―こうして、の先におとずれるのは― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「こうして、ヨシュアはこの地のすべて、すなわち山地、ネゲブの全地域、ゴシェンの全土、低地、アラバ、およびイスラエルの山地と低地を取り、セイルへ上って行くハラク山から、ヘルモン山のふもとのレバノンの谷にあるバアル・ガドまでを取った。また、それらの王をことごとく捕らえて、彼らを打って、殺した。ヨシュアは、これらすべての王たちと長い間戦った。ギブオンの住民ヒビ人を除いては、イスラエル人と和を講じた町は一つもなかった。彼らは戦って、すべてのものを取った。彼らの心をかたくなにし、イスラエルを迎えて戦わせたのは、主から出たことであり、それは主が彼らを容赦なく聖絶するためであった。まさに、主がモーセに命じたとおりに彼らを一掃するためであった。そのとき、ヨシュアは行って、アナク人を、山地、ヘブロン、デビル、アナブ、ユダのすべての山地、イスラエルのすべての山地から断ち、彼らをその町々とともに聖絶した。それでイスラエル人の地には、アナク人がいなくなった。ただガザ、ガテ、アシュドデにわずかの者が残っていた。こうしてヨシュアは、その地をことごとく取った。すべて主がモーセに告げたとおりであった。ヨシュアはこの地を、イスラエルの部族の割り当てにしたがって、相続地としてイスラエルに分け与えた。その地に戦争はやんだ。」

ヨシュア記11章16⁻23節

 

世の中、いつこの問題は終わるんだろう、いやそもそもおわるのだろうか、と思うようなことがたくさんあります。そして疲弊するわけです。病気との闘い、人間関係の問題、さまざま。ただ、神様はあなたを決して忘れているわけではないのです。神様はどこに、どんな場面においてもあなたを導こうとされている。だから私たちはいつでも祈ろう。祈ってはいけないなんてことはないんです。神様に祈ることを躊躇してはいけない。神様も躊躇なくあなたにこたえてくださるから。

 

さて、↑はヨシュアたちが約束の地に入り、多くの戦いが終わり、最終局面を迎えた場面になります。ヨシュアたちは昨日の分かち合いでも見ましたが、戦力となる戦車や馬などをもっていません。頼るところは、言葉が悪いかもしれませんが神様だけです。しかし神様に頼ることは弱い人がすることではなく、本来私たちは神様に祈る、頼ることが許されている存在、何の問題も、恥じる必要もありません。神様はあなたのために最善をもって答えてくださるでしょう。私たちが思うことをはるかに超えた答えをもって。

 

ここまでの戦いで神様はそれをまさに示してくださりましたね。人となって生まれる前・受肉前のイエス様が主の軍の将として来られ、一緒に戦い進まれました。難攻不落の城壁の町、エリコを、ただ契約の箱とともに1日1周、7日目に7周回り、最後にときの声をあげたら、城壁は崩れ落ち、一気に勝利を治めました。また、今イスラエルに対峙している連合国も強国と認めていたアイも一度はイスラエルの不信仰によって敗退するも、神様ご自身が戦い方を指南し、また彼らを強め、勝利を治めさせてくださりました。

 

また、神様を求めに来たギブオン人を助けるための戦いでは、日を止めたり、自然界の雨や雹といった奇蹟をもって神様は勝利させてくださりました。いずれの戦いにおいても神様が彼らを渡している、と神様の御手のうちにすべてがあり、神様がすべての戦いにおいて共にいてくださった、共に戦ってくださったのです。

 

ということで、連合軍との戦いも最終局面を迎え、「ヨシュアはこの地のすべて、すなわち山地、ネゲブの全地域、ゴシェンの全土、低地、アラバ、およびイスラエルの山地と低地を取り、セイルへ上って行くハラク山から、ヘルモン山のふもとのレバノンの谷にあるバアル・ガドまでを取った。また、それらの王をことごとく捕らえて、彼らを打って、殺した。ヨシュアは、これらすべての王たちと長い間戦った。ギブオンの住民ヒビ人を除いては、イスラエル人と和を講じた町は一つもなかった。彼らは戦って、すべてのものを取った。彼らの心をかたくなにし、イスラエルを迎えて戦わせたのは、主から出たことであり、それは主が彼らを容赦なく聖絶するためであった。まさに、主がモーセに命じたとおりに彼らを一掃する」のでした。

 

この記録を見ていますと、戦った、勝ち取った場所を一色たんにまとめて、すべてに勝利を治めた、で終わらせずに、その名前一つ一つを残していますね。12章では王たちの名前も列挙されるのですが、自分たちだけで勝利を治めた、と感じているなら自分たちで勝利を治めた、というでしょうが、「彼らの心をかたくなにし、イスラエルを迎えて戦わせたのは、主から出たこと」と言っているのは、まさに神様が一緒に戦ってくださった、その喜び、感謝の一つ一つがここに表れているのではないでしょうか。

 

それでも「かたくなにされた」、とそこまで縛り付けることはないのでは?という人もいるかもしれません。しかし、出エジプトの際にファラオの心をかたくなにした、という時に分かち合いましたが、それは正確にはそのままにされた、ということです。これらの土地の王たちも含めて、荒野での、エリコでも、アイでのイスラエルの上に神様が働かれている話は、遊女ラハブでさえ知っていたし、彼らを民が恐れていた、ということからも十分情報はしっていたはず、ギルガルの民でさえ、直前に迫るイスラエルの民に立ち返るチャンスが同等にあった、にもかかわらず、彼らはそんなの関係ない、と立ち返るチャンスを不意にするのでした。

 

↑で「ギブオンの住民ヒビ人を除いては、イスラエル人と和を講じた町は一つもなかった」とありますが、それは、和を講じ「てくれなかった」のではなく、和を「講じようと努めなかった」ということです。ギブオンは変装をし、偽ってでも、神様の元に帰りたい、と命を求めた。長いものに巻かれろ、と連合軍と組することなく、またそれなりの地理状況、勇士が多かった、それでも神様がいなければ何の意味もない、と神様に立ち返った彼らは和を講じた、講じてもらったのです。そんな変装をしてまで加わろうとした彼らであっても。

 

「この地のすべて、すなわち山地、ネゲブの全地域、ゴシェンの全土、低地、アラバ、およびイスラエルの山地と低地を取り、セイルへ上って行くハラク山から、ヘルモン山のふもとのレバノンの谷にあるバアル・ガドまでを取った。また、それらの王をことごとく捕らえて、彼らを打って、殺した」、これだけを見ていると、少々厳しいものがあるように見えます。しかし、同時にこれらは様々な暗闇に包まれてしまっていたところ、そこを解放する機会にも彼らにはなっていたのです。そしてギブオン人はこれを得た。そしてやがてイスラエルの民に加わり、かえってイスラエルの民を助けるものさえのちに出てくるほどです。

 

本当に神様が打ちたかったのは彼らの闇の部分。そこに光を照らしたかったのです。神様の愛の本質は変わりません。願わくばすべての人が神様に立ち返り命を得ることです。そして神様の命が満ち満ちること。イエス様の12弟子のひとり、ヨハネは「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」と福音書に書き残します。

 

ヨハネが福音書をまとめたのは、彼が老年になってからです。イエス様の十字架後、多くの迫害を受け、同時にイエス様に立ち返る人、ことにイエス様を迫害し、イエス様を信じる人を殺す散弾を立て、迫害していたパウロという人が悔い改め、用いられていった姿も見ている、イエス様はそんな彼をも悔い改めに導かれ、また呪いをかけてまでイエス様を否定したペテロを見ながら、そのペテロを復活のイエス様は悔い改めに導いたことも目撃しています。

 

↑の一番最後に一言、「その地に戦争はやんだ」とありますが、神様は、私たちの内にある様々な戦い、闇を光で照らし、命で満たしたい、そのために、私たちの罪に終止符を打つべく、御子イエス様に私たちの罪を身代わりに背負わせ、十字架にかけ、死なせたのです。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の前に悔い改め立ち返るすべての人と和を講じるといいますか、罪を赦し、神様の子として迎え入れてくださるのです。

 

神様と私たちが争って何になりますか。むしろ私たちをもう一度取り戻すためなら御子イエス様の命さえ惜しまなかった神様に私たちは委ねましょう、立ち返りましょう。神様は喜んであなたを迎え入れてくださるから、あなたをイエス様の愛で、命で満たし、新しいあなたとしてくださるから。私たちは日々あなたを覚える神様に日々祈り、平定、神様の御心が鳴ることを日々祈ろうではありませんか、神様の平和があふれることを。