―結局誰ならいいの?― | 子育て休職中牧師の聖書のおはなし

子育て休職中牧師の聖書のおはなし

東京で牧師をしておりましたが、子育てのため一時的に北海道に移住しました。
「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と語られた神様からのラブレター・聖書から少しずつ分かち合わせていただきますね(*^_^*)

「その後、イスラエル人はまた、主の目の前に悪を行なった。エフデは死んでいた。それで、主はハツォルで治めていたカナンの王ヤビンの手に彼らを売り渡した。ヤビンの将軍はシセラで、彼はハロシェテ・ハゴイムに住んでいた。彼は鉄の戦車九百両を持ち、そのうえ二十年の間、イスラエル人をひどく圧迫したので、イスラエル人は主に叫び求めた。そのころ、ラピドテの妻で女預言者デボラがイスラエルをさばいていた。彼女はエフライムの山地のラマとベテルとの間にあるデボラのなつめやしの木の下にいつもすわっていたので、イスラエル人は彼女のところに上って来て、さばきを受けた。あるとき、デボラは使いを送って、ナフタリのケデシュからアビノアムの子バラクを呼び寄せ、彼に言った。『イスラエルの神、主はこう命じられたではありませんか。【タボル山に進軍せよ。ナフタリ族とゼブルン族のうちから一万人を取れ。わたしはヤビンの将軍シセラとその戦車と大軍とをキション川のあなたのところに引き寄せ、彼をあなたの手に渡す。】』バラクは彼女に言った。『もしあなたが私といっしょに行ってくださるなら、行きましょう。しかし、もしあなたが私といっしょに行ってくださらないなら、行きません。』そこでデボラは言った。『私は必ずあなたといっしょに行きます。けれども、あなたが行こうとしている道では、あなたは光栄を得ることはできません。主はシセラをひとりの女の手に売り渡されるからです。』こうして、デボラは立ってバラクといっしょにケデシュへ行った。」

士師記4章1-9節

 

色々試す、ということは時には確かに必要なのかもしれませんが、何でもかんでも、となると話は別ですね。やってみなければわからないじゃないか、自由でしょ?とモラルも崩壊することもあります(何のことをさしているかはお察しくだされば)。しかし、私たちは私たちを造られた、生まれる前、母の胎内にいるときから形作られ、愛を注がれ続け、今も導いてくださっている神様から目を離してはいけない。神様はあなたを見捨てない、あなたは?

 

さて、イスラエルの民が約束の地に入り、相続地を分配したのち、神様がこれまで彼らを導いてきてくださったことを知らない、というよりも気にかけない、すごいとも思わない、シリアスに愛される神様をシリアスに考えない第3世代が起こりました。ここまで離れては神様が憐れまれ、士師を立てる、ということが繰り返されてきました。オテニエル、エフデ、シャムガル。これだけ神様の憐れみが続いたのだから、民も少しは心を入れ替えたのかと思いきや、またしても民は神様から離れていくのでした。最初はメソポタミヤ人に8年、エフデの時は18年苦しめられていた、それでもエフデの時には同時にシャムガルも起こし、神様は隅から隅までその御目をとどろかせ、彼らの叫びを聞いて答えられたことを見ましたね。そして、その神様の憐れみゆえに80年の平安の時が与えられたのでした。

 

ところが、80年の平安の時が「神様から」与えられていたにもかかわらず、「イスラエル人はまた、主の目の前に悪を行なった。エフデは死んでいた。それで、主はハツォルで治めていたカナンの王ヤビンの手に彼らを売り渡した。ヤビンの将軍はシセラで、彼はハロシェテ・ハゴイムに住んでいた」のでした。なぜそんなことが?

 

これは私たち誰しもが陥る問題ではあるのですが、平和なのは当たり前のことではない、それは今の世の中を見渡せばわかることかもしれませんが、そんな中で私たちを守られるのは、神様なのです。私たちに本当の平安を与えられるのは、世の与えるものとは違う、いのち溢れる平安を与えてくださるのは神様、当たり前のような日々にあっても神様はその当たり前の中にも働かれているのです。何にもないから神様はどうでもいい、なんてとんでもない話で、どんな時も神様に感謝し、祈る、神様につながり続けたいものです。

 

ただ、残念ながら、イスラエルの民はやはり神様から離れてしまったために、カナン人ヤビンが立ち上がり、イスラエルを20年にわたって圧迫するのでした。80年神様が支え続けたのに、20年も神様に立ち返ることを民は忘れていた、いかに神様のすばらしさを伝え続けることが大事なのかを覚えますね。このヤビンの最後はとても目の当てられないものになるのですが、それはまた先の箇所で。

 

神様は逆に20年の間無視をされていたのか?なぜヤビンたちを止めなかったのか?神様はそれまでの間も彼らを抑えていた、その抑えていた神様を民はないがしろにし、関係をあいまいにしてしまった結果、そのあいまいさが仇となり、誰に頼ったらいいのかわからなくなった、あの古代イスラエル王国3代目の王ソロモンの最後のほうもそんな感じでしたね。あれやこれやの偶像が入り込んで、八方美人のように、そばめと奥さん合わせて1000人に気に入られようとしていった結果、本当の神様が誰なのかわからなくなっていった。神様はそれでも民に目を留めてくださっている、私たちに目を留めていてくださっているのです。ただ、私たちが神様に立ち返るかどうか、そこがポイント。神様こそ主、他にはいない、と確信をもって立ち返る、その中で神様は喜んで迎えてくださるのです。

 

話を↑に戻して、ヤビンは鉄の戦車九百両を持ち、そのうえ二十年の間、イスラエル人をひどく圧迫したので、イスラエル人は主に叫び求るのでした。強いから?どうにもならないから?じゃあなんともない時は神様はいらないの?と突っ込みたくなるところですが、実はこの後の彼らの行動にもそれが表れてきます。

 

↑にもありますが、そのころ、ラピドテの妻で女預言者デボラがイスラエルをさばいていました。ラピドテじゃなくてデボラなんだ、と思うところですが、神様は当時では珍しい女性預言者を用いられました。と言っても、あのモーセの姉、ミリヤムも女預言者のような役割を果たしていましたが。彼女が突然信仰を持ったわけでもない、神様と彼女はつながり続けていた、つまり神様はイスラエルの民を見捨ててなどいなく、預言、神様が彼女を通して何とか民に立ち返るように導いておられたのです。そして、時が来て、民も、ああ神様に立ち返ろう、と叫んだようにも思えます。

 

で、そのデボラ(エフライム族)ですが、彼女はエフライムの山地のラマとベテルとの間にあるデボラのなつめやしの木の下にいつもすわっていたので、イスラエル人は彼女のところに上って来て、さばきを受けていたのですが、あるとき、デボラは使いを送って、ナフタリのケデシュからアビノアムの子バラクを呼び寄せ、彼に「イスラエルの神、主はこう命じられたではありませんか。『タボル山に進軍せよ。ナフタリ族とゼブルン族のうちから一万人を取れ。わたしはヤビンの将軍シセラとその戦車と大軍とをキション川のあなたのところに引き寄せ、彼をあなたの手に渡す。』」と言います。

 

神様は、デボラを通して「彼、バラク」の手に渡す、というのです。神様が勝利へと導いてくださる、と。しかし、バラクはデボラのこの言葉に、「もしあなたが私といっしょに行ってくださるなら、行きましょう。しかし、もしあなたが私といっしょに行ってくださらないなら、行きません」と答えます。

 

前回の士師シャムガルのことを思い起こすと、高々農民、牛の付き棒しか持っていない中にあって、神様が彼の内に働かれ、勝利を治めさせてくださった、それを思い起こすと、何を恐れる必要があるのだろうか、と思うわけです。デボラが素晴らしいのではない、もちろん彼女の信仰は素晴らしいものがあったでしょう、しかし、デボラがすごいのではなく、彼女の内に働かれる、「神様が」素晴らしいのです。デボラが一緒じゃなければいきません、なんて、男としてどうなのか、と言ったら今の時代ジェンダー問題であれこれ言われてしまいそうですが。ただ、男であろうとも女性であろうとも、「神様が」渡してくださる、と約束してくださっているのに、彼はそれを恐れ、デボラが一緒じゃなければ、というのです。

 

神様ではなくデボラ。神様のご計画を、デボラを通して神様は語られた、それなのにデボラの存在のほうが大事としてしまった彼に、デボラは「私は必ずあなたといっしょに行きます。けれども、あなたが行こうとしている道では、あなたは光栄を得ることはできません。主はシセラをひとりの女の手に売り渡されるからです」と言います。

 

この章の後半のほうで出てきますが、本当に一人の女性なのです、その女性の針一つでバラクが恐れていた王ヤビンは打たれます。残念ながら確かにバラクは神様の御手に導かれ、勝利、栄光を見、神様のすばらしさを知るはずのところを逃すことになった。神様は一人の女性を通してさえ、彼女を通して働かれるなら普通に考えればあり得ない方法をもって勝利へと導かれるのです。

 

私たちは神様を小さく見てはいないでしょうか。神様は、比較して選ぶものではない、神様がまずあなたを愛し、まだ私たちが罪人出会った時から私たちを愛され、私たちの罪の身代わりに、私たちの思い煩い、恐れ、何より罪を身代わりに背負われ、十字架にかかられ、死なれたのです。罪の呪いによって、暗闇の恐れによって支配された道から、死から命へと引き上げるために、御子イエス様は十字架にかかられただけではなく、死にまで従われたのです。そして3日目によみがえられたことによって、このイエス様の十字架の前に悔い改め立ち返るすべての人の罪を赦し、神様の子として迎え入れてくださった。

 

どんなにさ迷い歩いているイスラエルの民をも憐れまれ、救いの準備を着々と進められていた神様は、あなたを日々見放すことなく立ち返ることを待っておられる、神様がこのイエス様の命を持ってまで導かれる命の道、栄光、どんなに小さな私たちでも、神様が私たちの想像もつかない御業を見、体験させてくださるのです。私たちはあきらめてはいけません、神様はあなたをあきらめられなかったのですから。イエス様の命を持ってまで取り戻されたこの新しい命、どんなことがあろうと神様が共にいる、だからどんなことがあろうとこの方から離れず、また祈り、御心が鳴ることを祈りの求めていこうではありませんか。