日はどれだけ特別でしょう。彼らの主張する安息日は、彼らの常識の中の安息日ルールです。律法の分かち合いの中でも見てきましたが。
水腫を患い、振り回されていた人、本当の恵みを知らずにさ迷うパリサイ人のところ、神様から離れ好き勝手に生きる私たちのところにさえイエス様は来られ、抱きかかえられ癒される。私たちの思い煩いも、痛みも、何より罪も一切身代わりに背負われ、十字架にかかられ、死なれたのです。しかし3日目によみがえられたことによって、これらすべてに完全に勝利されました。本来神様からの永遠の別離となるところが、裁きどころか、むしろイエス様を身代わりに罰してまであなたを愛するという常識では考えられないほどの愛をもって愛されたのです。
私たちは今こそこの愛を受け取ろう。イエス様の前に沈黙するのではなく、イエス様の御業が、御心が現わされることを切に願おうではありませんか。それは自分の常識では無理でも神様に不可能なことはありません。イエス様がなしてくださる一つ一つの大いなる恵みに感謝し、世の常識の目ではなくイエス様の目、イエス様の見せてくださる一つ一つに感謝し歩もうではありませんか。