「『…今、あなたがたは主を恐れ、誠実と真実をもって主に仕えなさい。あなたがたの先祖たちが川の向こう、およびエジプトで仕えた神々を除き去り、主に仕えなさい。もしも主に仕えることがあなたがたの気に入らないなら、川の向こうにいたあなたがたの先祖たちが仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のエモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい。私と私の家とは、主に仕える。』すると、民は答えて言った。『私たちが主を捨てて、ほかの神々に仕えるなど、絶対にそんなことはありません。私たちの神、主は、私たちと私たちの先祖たちを、エジプトの地、奴隷の家から導き上られた方、私たちの目の前で、あの数々の大きなしるしを行ない、私たちの行くすべての道で、私たちの通ったすべての民の中で、私たちを守られた方だからです。主はまた、すべての民、この地に住んでいたエモリ人をも、私たちの前から追い払われました。私たちもまた、主に仕えます。主が私たちの神だからです。』すると、ヨシュアは民に言った。『あなたがたは主に仕えることはできないであろう。主は聖なる神であり、ねたむ神である。あなたがたのそむきも、罪も赦さないからである。もしあなたがたが主を捨てて、外国の神々に仕えるなら、あなたがたをしあわせにして後も、主はもう一度あなたがたにわざわいを下し、あなたがたを滅ぼし尽くす。』それで民はヨシュアに言った。『いいえ。私たちは主に仕えます。』それでヨシュアは民に言った。『あなたがたは、主を選んで、主に仕えるという、自分自身の証人である。』すると彼らは、『私たちは証人です』と言った。『今、あなたがたの中にある外国の神々を除き去り、イスラエルの神、主に心を傾けなさい。』民はヨシュアに言った。『私たちは私たちの神、主に仕え、主の御声に聞き従います。』それでヨシュアは、その日、民と契約を結び、シェケムで、おきてと定めを定めた。ヨシュアは、これらのことばを神の律法の書にしるし、大きな石を取って、主の聖所にある樫の木の下に、それを立てた。そして、ヨシュアはすべての民に言った。『見よ。この石は、私たちに証拠となる。この石は、主が私たちに語られたすべてのことばを聞いたからである。あなたがたが自分の神を否むことがないように、この石は、あなたがたに証拠となる。』こうしてヨシュアは、民をそれぞれ自分の相続地に送り出した。」
ヨシュア記24章14-28節
自分は絶対に大丈夫、という過信ほど怖いものはなく、その根拠があいまい、絶対ではないからです。内村鑑三さんという人は「信仰は自信にあらず。神を信ずることなり。世のいわゆる確信にあらず。神にたよることなり」と言っていましたが、結局のところ、なぜ大丈夫と言えるのか、それは神様がいる、というところにあります。もちろん自分の思うように進まない、結果にならないかもしれない、しかしそれでもあなたのために御子イエス様の命さえ惜しまない方が導かれる、計画されているその御心に信頼し、歩ませていただこうではありませんか。あなたは一人ではないのですから。
さて、↑はヨシュアが召天する前最後の告別メッセ―ジを神様に導かれて、語られていた、その続きになります。↑の前までは、これまでのイスラエルの歴史、そして出エジプトからこの荒野での旅路、さらに約束の地での戦いにあって神様が常に覚え、忘れず、養い、導かれてきたことを見ました。その上でヨシュアは民に「今、あなたがたは主を恐れ、誠実と真実をもって主に仕えなさい。あなたがたの先祖たちが川の向こう、およびエジプトで仕えた神々を除き去り、主に仕えなさい。もしも主に仕えることがあなたがたの気に入らないなら、川の向こうにいたあなたがたの先祖たちが仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のエモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい。私と私の家とは、主に仕える」と訴えます。あなたはどうしますか?と。
ヨシュアはもう老年、もうすぐ天に召される日も近づいている、でも神様の家族にとどまり続けること、その恵みをいつもどんな時でも求めたい、と告白するのですが、このヨシュアの招きに対して民は、「私たちが主を捨てて、ほかの神々に仕えるなど、絶対にそんなことはありません。私たちの神、主は、私たちと私たちの先祖たちを、エジプトの地、奴隷の家から導き上られた方、私たちの目の前で、あの数々の大きなしるしを行ない、私たちの行くすべての道で、私たちの通ったすべての民の中で、私たちを守られた方だからです。主はまた、すべての民、この地に住んでいたエモリ人をも、私たちの前から追い払われました。私たちもまた、主に仕えます。主が私たちの神だからです」と、絶対にない、と返答します。
ところが歴史を見ればわかる通り、イスラエルの民はやがて分裂し、離れていきますし、このヨシュア記の続きになる士師記ではついては離れ、離れては戻り、を繰り返すほどあいまいな態度をヨシュアの死後、すぐに態度を翻すほどです。彼らの告白は非常に立派なものが確かにありますが、神様に不可能なことはなくとも、人の絶対はあり得ないのです。神様が支え、助けてくださるからこそ、それは可能なのです。神様を向かずに神様を求めています、なんてどうしていえますか。実際に彼らは所有地で妥協を繰り返していきます。
ヨシュアは彼らの応答に対して「あなたがたは主に仕えることはできないであろう。主は聖なる神であり、ねたむ神である。あなたがたのそむきも、罪も赦さないからである。もしあなたがたが主を捨てて、外国の神々に仕えるなら、あなたがたをしあわせにして後も、主はもう一度あなたがたにわざわいを下し、あなたがたを滅ぼし尽くす」と答えます。
これだけを読むと、ヨシュアも随分失礼だな、もう少し信用できないのか、とある人は思うかもしれません。しかしヨシュアも人ですし、彼は、自分も自分の家族も神様に仕えると言いながらも、彼の出身部族エフライム族はやがて神様から離れて行ってしまいます。そう考えると、だれだれだから絶対大丈夫、あの時は大丈夫だったから今回も大丈夫、なのではなく、神様の御心を求める中で、神様の御心が現わされる。神様に頼る、信頼し委ねるからこそ、大丈夫なのです。たとえ自分の思う通りではなくともそれ以上の神様のベスト、御心を現してくださります。
よくヨシュアの告白を見ればわかりますが、自分は大丈夫、とは言っていません。彼は自分一人ではだめだからこそ、「主に仕える」と告白するのです。私は大丈夫だから、とは一言も言っていない。神様から離れてはどうにもならないことを知っている、だからこそ、神様を求める、神様に信頼し自信を、家族をゆだねる、というのです。
私たちが勘違いしてはいけないのは、自分は強いから神様などいなくても大丈夫、とか、神様をもう信じたから、別にもう一人で大丈夫、と変な過信を持つことです。しかし、枝が幹から離れたら落ち、実も結べないように、私たちは神様から離れては生きることはできませんし、そこに神様の命は、実は結ばれません。神様があなたに実を結ばせてくださるのです。
彼らは最終的に「見よ。この石は、私たちに証拠となる。この石は、主が私たちに語られたすべてのことばを聞いたからである。あなたがたが自分の神を否むことがないように、この石は、あなたがたに証拠となる」と石をたてますが、ただ象徴的にあるだけでは何の意味も成しません。むしろ神様が聞いてくださる、だから私たちはこの神様をいつも見、御言葉に聴き、祈り、いつも神様を求め続けようではありませんか。
何より、私たちと神様の関係を結ばれる証拠と、イエス様は私たちの重荷も患いも、何より罪も一切を私たちの身代わりに背負われ、十字架にかかられ、死なれたのです。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、罰せられて終わり、死は死で終わりなのではなく、むしろイエス様のこの十字架の前に悔い改め立ち返るすべての人の罪を赦し、神様の家族、子として迎えられるのです。
これほどまで愛されたイエス様があなたの内に注がれる御心、現わされるご計画をどうして疑うことができるでしょう。むしろ私たちはこの命をかけられてまで愛されたイエス様の十字架をただの象徴で終わらせることなく、イエス様の命をもってまで救われたこの喜びに生かされ歩もうではありませんか。また、私と私の家族とは、とヨシュアが告白するように、私たちは私たちの隣人のためにも祈り、神様の恵みが豊かに溢れ広がることを祈り求めたいものです。あなたは一人ではなく、主があなたと共に進まれるから。