「ちょうどそのとき、何人かのパリサイ人が近寄って来て、イエスに言った。『ここから出てほかの所へ行きなさい。ヘロデがあなたを殺そうと思っています。』イエスは言われた。『行って、あの狐にこう言いなさい。【よく見なさい。わたしは、きょうと、あすとは、悪霊どもを追い出し、病人をいやし、三日目に全うされます。だが、わたしは、きょうもあすも次の日も進んで行かなければなりません。なぜなら、預言者がエルサレム以外の所で死ぬことはありえないからです。】ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者、わたしは、めんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。わたしはあなたがたに言います。【祝福あれ。主の御名によって来られる方に】とあなたがたの言うときが来るまでは、あなたがたは決してわたしを見ることができません。』」
ルカによる福音書13章31-35節
自分はそのことは知っているからどうでもいい、聴く必要は別に自分には関係ないからない、という過信は本当に怖いですね。それは仕事においても何においても言えることだと思いますが。まあ逆に知識をひけらかす、というのもあれですが。ただ、神様が語られることは時に厳しいものがあるかもしれませんが、それは私たちが本当に生きたものとなってほしい、と愛するがゆえに語られること。知識をひけらかすのは自慢からきますが、神様の語る言葉はあなたへの愛から始まるのです。神様はいつも語ってくださっている、私たちはこの主にいつも信頼し、歩みたいものです。
さて、神の御子たるイエス様が人となってお生まれになられその公生涯を歩まれていたある日のこと、当時の宗教家たち、パリサイ人たちがイエス様のもとにやってきて「ここから出てほかの所へ行きなさい。ヘロデがあなたを殺そうと思っています」と伝えます。パリサイ人の多くはイエス様に敵対し、イエス様に従おうものなら昔の日本でいうところの村八分にされるほど。そのパリサイ人の中にもいい人がいるんだ、とこれを聞くと一瞬思ってしまうところなのですが、そうではありません。
というのもまず、ヘロデはイエス様に対して非常に興味を持ち、イエス様が十字架にかかる前、裁判の席で彼にいろんな話を聞こうと試みたほどです。まあもしかしたら殺そうとしていたかもしれませんが、今そこが問題なのではありません。というよりもイエス様に興味を持っていた(バプテスマのヨハネを通してイエス様に興味を持っていた)だけ、まだパリサイ人たちよりましなのかもしれませんが。
というのも、イエス様の話に耳を傾け、ついてくる人たちがあまりに多く、パリサイ人たちは自分たちの地位が失われるのではないか、と心配しているのです。イエス様は、広い門となって別なほうへ招こうとしているパリサイ人に↑の直前で、「努力して狭い門から入りなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、入ろうとしても、入れなくなる人が多いのですから」と、「彼らに向けて」も語られていたのです。自分はそっちに行く必要はない、とかたくなになるのではなく、へりくだって、門、神様に続く門へと立ち返ることを願って。しかし、それでは自分たちが脅かされるので早くイエス様を去らせたかったのではないでしょうか。
私たちも、イエス様の、聖書の言葉を聞いて、これは自分に言われている、自分を責めているんだ、とたまに勘違いすることがありますが、イエス様は私たちにむしろ命を得てほしい、だから語るんです。どうでもいいなら語りませんよ。イエス様はあなたが命を得ることを何よりも願っているのです。人が作られた時、神様が息(霊)を吹き込まれ、初めて本当の意味で生きたものとなったように、私たちは神様なしで生きていくことはできません。
イエス様はそんな彼らに、「行って、あの狐にこう言いなさい。『よく見なさい。わたしは、きょうと、あすとは、悪霊どもを追い出し、病人をいやし、三日目に全うされます。だが、わたしは、きょうもあすも次の日も進んで行かなければなりません。なぜなら、預言者がエルサレム以外の所で死ぬことはありえないからです。』ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者、わたしは、めんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。わたしはあなたがたに言います。『祝福あれ。主の御名によって来られる方に』とあなたがたの言うときが来るまでは、あなたがたは決してわたしを見ることができません」と答えられます。
一つは、ここでいう狐の一人は、自分の地位とプライドを守るために、彼のいとこにあたるバプテスマのヨハネを殺したヘロデにあたるでしょう。と同時にパリサイ人たちにもこれは語られているのです。彼らもイエス様を殺そうと画策していましたから。自分の都合の悪いことは消す、もみ消す、都合が悪いから聞かなかったことにしよう、と。イエス様はやがてエルサレムにのぼり、そこで、まさに「祝福あれ。主の御名によって来られる方に」と言われながら十字架の直前、迎えられます。裏切られ、十字架にかけられますが。そこでヘロデと会うことを知っているのですから、わざわざ伝えるまでもない、でもパリサイ人にそう伝えるように言ったのは、まさに彼らにも、知ってもらいたいからこそ語られたのです。ヘロデなんて眼中にない、パリサイ人など救うに値しない、と思うなら無視して離れ去るでしょう。
しかし、彼らに、旧約聖書でこれまでも分かち合ってきましたが「めんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めよう」としてくださっていた。またイエス様が人となってお生まれになってからも何度も多くの奇跡や、御言葉をもって語り、無視するわけでもなく、彼らを悔い改めに導いてきてくださっていたのです。それなのに、それは自分たちには関係ない、と。それなのに、彼らはそれを好まなかったゆえに、彼らの家は荒れ果てたままに残されることとなってしまうのです。
しかし、荒れ地に道を、砂漠に川を造られる神様は、荒れ果てた地になにもできないわけではありません。13章前半で見たように、イエス様がそれを耕し、肥料をまき、私たちの土を良い地に変えて「くださる」のです、多くの実を結ばせてくださるため、彼らが、私たちが命を得るため。
私たちは神様と無関係、自分一人で十分だ、なんてことはないのです。それはこの時代、またこれからの時代、より問われてくることになるでしょう。変わりゆく時代、変わりゆく価値観、だからこそ、変わることのない神様に信頼したいものです。神様はあなたを放置するのではなく、命を得させるため、本来あるべきあなたに回復させるべく、私たちの思い煩い、悩み、何より罪も一切背負われ十字架にかかられ、死なれたのです。しかし3日目によみがえられたことによって、このイエス様の十字架の前に悔い改め立ち返るすべての人の罪は赦され、神様の子とされるのです。
本来罪人ゆえにもう知らない、と見放され、神様と関係のないものにされてもおかしくない中で、神様はイエス様の命を持ってまであなたを取り戻そうとされた。あなたを神様の子として迎え入れようとしてくださったのです。私たちは今こそ、あなたに命、心血を注がれたイエス様の命、あなたを恵みへと導く、いのちの道へと、天にまで導かれるイエス様に信頼し歩もうではありませんか。どんな順境の日も逆境の日も、イエス様が共に導かれ、そこに御心を現してくださる、実を結ばせてくださる、あなたに命をもってまで取り戻された、このご計画に信頼し歩もうではありませんか。