「また、ユダ族はエルサレムを攻めて、これを取り、剣の刃でこれを打ち破り、町に火をつけた。その後、ユダ族は山地やネゲブや低地に住んでいるカナン人と戦うために下って行った。ユダはヘブロンに住んでいるカナン人を攻めた。ヘブロンの名は以前はキルヤテ・アルバであった。彼らはシェシャイとアヒマンとタルマイを打ち破った。ユダはそこから進んでデビルの住民を攻めた。デビルの名は以前はキルヤテ・セフェルであった。そのときカレブは言った。『キルヤテ・セフェルを打って、これを取る者には、私の娘アクサを妻として与えよう。』ケナズの子で、カレブの弟オテニエルがそれを取ったので、カレブは娘アクサを彼に妻として与えた。彼女がとつぐとき、オテニエルは彼女をそそのかして、畑を父に求めることにした。彼女がろばから降りたので、カレブは彼女に、『何がほしいのか』と尋ねた。アクサは彼に言った。『どうか私に祝いの品を下さい。あなたはネゲブの地に私を送るのですから、水の泉を私に下さい。』そこでカレブは、上の泉と下の泉とを彼女に与えた。」
士師記1章8-15節
うまい話には裏がある、とよく言いますが、最近の闇バイト問題でそのあたりが顕著になってきましたね。まあ、当たり前と言えば当たり前。ただ、本当にうまい、よいものを与えてくださる方もいる、これを間違えてはいけませんね。何を求めるのか、神様を求めようではありませんか。神様がいつでも最善をあなたに備え、また導いてくださるから。
さて、これまで約束の地へとイスラエルの民を導いてきたリーダーヨシュアの死後の時代の話に今入っていますが、現実のところ相続地を完全にすべて手にしているわけではなく、戦いは続きます。↑の前、昨日の分かち合いでは、ユダ族とシメオン族が協力してアドニ・ベゼクに出会ったとき、彼と戦ってカナン人とペリジ人を打ったところを見ましたが、今回は同じユダ族のカレブ一族に焦点が当てられていきます。
これはヨシュア記の中で少しふれられた戦いになりますが、カレブ(犬という意味で、イスラエルでは当時けがれたものとされていた)は兄弟国エドム出身だったのですが、彼の先祖か誰かがイスラエルに来て、エジプトでの奴隷生活に苦しめられていました。しかし神様の憐れみのもと、出エジプトさせていただき、約束の地に一度は入れそうになった時があったのですが、その時一緒に偵察に行ったヨシュア以外の10人がせっかく神様が、彼らが恐れていた巨人から40日の偵察期間の間守られ、また養われていたのに、彼らが反対し、悪評を流し、結果、40年の荒野の放浪が続くことになるのでした。
カレブにとってはなんだそれ、と感じてもおかしくなく、道中自分の故国エドムがあるわけですから、彼らを見捨ててエドムに帰ることもしようと思えばできた、しかし彼はイスラエル、いや、神様を求めたのです。そしてイスラエルにとどまり、ついには約束の地に到着したのでした。そして神様から約束を受けたとおり、彼は自分の相続地の獲得に向かうのでした。
この時点で彼は80歳をゆうに超えていました。しかしカレブは自分は40年近く前の偵察時と比べても衰えていない、神様がいるから大丈夫、という確信のもと、戦いに出ます。巨人も残っていれば、城壁もある、それでも神様がいるから大丈夫、という確信があったのです。というよりも、神様を彼は何があっても求め続けるのでした。そして彼は神様の恵みの中ここまで生きてきたのです。年齢や出身がどこだから、とかは関係がなく、同じ神様につくられ、愛されたものとして、神様の愛を、恵みを求め続けたのでした。
あの時は大丈夫、今はダメ、ということはありません。神様はとこしえに変わらず愛され、導かれるのですから、私たちはその神様に信頼を置きたいものです。事実、カレブはアナク人の巨人3人を討ち取ります。そしてカレブ率いるユダ族は戦いを進めるのですが、この時カレブは「キルヤテ・セフェルを打って、これを取る者には、私の娘アクサを妻として与えよう。」と言います。ヨシュア記の時にも分かち合いましたが、まあ娘さんを妻として与えよう、というのは今の時代では考えられないことなのかもしれませんね。まあ戦国時代党だったら日本でもあったかもしれませんが。ただ、その後の様子を見る限り、双方同意していたのかもしれません。
そんな中、ケナズの子で、カレブの弟オテニエルがそれを取ったので、カレブは娘アクサを彼に妻として与えました。彼女がとつぐとき、オテニエルは彼女をそそのかして(とありますが、そそのかすという訳し方をしているものは新改訳くらいで、新共同訳ですと「彼女は来て、父から畑をもらうようにオテニエルに勧めた」となっています)、畑を父に求めることにしました。彼女がろばから降りたので、カレブは彼女に、「何がほしいのか」と尋ねると、アクサはカレブに「どうか私に祝いの品を下さい。あなたはネゲブの地に私を送るのですから、水の泉を私に下さい」と、求め、カレブは、上の泉と下の泉とを彼女に与えるのでした。
彼女が求めたのは、富や名声、出世などではなかったのです。確かに彼らの相続地は荒野、砂漠に近いものがありますし、泉はなくてはならない欠かせないものです。しかし同時に必ずしもそれらが満たされるとは限りません。しかし、アクサが2つ求めたのではなく、カレブが与えたのです。ここに彼らの信仰がありました。アクサはもしかしたら物理・気象的にいつも泉が満たされるとは限らない、しかし、ここまで守られてきた神様が共にいるならすべては満たされる、と信じたのではないでしょうか。そして夫婦で神様に信頼し歩もう、と。カレブも泉よりも財産、ではなく、神様が必ず満たしてくださる、時に枯れるときがあっても魂の泉を満たす神様がいるんだ、と2つ与えたのではないか、と改めてこの箇所を読み返すと思います。
そういえば、後の時代の話になりますが、古代イスラエル王国3代目の王ソロモンが王となった時、神様は彼が求めるものを何でも与えるよ、と語られた時、ソロモンは「あなたは、あなたのしもべ、私の父ダビデに大いなる恵みを施されました。それは、彼が誠実と正義と真心とをもって、あなたの御前を歩んだからです。あなたは、この大いなる恵みを彼のために取っておき、きょう、その王座に着く子を彼にお与えになりました。わが神、主よ。今、あなたは私の父ダビデに代わって、このしもべを王とされました。しかし、私は小さい子どもで、出入りするすべを知りません。そのうえ、しもべは、あなたの選んだあなたの民の中におります。しかも、彼らはあまりにも多くて、数えることも調べることもできないほど、おびただしい民です。善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべに与えてください。さもなければ、だれに、このおびただしいあなたの民をさばくことができるでしょうか」と答えました。富や名声ではなく、神様が彼の内に働かれること、本当の知恵なる神様、神様を求めることができるように、と。
結果、これは神様の御心にかなった願いであり、その知恵だけではなく、神様は「あなたがこのことを求め、自分のために長寿を求めず、自分のために富を求めず、あなたの敵のいのちをも求めず、むしろ、自分のために正しい訴えを聞き分ける判断力を求めたので、今、わたしはあなたの言ったとおりにする。見よ。わたしはあなたに知恵の心と判断する心とを与える。あなたの先に、あなたのような者はなかった。また、あなたのあとに、あなたのような者も起こらない。そのうえ、あなたの願わなかったもの、富と誉れとをあなたに与える。あなたの生きているかぎり、王たちの中であなたに並ぶ者はひとりもないであろう。また、あなたの父ダビデが歩んだように、あなたもわたしのおきてと命令を守って、わたしの道を歩むなら、あなたの日を長くしよう」と、神様に信頼し従い歩む中にあって神様がすべてを満たしてくださる、と約束されたのです。
事実彼の名声は諸外国にまで及ぶほどでした。そしてソロモンと外交関係を結びたいという国々が多く出てきました。ただ、それがのちに罠となり、ソロモンは神様から離れていくことになり、王国の分裂を引き起こすきっかけとなったのですが。
私たちの魂、泉、いのちを満たすのは私たちの努力によらず、神様が満たしてくださる、だから私たちはこの神様に信頼し続けようではありませんか。アクサが神様を求め、期待したように。イエス様も、「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります」と仰られましたね。
どんな苦境に立たされようと、何もない荒野、砂漠のような中を歩もうとも、神様はあなたの必要、思いを一切ご存じで、あなたの必要に答えてくださる、だから神様を求めようではありませんか。神様が、私たちの心配を超えた十分な恵みを一日一日、いや一瞬一瞬のうちに現わしてくださるから。
何よりすべてに勝る、イエス様の命が私たちにあの十字架と復活をもって与えられたのです。イエス様の十字架の前に悔い改め立ち返るすべての人に。まずイエス様が備えてくださった、私たちの救いの道を。そして、まず身代わりに罰せられ、すべてを変えてくださったのです。
この命がけの愛を持ってまで注がれた愛、イエス様がくださる恵みの内に何の欠けがあるでしょうか。私たちは、このイエス様が、どんな困難な戦い、場面にあっても共に進まれ、勝ち取らせてくださることを信じ、主と共に歩ませていただこうではありませんか。いつも神様の御心、御子イエス様の命をもってまで注がれるこの愛を受け、歩ませていただこうではありませんか。