―まさか身代わりになったのは― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「イエスはこのようなたとえを話された。『ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた。実を取りに来たが、何も見つからなかった。そこで、ぶどう園の番人に言った。【見なさい。三年もの間、やって来ては、このいちじくの実のなるのを待っているのに、なっていたためしがない。これを切り倒してしまいなさい。何のために土地をふさいでいるのですか。】番人は答えて言った。【ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください。】』」

ルカによる福音書13章6-9節

 

人の我慢は、どれくらいできるものでしょうね。某の顔も3度まで、などということわざもありますが、神様は待たれる神様、悔い改め立ち返ることを待ってくださる神様です。あなたを愛し、あなたが滅びるのではなく命を得てほしいからです。そのためなら御子イエス様の命さえ惜しまなかった、どんなに裏切る弟子たち、群衆を見ても、愛することをやめなかった。私たちはこの神様の愛にどうこたえるでしょうか。

 

さて、ローマの総督ピラトが問題を起こしたことについて、ある日イエス様に尋ねた人たちがいました。しかしイエス様は「そのガリラヤ人たちがそのような災難を受けたから、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。また、シロアムの塔が倒れ落ちて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいるだれよりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます」と答えられました。

 

他の誰が、ではなく神様に向く、神様に御心を願い求めることをこの箇所から見ましたが、イエス様はなお続けて、今度はたとえを持って語られます。それは「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた。実を取りに来たが、何も見つからなかった。そこで、ぶどう園の番人に言った。『見なさい。三年もの間、やって来ては、このいちじくの実のなるのを待っているのに、なっていたためしがない。これを切り倒してしまいなさい。何のために土地をふさいでいるのですか。』番人は答えて言った。『ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください。』」というものでした。

 

これはなかなか難しく感じるたとえ話かもしれません。ブドウ園にイチジクの木を植えて、実が取れないから番人に主人が文句を言った?いえ、どうも時期をずらして、植える、ということはあるそうです。だから理不尽な文句ではありません。それでも3年も結ばないことに注意した、ということは、本来は結ぶはずなのに結ばない、ということです。

 

はい、この主人は神様です。神様は私たちのうちに身が実ることを何より望んでおられるのです。神様の御心、命の実が。しかし、これだけの愛情を注いでいるにもかかわらず、いつまでも神様に立ち返らず、まあこんなもんでいいだろう、と世の茨などによって立ちふさがれて、実を結ばない。せっかくイエス様の愛が注がれているのに、こっちのほうが自分には役に立つ、自分の考えと合うから、神様が言っていることに従う必要はない、と。

 

しかし、ここで番人は主人、神様に「ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください」と訴えるのです。本来、番人は奴隷などが任され、ある意味で主人に逆らうということなどありえないこと、下手をしたら殺されてもおかしくない。それに、こう入っても本当に実を結ぶなんて保証はどこにもないじゃないですか。それでも結ばないなら切り倒してください、と。

 

ん?番人は見捨てたの?いえ、そうではないのです。イエス様が、それでも、こんな私たちでも、私たちの周りを掘って肥やします、見捨てず愛を注ぎ続ける、と。それでももし実を結ばないなら、本来逆らった番人のゆく道のように、木ではなく自身を切り倒してください、と自らの命をもって訴えたのです。彼らが滅びる、切り倒されて火にくべられるのではなく、彼らが悔い改めていのちを得ることを何より願われたのです。

 

そして、その愛を十字架をもって実行されました。それでも離れていく弟子、裏切る人たち、どんなに奇跡やしるし、神様の愛を語っても、癒しても、彼らは耳を貸さず、かえって十字架に引き渡したのです。そんな彼らをイエス様は見捨てず、自らその十字架の道を進まれたのです。私たちを捨てて天に帰る道ではなく、ゴルゴだの十字架に。死に。陰府に。私たちが本来負うべき罪、一切を背負われ私たちの罪の身代わりに十字架にかかられ、切り倒され、死なれたのです。しかし3日目によみがえられたことによって、このイエス様の十字架の前に悔い改め立ち返るすべての人の罪を赦し、イエス様にあって接ぎ木、新しいあなたとされ、実を結ばせてくださるのです。

 

イエス様は今日もあなたを待っておられる。そしてあなたのうちにただ救って終わり、後は頑張ってね、というのではなく、あなたの歩み一つ一つの内に肥料をまき、また耕してくださる。あなたの内に主が住まわれ、豊かな実を結ばせてくださる。確かに今の時代様々な困難はあるかもしれません。しかし、イエス様がそのいのちをもって、あなたを耕し、導いてくださる。あなたを整え、また導いてくださる。あなたは一人ではない、イエス様があなたの内に住まわれ、与えようとしてくださるすべてに感謝し、期待し、委ね、歩ませていただこうではありませんか。あなたを世の終わりまで導かれるイエス様は、あなたのためなら命さえ惜しまない方、この方が与えてくださるすべてに感謝し、歩もう。そこに御国が、御心が広がることを祈りつつ。