「その同世代の者もみな、その先祖のもとに集められたが、彼らのあとに、主を知らず、また、主がイスラエルのためにされたわざも知らないほかの世代が起こった。それで、イスラエル人は主の目の前に悪を行ない、バアルに仕えた。彼らは、エジプトの地から自分たちを連れ出した父祖の神、主を捨てて、ほかの神々、彼らの回りにいる国々の民の神々に従い、それらを拝み、主を怒らせた。彼らが主を捨てて、バアルとアシュタロテに仕えたので、主の怒りがイスラエルに向かって燃え上がり、主は彼らを略奪者の手に渡して、彼らを略奪させた。主は回りの敵の手に彼らを売り渡した。それで、彼らはもはや、敵の前に立ち向かうことができなかった。彼らがどこへ出て行っても、主の手が彼らにわざわいをもたらした。主が告げ、主が彼らに誓われたとおりであった。それで、彼らは非常に苦しんだ。そのとき、主はさばきつかさを起こして、彼らを略奪する者の手から救われた。ところが、彼らはそのさばきつかさにも聞き従わず、ほかの神々を慕って淫行を行ない、それを拝み、彼らの先祖たちが主の命令に聞き従って歩んだ道から、またたくまにそれて、先祖たちのようには行なわなかった。主が彼らのためにさばきつかさを起こされる場合は、主はさばきつかさとともにおられ、そのさばきつかさの生きている間は、敵の手から彼らを救われた。これは、圧迫し、苦しめる者のために彼らがうめいたので、主があわれまれたからである。しかし、さばきつかさが死ぬと、彼らはいつも逆戻りして、先祖たちよりも、いっそう堕落して、ほかの神々に従い、それに仕え、それを拝んだ。彼らはその行ないや、頑迷な生き方を捨てなかった。それで、主の怒りがイスラエルに向かって燃え上がった。主は仰せられた。『この民は、わたしが彼らの先祖たちに命じたわたしの契約を破り、わたしの声に聞き従わなかったから、わたしもまた、ヨシュアが死んだとき残していた国民を、彼らの前から一つも追い払わない。彼らの先祖たちが主の道を守って歩んだように、彼らもそれを守って歩むかどうか、これらの国民によってイスラエルを試みるためである。』こうして、主はこれらの国民をただちに追い出さないで、残しておき、ヨシュアの手に渡されなかったのである。」
士師記2章10-23節
日本の神社はこれが得意、これは得意でない、というのが随所に見られますね。全部満たしているなら複数の神社はない。でも、そんなのでいいのでしょうか。あれが必要だからこの人に、この神社に求めるとか。そんな中途半端な事しかできない偽神に求めてあなたをどうして支えることができるでしょうか。神様に苦手な分野も不可能もありません。私たちは、あなたを丸ごと愛し、あなたを造られた神様に心から信頼し、歩もうではありませんか。
さて、ヨシュアが110歳で召天し、ここまでの神様の偉大な御業、愛にあって養われてきた世代がみなしを迎えた後の第3世代に入りました。前回も分かち合いましたが、見て聞いて、それを分かち合う、この大切さを覚えます。本当に支えることのできる方、すべ治める神様がいかにどんな時であろうと支えて守られてきたのか、これを継承、語り続けていく必要を覚えますね。ここ近年言われている宗教2世とかそういう問題ではない、もし親だったら、本当に大切なこと、事実を伝えませんか?友達が困っていれば放置しますか?彼らはモーセが言っていた信仰継承を怠り、神様のすばらしさを知らない世代が起こった、というありえないことが起こったのです。
もちろん神様はその御手を伸ばされていましたし、今も伸ばされています。しかし、それが神様からのものとしらず、偶然などと片付けてどうしますか。曖昧、他と比較、自分の困った時に助けてくれる操り道具のような神様を求めるなら、それがどうして神様と言えるでしょう。それはあなたが自分を神にしている行為なのです。神様は主であり、私たちの便利な道具ではないのです。
話を↑に戻して、イスラエル人は主の目の前に悪を行ない、バアル(豊穣の神)に仕えた、というよりも自分たちの思うようになるものを、思うような豊穣を与える存在を求め彼らは、エジプトの地から自分たちを連れ出した父祖の神様を捨てて、ほかの神々、彼らの回りにいる国々の民の神々に従い、それらを拝み、主を怒らせるのでした。昨日も分かち合わせていただきましたが、先に神様が彼らを捨てたのではなく、神様はむしろ彼らを愛し、固い契約を結ばれたはずだったのに、自ら神様から彼らは離れてしまったのでした。
彼らが神様を「捨てて」、というのは相当な意思です。疑ったでもなく、離れた、でもなく捨てた。それは彼らにとって致命的な罠となるのでした。バアルとアシュタロテに仕えることが、結局諸外国や文化、考え方に自信を乗っ取られてしまった、結果、神様は彼らを略奪者の手に渡して、彼らを略奪させた。神様が本来守っていた、それを捨てて何になるでしょう。彼らはもはや、敵の前に立ち向かうことができなかったのです。
ここで神様を捨てる、ということがどういうことなのか考えたいのですが、そもそもの話が、神様が初めの人アダムを造られた時、神様がその息吹、霊を吹き込み、初めて人は生きたものとなったのです。ですから神様の注がれる霊によって私たちは支えられ、本当の意味で生きたものとなるのです。ですから、神様から離れては本当の豊穣と申しますか、生きたものとはなれません。どんなに求めても、私たちのもと、うちの内に神様が与えてくださった息吹、霊を捨ててはどうにも立ち行かなくなります、彼らのように。攻め込まれるだけです。
そもそもこの霊・ネフェシュというのですが、これは常に渇きを求めます、というよりも、本来神様を求める、神様の恵みに満たされ、生きるのですが、神様から離れ、神様を捨てれば、当然その渇きを埋めようと人は求める、自分の納得するもの、自分を満足させる意見、自分のそれで埋めようとします。そしてあなたの本来神様が作られたあるべき姿を崩そうと攻めてくるのです。これが本当に怖い話。神様は支配したいのではない、生きたものとしたい、でもサタンも悪霊も、そうしたものはあなたを崩そうとしてくるのです。あなたはどちらを望むでしょうか。
しかし神様はそれでも彼らの苦しみを聞き、見捨てなかった、彼らの魂の叫びを聞いて、黙っておられず、彼らのためにさばきつかさを起こして、彼らを略奪する者の手から救われたのでした。しかし、それにもかかわらずイスラエルの民はそのさばきつかさにも聞き従わず、ほかの神々を慕って淫行を行ない、それを拝み、彼らの先祖たちが主の命令に聞き従って歩んだ道から、またたくまにそれて、先祖たちのようには行なわなかったのでした。要するに神様を愛する、もっと言うと神様の注がれる恵みを体験させていただけるはずが、それをそんなものはいらない、と拒否したのでした。
先祖たちと自分たちは違う、ではない、神様は変わらず愛してくださり、憐れんでくださった、それは変わらないのです。変わってしまったのは彼らの心でした。神様は固く結ばれた契約を破ることはなかったのに、彼らは破った。神様が自分の思う通りになる神様でなければ神様ではない、と。しかしそれは神ではなく、ただの傀儡人形です。あなた自身が自らを神としている。それでは一体本来の霊の供給者、神様なしでどうして生きていけるだろう。むしろ、傀儡人形に操られるだけで自らもその支配を受けるだけではありませんか。
確かに自分の求める、すべてなくとも一部を満たすものはあるかもしれませんが、あなたを丸ごと魂の底から満たすものが一体どこにいるでしょう。それは神様だけではありませんか。あなたを造られたかた、御子イエス様の命さえ惜しまない方以上にあなたを生かすことができる神様がどこにいるでしょうか。まだ罪人出会った時、友と呼び、その私たちの罪の身代わりに命さえ惜しまない方がどこにいますか。あなたから魂を、あなた自身を搾取する偽神に何ができますか。イエス様の命がけの愛、命を持ってまで取り戻された、新しくされたあなたに神様がどうして恵まれないはずがあるでしょう、それを改めて敵の手に差し出してどうしましょう。
これ以上の愛がどこにあるでしょう、友のために命を捨てるイエス様のこの愛の前に。神様を試みている場合ではありませんよ。八方美人になっている場合ではありません。神様は罪人である私たちと真正面を向いて、見捨てることなく、その愛の限りを尽くされた、裏切る弟子たち、群衆を前にしても、神様に、私たちの罪の赦しの懇願を十字架上でなされたのです。見捨てなかったのです。
↑では神様が意地悪で追い出さなかったように見えますが、ヨシュア記の相続地の話を見てわかる通り、残したのは民で、それを良しとしたのも民です。神様は、彼らに心を、魂を奪われないために、何度となくその御手を伸ばされていたのに彼らは神様を捨てた。私たちは神様を捨てるのではない、あなたの内にすくう様々な問題をむしろ命をかけてあなたを愛されたイエス様にゆだね、聖めていただき、新しくしていただき、信仰の創始者であり完成車者であるイエス様から目を離さず、歩もうではありませんか。イエス様はあなたから目を離さず、養われ、守られ、導かれるから。