「さて、ヨルダン川のこちら側の山地、低地、およびレバノンの前の大海の全沿岸のヘテ人、エモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の王たちはみな、これを聞き、相集まり、一つになってヨシュアおよびイスラエルと戦おうとした。しかし、ギブオンの住民たちは、ヨシュアがエリコとアイに対して行なったことを聞いて、彼らもまた計略をめぐらし、変装を企てた。彼らは古びた袋と古びて破れたのに継ぎを当てたぶどう酒の皮袋とを、ろばに負わせ、繕った古いはきものを足にはき、古びた着物を身に着けた。彼らの食料のパンは、みなかわいて、ぼろぼろになっていた。こうして、彼らはギルガルの陣営のヨシュアのところに来て、彼とイスラエルの人々に言った。『私たちは遠い国からまいりました。ですから、今、私たちと盟約を結んでください。』イスラエルの人々は、そのヒビ人たちに言った。『たぶんあなたがたは私たちの中に住んでいるのだろう。どうして私たちがあなたがたと盟約を結ぶことができようか。』すると、彼らはヨシュアに言った。『私たちはあなたのしもべです。」しかしヨシュアは彼らに言った。『あなたがたはだれだ。どこから来たのか。』彼らは言った『しもべどもは、あなたの神、主の名を聞いて、非常に遠い国からまいりました。私たちは主のうわさ、および主がエジプトで行なわれたすべての事、主がヨルダン川の向こう側のエモリ人のふたりの王、ヘシュボンの王シホン、およびアシュタロテにいたバシャンの王オグになさったすべての事を聞いたからです。それで、私たちの長老たちや、私たちの国の住民はみな、私たちに言いました。【あなたがたは、旅のための食料を手に持って、彼らに会いに出かけよ。そして彼らに、私たちはあなたがたのしもべです。それで、今、私たちと盟約を結んでくださいと言え。】この私たちのパンは、私たちがあなたがたのところに来ようとして出た日に、それぞれの家から、まだあたたかなのを、食料として準備したのですが、今はもう、ご覧のとおり、かわいて、ぼろぼろになってしまいました。また、ぶどう酒を満たしたこれらの皮袋も、新しかったのですが、ご覧のとおり、破れてしまいました。私たちのこの着物も、はきものも、非常に長い旅のために、古びてしまいました。』そこで人々は、彼らの食料のいくらかを取ったが、主の指示をあおがなかった。ヨシュアが彼らと和を講じ、彼らを生かしてやるとの盟約を結んだとき、会衆の上に立つ族長たちは、彼らに誓った。彼らと盟約を結んで後三日たったとき、人々は、彼らが近くの者たちで、自分たちの中に住んでいるということを聞いた。」
ヨシュア記9章1-16節
契約を守る、もっとシンプルに約束を守るということはとても重要なことです。それゆえによく精査しなければいけないでしょう。何でもかんでもホイホイ契約を結べば、あとで痛い目に合うかもしれない。ただ、同時に人の結ぶ契約はもろさもあります。しかし神様は私たちが生きる事を願い、愛を注がれます。そのためなら御子イエス様の命さえ惜しまず与えてくださるほどに。私たちに恩目を注がれる神様に私たちも心の目を向け、信頼し、ともに歩ませていただきたいものです。
さて、ヨシュア達は約束の地に入り、いろいろありながらも、神様の導きのもと、エリコの町、アイの町に勝利させていただきました。まさに普通に考えたらあり得ない、神様が共に進まれ、戦い、具体的にその方法を導きながら進まれた中に得「させていただいた」勝利でした。そう、神様はいつでも本当の恵みを用意してくださっている。これを得に行くかどうかは私たちの問題なのです。そして↑はその続きになるのですが、ここで解釈・判断の分かれることがおこります。
ということで↑に話を進め、ヨシュア達の勝利の裏で、「ヨルダン川のこちら側の山地、低地、およびレバノンの前の大海の全沿岸のヘテ人、エモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の王たちはみな、これを聞き、相集まり、一つになってヨシュアおよびイスラエルと戦おうとし」ていました。私たちは知らないところで時に何か思いもしないことが起こっているときもあります。特に終わりの時には偽キリスト・反キリストが結託して立ち上がってきます。しかし、そのような状況下であっても、終わりの時も今も含めそうですが、神様は私たちが把握していない状況をすべて把握しています。だからこそ、私たちはこの方に祈り、また委ねたいものです。まだ見ぬ未来に不安がり続けるよりも、それを知り、なお導かれる神様はあなたと共に進まれるのですから。
この連合軍との戦いの話は続きの箇所になりますが、その中で、「ギブオンの住民たちは、ヨシュアがエリコとアイに対して行なったことを聞いて、彼らもまた計略をめぐらし、変装を企てた。彼らは古びた袋と古びて破れたのに継ぎを当てたぶどう酒の皮袋とを、ろばに負わせ、繕った古いはきものを足にはき、古びた着物を身に着けた。彼らの食料のパンは、みなかわいて、ぼろぼろになっていた。こうして、彼らはギルガルの陣営のヨシュアのところに来て、彼とイスラエルの人々に言った。『私たちは遠い国からまいりました。ですから、今、私たちと盟約を結んでください。』」という出来事が起こります。
しかし、ヨシュア達は祈らず、彼らが何者なのか聞き取り調査をある程度したものの、結果彼らと盟約を結ぶことになります。実は、それが解釈の分かれるところで、そういう羊の皮をかぶったオオカミの様に潜入してくる敵もいるから気をつけましょう、という人もいるし、盟約を結べるのは約束の地を獲得してから、とモーセが言っているじゃないか、と。アイの町では祈らず出発して痛い目にあったばかり、祈らないで結んだヨシュア達に問題がある、という人もいます。
ただ、この彼らが結ぼうと望んでいる盟約は「神様と人、人と人」の間で結ばれることを意味する盟約です。ですから彼らの心の動機を神様ははっきりと見ています。彼らの動機は、このままでは自分たちは滅びるから、強いものに待枯れろ、と連合軍に加わるのではなく、「しもべどもは、あなたの神、主の名を聞いて、非常に遠い国からまいりました。私たちは主のうわさ、および主がエジプトで行なわれたすべての事、主がヨルダン川の向こう側のエモリ人のふたりの王、ヘシュボンの王シホン、およびアシュタロテにいたバシャンの王オグになさったすべての事を聞いたからです。それで、私たちの長老たちや、私たちの国の住民はみな、私たちに言いました。【あなたがたは、旅のための食料を手に持って、彼らに会いに出かけよ。そして彼らに、私たちはあなたがたのしもべです。それで、今、私たちと盟約を結んでくださいと言え。】この私たちのパンは、私たちがあなたがたのところに来ようとして出た日に、それぞれの家から、まだあたたかなのを、食料として準備したのですが、今はもう、ご覧のとおり、かわいて、ぼろぼろになってしまいました。また、ぶどう酒を満たしたこれらの皮袋も、新しかったのですが、ご覧のとおり、破れてしまいました。私たちのこの着物も、はきものも、非常に長い旅のために、古びてしまいました」と彼らが言うように、と恥を忍んでぼろぼろの状態に変装してまでも、プライドをなげうってまで神様を求めに来たのです。ここにいのちがある、と。決してだまし討ちをしようとしたわけではありません。それはこの先の戦いの箇所でもわかるのですが裏切ることはなく、寝返ることもなく、最後まで神様を頼りに来ているのです。
確かにヨシュアが祈らず彼らと盟約を結んだ、というのは問題があるかもしれません。しかし、実はこのギブオン族が加わり、ここから第3世代が周辺国に苦しめられているとき、士師が立ち上がり、イスラエルを助けだすことになります(ギデオン)。それに実は、続きの箇所で彼らはモーセを通して神様が告げられていたように、「全会衆のために、たきぎを割る者、水を汲む者と」なります。これはだました罰として、召使とかそういうものになった、とかそういうことではなく、むしろ祭壇の奉仕、神様に仕える役割の一部を担わせていただける、神様の御そばにいさせていただける、神様に受け入れられたのです。
もちろん嘘はよくないかもしれません。ただ、私たちは自分のプライドを脱ぎ捨てて、偽りの衣を脱ぎ捨てて、神様に頼るということをしていますか?自分はこうだから、神様がこうするのは当たり前、とか自分を神様より上に置こうとしていませんか?
ヨシュア達は最終的には結果オーライ、という形になりましたが、祈り神様に求めることを怠った、ギブオン族とは対照的です、プライドを捨ててでも主こそ神様、この神様に身を委ねようと神様を求め続けた彼らと。むしろこの経験を通してヨシュア達は神様により頼む大切さをある意味では経験させていただき、この先の戦いを驚くべき形で勝利を治めていきます。それはその個所になったらまた分かち合いますが、神様は神様を求める人を拒みません。もし拒むのでしたら彼らのだまし討ちに対して「神様と人との間で結ばれる盟約」ですから、当然破棄してもおかしくはない、それでも彼らを招き入れてくださったのは、これまで見てきた遊女ラハブの件然り、まさに求めてきた彼らを受け入れたのです。
イエス様は神の御子であられるのにそのありようを捨てられないとは考えずに、人となってまで生まれてこられ、仕え、私たちを救うために私たちの間に住まわれました。私たちの重荷も痛みも、何より罪もすべて身代わりに背負われ、十字架に架られ、罰せられ、死なれたのです。しかし3日目によみがえられたことによって、このイエス様の救いを受け入れるすべての人の罪を赦し、神様の子として受け入れていただける、同じ復活の恵み、新しい命の衣を着せていただけるのです。
1世紀の伝道者パウロは「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです聖書はこう言っています。『彼に信頼する者は、失望させられることがない。』ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。『主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる』のです」と手紙で書き送ります。
私たちは神様を呼び求めさせいただこうではありませんか、どんな時であろうとも。時に長いものに巻かれたほうがいいと感じることがあるかもしれませんが、本当に長いのは、強いのは、永遠の神様、利用するだけ利用してぽいっと捨てるものではなく、あなたのためなら御子イエス様の命さえ惜しまず与えてくださった、そこまでしてあなたを憐れみ、恵みを注がれる、この神様のくださる命の内を歩ませていただこうではありませんか。そこには私たちでははかり知ることのできない大いなる神様のご計画が広がっているから。
