「これらのことの後、主のしもべ、ヌンの子ヨシュアは百十歳で死んだ。人々は彼を、エフライムの山地、ガアシュ山の北にある彼の相続の地境ティムナテ・セラフに葬った。イスラエルは、ヨシュアの生きている間、また、ヨシュアのあとまで生き残って、主がイスラエルに行なわれたすべてのわざを知っていた長老たちの生きている間、主に仕えていた。イスラエル人がエジプトから携え上ったヨセフの骨は、シェケムの地に、すなわちヤコブが百ケシタでシェケムの父ハモルの子らから買い取った野の一画に、葬った。そのとき、そこはヨセフ族の相続地となっていた。アロンの子エルアザルは死んだ。人々は彼を、彼の子ピネハスに与えられていたエフライムの山地にあるギブアに葬った。」
ヨシュア記24章29-33節
人の手ではどうにもすることができないものが命。誕生においても、そのプロセスを考えれば「命・魂」というものは人が作り出すことはできません。生きている間も、途中ドクターがいようともどうにもならないこともあります。しかし、神様はあなたの生まれる前から誕生、そして死、で終わらず、そののちまであなたを導かれる。神様の御傍に住まわせてくださる、そのために、イエス様はあなたの罪を背負われ、私たちの罪を取り除こうとされたのですから。私たちは丸ごと愛してくださっている神様からいつもは慣れることなく歩ませていただこうではありませんか。イエス様はあなたを見捨てなかった、あなたは今日イエス様とどう歩みたいですか。
さて、ヨシュアをリーダーとしてイスラエルの民も約束の地に入り、戦いをある程度終え、約束の地の分配を終えた後、ヨシュアの最後の告別メッセ―ジが語られました。神様は昔から今に至るまで変わらず愛し、導いてきてくださった、それをあなたがたは見た、ヨシュアは神様なしでは今はないことを知っているから、これからも彼と彼の家族は神様に頼ることを宣言し、あなたはどうしますか?と問いかけられ、告別メッセ―ジは終わり、神様のすばらしさを忘れない石が置かれました。そして今ヨシュアは110歳を迎え↑、天に召されるのでした。
ヨシュアは「主のしもべ」と呼ばれました。召使いではありませんよ?彼は40年以上も前、本当は約束の地にはいれるはずだった、偵察に行ったときに、絶対に勝ち取れるとカレブと共に告白し、さあ行こうじゃないか、といったのですが、同じ恵みを見たはずの他の10人の偵察隊が悪評を流し、ついに廃止を彼らに投げつけ殺そうとまでして、結局彼とカレブ以外の当時20歳以上であった戦える者たちは約束の地に入ることは赦されなかったのです。その時彼とカレブはやってられない、と民を捨てて、モーセと一緒に旅をするのではなく、最後まで神様に信頼し歩み、約束の地についても神様に従う道を最後まで望んだのでした。
告別説教の時も、もう自分の死期が近いとわかっていても「私と私の家族は主に仕える」と、最後の最後まで神様の恵みを求め続けるのでした。彼はモーセを通して神様は最後までその恵みを注がれていることを見ていました。だから、最後の最後まで神様の恵みを求める、と告白していたのでした。そして彼は神様によいしもべとして迎え入れられるのでした。
彼は彼の相続地、エフライムの山地、ガアシュ山の北にある彼の相続の地境ティムナテ・セラフに葬られました。相続地、この意味を覚えていますか?ただの遺産ではありません。神様が与えてくださる場所であり、神様の住まわれる場所。それすなわち彼はただ葬られて終わりなのではなく、神様の天の御住まいに戻った、死は死で終わりではなく、そののちに至るまで神様は彼を喜び迎え入れてくださったのです。
それでも死は悲しいではないか、と仰る方もいるかもしれません。それは悲しい、イエス様も、友ラザロが一度死んだときには涙を流された(罪のもたらす死への悲しみもあるでしょうが)のです。ただ、人はいつかは死を迎えます。しかし、イエス様の十字架の死と復活によって、イエス様の十字架の前に悔い改め立ち返るすべての人を死から引き上げてくださる。同じ復活の恵み、永遠の命が与えられる、それは死んでからではなく新しい命がもう始まっているのです。
生死について、一世紀の伝道者パウロは、何度も迫害を受け、牢に閉じ込められ、鞭うたれ、迫害され、殺されそうになっても「すなわち、どんな場合にも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにも死ぬにも私の身によって、キリストがあがめられることです。私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です」と手紙で書き送ります。
またイエス様の弟ヤコブ(イエス様は聖霊様によってマリヤの胎内に宿りましたが、ヤコブはヨセフとマリヤの間に生まれた子、そういう意味で同じ家族ですから弟)は「あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にすぎません。むしろ、あなたがたはこう言うべきです。『主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。』」と手紙で書き送っています。
神様は、私たちの内に御心を現したいと願っているのです。今日も明日も、これからも。あなたは神様の大切な作品、高価で尊く愛されている存在だと確信していますか。民は、「ヨシュアの生きている間、また、ヨシュアのあとまで生き残って、主がイスラエルに行なわれたすべてのわざを知っていた長老たちの生きている間、主に仕えていた」とありますが、この次の士師記から早速離れていく姿が出てきます。ヨシュアが生きている、誰かがいるから、誰かがこう言っているから従おう、ではなく、神様が生かしてくださっている、与えてくださっている一日一日を大切に私たちは生きたいものです。
これを読んでいるということは、これを読んでいる方はまだ生きていますね。感謝ですね。ならなおのこと、神様の恵みがあなたの内にあふれることを祈り求めませんか。これからもよろしくお願いします、と。
私たちは確かに御子イエス様の十字架の前に悔い改め立ち返るなら永遠の命を得、死して後天の御国に迎え入れられます。しかし同時に、ヨセフの遺骸・ミイラが「イスラエル人がエジプトから携え上ったヨセフの骨は、シェケムの地に、すなわちヤコブが百ケシタでシェケムの父ハモルの子らから買い取った野の一画に、葬った」とあるように彼の部族の内に葬られ、また大祭司「アロンの子エルアザルは死んだ。人々は彼を、彼の子ピネハスに与えられていたエフライムの山地にあるギブアに葬った」とあるように、また彼も相続地の内に葬られましたが、そこに天につながる希望があるのではないでしょうか。神様に迎え入れられる、神様が招かれた土地に葬られる、私たちはその時が来るまで、確かに神様の御恵みの中、死するその時まで神様の恵みの前味を味わわせていただいていたのです。最後の最後まで。
神様は私たちの生まれる前から、母の胎内で形作られ、守られ、養い、生まれさせてくださりました。なんと感謝な事でしょう。この神様の恵みは生まれたらもういきなり終わる、なんてありえない、お母さんのへその緒が、胎児とつながっているように、神様と私たちはイエス様の十字架の愛で切っても切れない豊かな関係に招かれているのです。今日はいい、今日は困ってるから助けて、ではなく、神様の尽きることのない愛、私たちのためになら、御子イエス様のいのちを惜しまず私たちに与えるため、十字架に御子イエス様をかけ、身代わりに罰し、死なせた、それほどまでに深い愛があなたの内に注がれているのです。それは昔の話ではなく、今も、これからも、天の御国に行くまで導かれるのです。イエス様が復活して終わりではなく、さらに天に昇り全農の父なる神様の右に座して。あなたの住む家も用意され、あなたを死して後のこの恵みにまで導かれる、今その途中に私たちはあるのです。
イエス様は十字架にかかられる前、「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。わたしの行く道はあなたがたも知っています」と約束されました。やせ我慢をしなさい、ということではないのです。ちなみにイエス様の言われた家は大豪邸を意味するほどの言葉なのですが、そこにあなたを招かれている。イエス様のいく道を知っている、もっと言えば私たちをイエス様が案内して、導いてくださる、この出エジプトから始まった旅の中で離れ、見捨てることなく導かれたイエス様が。私たちは今日も明日もこれからもイエス様にゆだね、イエス様の供えられた道を歩ませていただこうではありませんか。あなたのために命を惜しまなかったイエス様があなたを世の終わりまで一緒にいて導かれるから。