思い込みと異訳と | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

私たちはどうしても自分勝手に本に書いてある事、

下手をすれば法律でも、解釈して乱用しようとします。

そこまでならふつうにあるところですが、

 

神様は私たちを愛し、その愛をもって私たちが死ぬことよりも生きることを願われた。だから御子イエス様の命さえ惜しまなかった、それほどまでの思いをもって愛を実行されてきた、今もされている、その記録が聖書です。

 

しかし…

異訳というおそろしいものがあるわけで…

以下、しろくま先生の解説です。

 

神は聖書の中で、「罪を悔い改めなさい」と言われたのに、現代の教会は、「そのままでいいんですよ」と訳している。

 

神は聖書の中で、「不義から離れよ」と命じておられるのに、現代の教会は、不義から離れるどころか、昔の仲間たちのもとに戻っていく。

 

神は聖書の中で、「聖なる者となりなさい」と言われたのに、現代の教会は、救われた後も、救われる前と罪の生活習慣は何ら変わっていないことに心を痛めることすらせず、むしろ、「もう救われたのだから、罪の古い習慣をそのまま楽しめ」と訳している。

 

神は聖書の中で、「キリストに似た者となりなさい」と言われたのに、現代の教会は、「クリスチャンは救われた後はもう何をしても自由なのです、あなたはありのままでいいのです」と教える。

 

神は聖書の中で、「互いに戒め合いなさい」と勧めているのに、現代の教会にいる人たちは罪や悪事を注意されると、「愛がない、さばいてはいけないと聖書に書いてあるのに、あの教会、あの牧師は人をさばいた」と言って非難する。

 

神は聖書の中で、「それは明確に罪である」と語っておられるのに、現代のクリスチャンは、「あの人はただ弱いだけなんですよ」と、罪の弁護人になっている。

 

一方は優しく見えて、もう一方は厳しく、律法的にさえ見えるかもしれない。しかし何が聖書の教えで、何がみこころなのかの基準は、常に聖書にある。大切なのは、いつも、「神は何と言っておられるのか?」 である。つまり、すべてのことは「聖書に帰れ」という一言に尽きる。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

さて、あなたにとって、神様は誰ですか?

あなたで、あなたの都合、時代に合わせて解釈を変えるのか、いや神様の存在そのものを自分勝手な存在に変えてしまうのか。

それとも神様こそ主と認め、神様の御心を求めるか…

あなたはどちらですか?