―本当に大事なのは多いか少ないかではなく― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「それで、エルバアル、すなわちギデオンと、彼といっしょにいた民はみな、朝早くハロデの泉のそばに陣を敷いた。ミデヤン人の陣営は、彼の北に当たり、モレの山沿いの谷にあった。そのとき、主はギデオンに仰せられた。『あなたといっしょにいる民は多すぎるから、わたしはミデヤン人を彼らの手に渡さない。イスラエルが【自分の手で自分を救った】と言って、わたしに向かって誇るといけないから。今、民に聞こえるように告げ、【恐れ、おののく者はみな帰りなさい。ギルアデ山から離れなさい】と言え。』すると、民のうちから二万二千人が帰って行き、一万人が残った。すると、主はギデオンに仰せられた。『民はまだ多すぎる。彼らを連れて水のところに下って行け。わたしはそこで、あなたのために彼らをためそう。わたしがあなたに、【この者はあなたといっしょに行かなければならない】と言うなら、その者は、あなたといっしょに行かなければならない。またわたしがあなたに、【この者はあなたといっしょに行ってはならない】と言う者はだれも、行ってはならない。』そこでギデオンは民を連れて、水のところに下って行った。すると、主はギデオンに仰せられた。『犬がなめるように、舌で水をなめる者は残らず別にしておき、また、ひざをついて飲む者も残らずそうせよ。』そのとき、口に手を当てて水をなめた者の数は三百人であった。残りの民はみな、ひざをついて水を飲んだ。そこで主はギデオンに仰せられた。『手で水をなめた三百人で、わたしはあなたがたを救い、ミデヤン人をあなたの手に渡す。残りの民はみな、それぞれ自分の家に帰らせよ。』そこで彼らは民の糧食と角笛を手に取った。こうして、ギデオンはイスラエル人をみな、それぞれ自分の天幕に送り返し、三百人の者だけを引き止めた。ミデヤン人の陣営は、彼から見て下の谷にあった。」

士師記7章1-8節

 

多数決の原理、マジョリティ・マイノリティなど数の論理がありますが、必ずしも多いほうが正しいわけでもないし、少ないから正しい、というわけでもない。少数を大事にしよう、という考えもわかるのですが、曖昧にすれば、本質的な部分が見えなくなる、失ってしまいます。わからないことはわからない、でいいんです。神様にあなたが祈り求める中で導いてくださるでしょう。どんな方法か、は人それぞれに神様は働かれるので私はこうです、とは言えませんが、ただ神様は最善をなされる方、私たちはこの神様に信頼し歩ませていただこうではありませんか。

 

さて、イスラエルの民が約束の地に入り、相続地を分配した後、ヨシュアの死後、神様がこれまで彼らを導いてきてくださったことを知らず、こともあろうに気にもかけない、第3世代が起こりました。彼らは神様から離れ、その結果敵が圧迫し、イスラエルは悔い改め、そして神様が士師を立てる、そして離れるとまた敵が圧迫する、その繰り返しの時代に突入しました。それでも神様は彼らを見捨てず、オテニエル、エフデ、シャムガル、デボラとバラクとここまで士師を立ててくださりました。そして驚くべき勝利を与えてくださり、40年間平安の期間を与えてくださりました。

 

ところが、民はその40年の平安の期間、回復が与えられていたにもかかわらず、そのご神様から離れた、そのためミデヤン人によって7年の圧迫を受けるのでした。それはあまりにひどく、ミデヤン人にあらゆるものを奪われていき、心が砕けるほどでした。そこで受肉前のイエス様を彼らのもとに遣わされ、ギデオンを励まし、マナセ族、アシェル、ゼブルン、そしてナフタリ族を彼のもとに送り、強めてくださるのでした。

 

これは↑の話にもつながる話なのですが、数が多ければいい、というわけではなく、神様がいる、これ以上の援軍はありません。受肉前のイエス様が来られただけでどれだけ力強いか、イエス様が味方なら、何があなたに立ち向かうことができるでしょう。

 

ただ、前回も見ましたが、ギデオンは目に見える部族の助っ人だけでは不安があるのです。というのも、これまで人の力だけで何とか生きてこようとした結果、イスラエルの民は7年間もの間、ミデヤン人に徹底的にやられたい放題だったのですから。彼が不信仰だった、というよりも、勇気がなかったというよりも、ギデオンは神様がいる、その確信が欲しかった、そこで神様にしるしを示してほしい、と求め、神様も、その彼の内にある神様を求める心にこたえ、いよいよギデオンは奮い立ち、戦いに向かいます。

 

ところがここで神様はどういうわけか人数を絞り始めます。人数が多ければ勝てる確率も上がるでしょう、でも、「でしょう」レベルでいいのでしょうか。神様は、「ギデオンに仰せられた。『あなたといっしょにいる民は多すぎるから、わたしはミデヤン人を彼らの手に渡さない。イスラエルが【自分の手で自分を救った】と言って、わたしに向かって誇るといけないから。今、民に聞こえるように告げ、【恐れ、おののく者はみな帰りなさい。ギルアデ山から離れなさい】と言え。』すると、民のうちから二万二千人が帰って行き、一万人が残った。すると、主はギデオンに仰せられた。『民はまだ多すぎる。彼らを連れて水のところに下って行け。わたしはそこで、あなたのために彼らをためそう。わたしがあなたに、【この者はあなたといっしょに行かなければならない】と言うなら、その者は、あなたといっしょに行かなければならない。またわたしがあなたに、【この者はあなたといっしょに行ってはならない】と言う者はだれも、行ってはならない。』そこでギデオンは民を連れて、水のところに下って行った。すると、主はギデオンに仰せられた。『犬がなめるように、舌で水をなめる者は残らず別にしておき、また、ひざをついて飲む者も残らずそうせよ。』そのとき、口に手を当てて水をなめた者の数は三百人であった。残りの民はみな、ひざをついて水を飲んだ。そこで主はギデオンに仰せられた。『手で水をなめた三百人で、わたしはあなたがたを救い、ミデヤン人をあなたの手に渡す。残りの民はみな、それぞれ自分の家に帰らせよ。』そこで彼らは民の糧食と角笛を手に取った。こうして、ギデオンはイスラエル人をみな、それぞれ自分の天幕に送り返し、三百人の者だけを引き止めた。ミデヤン人の陣営は、彼から見て下の谷にあった」と不思議な選び出し方をしています。

 

そう、自分たちの力が強かったから、自分たちの部族のおかげで、自分たちの知恵があったから、そのような理由によって思い高ぶり、神様などいなくても大丈夫、となることがないように。実際そうでしょう?7年間イスラエルを支配していたミデヤン人に急に勝てるわけがないじゃないですか。むしろ神様が彼らの内に働かれて、勝利を治めさせてくださる、その中に犠牲を伴うものとは違う、神様の恵み、神様の守り、神様が共におられるその喜びを体験的に知るのではないでしょうか。

 

もちろん、神様が共に進まれるのに、恐れる人は帰ってもいいよ、というのはわかりますが、ここから先が面白い選び出し方になります。それでももう1万人しか残っていないのにもかかわらず、なんと神様はなお人数を減らそう、というのです。数がものを言って勝ったと勘違いしないために。人の数の力に、神様の恵みの1つ1つに勝るものはないのです。

 

神様は神様に導かれ泉のところに進んだギデオンと民を見て、ギデオンに「犬がなめるように、舌で水をなめる者は残らず別にしておき、また、ひざをついて飲む者も残らずそうせよ」と仰ります。それはなめ方のお行儀の問題ではありません。また臨戦態勢をいつもとっている人、というわけでもありません。ここで口に手を当てて水をなめた者の数は三百人でした。そして残りの民9700人はみな、ひざをついて水を飲むのでした。じゃあ逆だったらどうだったの?という話なのです。神様はその飲み方によってグループを分けるように言っているだけです。

 

実はこの先の戦いを見ると人数が少ないから圧倒的に不利になる、ということは実はないことがわかります。人の考えで、こっちのほうが優れているからこっちにしよう、ではなく、私たちは神様のくださる知恵に従いたいものです。神様は、私たちのひとりひとりのアイデアをはるかに超え、私たちに知恵の霊を注ぎ、人の数にはるかに勝る唯一真の神様が驚くべきことをなしてくださるから、私たちはこの神様の前にひざまずき、与えてくださる恵み1つ1つをいただかせていただこうではありませんか。

 

神様は私たちのゆく道帰る道、すべてを守ってくださります。途中で帰ることになった人たちも神様は守ってくださったでしょう。それでも、たとえそんな人数で、方法で何ができる?と思うような時であっても、今ここにイエス様がいる(ギデオンと共に今受肉前のイエス様が共に進まれる)、この確信に立とうではありませんか。勝利をもたらし、命をもたらしてくださる、その豊かな恵みをあふれさせてくださるのはイエス様です。

 

イエス様のあの十字架、イスラエルの民が、また私たちの多くがおっている問題、悩み、何より罪の一切を身代わりにお背負われ、十字架にかかられ、死なれた。こんなありえない方法をもってあなたという人を救い出し、イエス様の復活による勝利の行進、行列に加えてくださるのです。選ばれなかったからと言ってあきらめる必要はありません。あなたにはあなたへの神様後の計画がある。のちのイエス様の昇天後の時代、12弟子や使徒に選ばれなかった多くの人たちもまた用いられ、今の時代も各国、驚くべき形で神様は働かれ、その救いを全世界に至るまで広げようとしている、昨日見た、狭く見えたはずの門を神様はイエス様の命をもって広げてくださったのです。

 

たった300人、こんな自分、と私たちは思う必要はありません。神様はあなたにはあなたへのご計画をもって導かれるから。御子イエス様いのちという代価を持ってまで買い戻された今、私たちはその神様がなあ他の内に働かれ、なされようとしているご計画に信頼し、歩もうではありませんか。自らの誇りが経つのではなく、神様の栄光が豊かに、とこしえに現わされることを願い。