ー終わり良ければすべて良し、の先ー | 子育て休職中牧師の聖書のおはなし

子育て休職中牧師の聖書のおはなし

東京で牧師をしておりましたが、子育てのため一時的に北海道に移住しました。
「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と語られた神様からのラブレター・聖書から少しずつ分かち合わせていただきますね(*^_^*)

「モーセはモアブの草原からネボ山、エリコに向かい合わせのピスガの頂に登った。主は、彼に次の全地方を見せられた。ギルアデをダンまで、ナフタリの全土、エフライムとマナセの地、ユダの全土を西の海まで、ネゲブと低地、すなわち、なつめやしの町エリコの谷をツォアルまで。そして主は彼に仰せられた。『わたしが、アブラハム、イサク、ヤコブに、【あなたの子孫に与えよう】と言って誓った地はこれである。わたしはこれをあなたの目に見せたが、あなたはそこへ渡って行くことはできない。』こうして、主の命令によって、主のしもべモーセは、モアブの地のその所で死んだ。主は彼をベテ・ペオルの近くのモアブの地の谷に葬られたが、今日に至るまで、その墓を知った者はいない。モーセが死んだときは百二十歳であったが、彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった。イスラエル人はモアブの草原で、三十日間、モーセのために泣き悲しんだ。そしてモーセのために泣き悲しむ喪の期間は終わった。ヌンの子ヨシュアは、知恵の霊に満たされていた。モーセが彼の上に、かつて、その手を置いたからである。イスラエル人は彼に聞き従い、主がモーセに命じられたとおりに行なった。モーセのような預言者は、もう再びイスラエルには起こらなかった。彼を主は、顔と顔とを合わせて選び出された。それは主が彼をエジプトの地に遣わし、パロとそのすべての家臣たち、およびその全土に対して、あらゆるしるしと不思議を行なわせるためであり、また、モーセが、イスラエルのすべての人々の目の前で、力強い権威と、恐るべき威力とをことごとくふるうためであった。」

申命記34章1−12節

 

終わり良ければすべて良し、ということわざがありますよね。その意味は「最後のしめくくりが大切である」ということです。その人がどんな人かはその人の最後を見ればわかる、と言いますが、最後の最後まで何をするのか、何を残すのか、その辺が現れてくるのでしょうね。ただ、「終わりだけ良ければ、終わりだけなにかいいことをすれば」ということではないのです。神様が私たちを最善に養い導いてくださる。だから私たちは精一杯、神様の命の道を歩ませていただこう。神様があなたの日々を輝かせてくださるから。

 

さて、↑はいよいよモーセが死ぬ日のことです。ずっと神様に導かれ、これまでの出来事を振り返ってきたところを分かち合ってきたので忘れてしまうところですが、神様は彼を最後山に導くのです。そこで死ぬことになる、と。彼はエジプトから脱出する際のリーダーとして建てられ、様々な苦労を担ってきました。たくさんの思い煩いがあるでしょう。それなのに、彼はたった一つの失敗で約束の地に入ることはできませんでした。それは神様、酷いのでは?とおもいたくなるところですが、そうではないのです。彼の死は死で終わらないから。

 

まず神様は死の前に「モーセはモアブの草原からネボ山、エリコに向かい合わせのピスガの頂に登った。主は、彼に次の全地方を見せられた。ギルアデをダンまで、ナフタリの全土、エフライムとマナセの地、ユダの全土を西の海まで、ネゲブと低地、すなわち、なつめやしの町エリコの谷をツォアルまで」とあるように、彼に約束の地に入ることはできずとも、約束の地の全貌、かつてイスラエルの父祖、アブラハムに与えると約束されていた約束の地の全貌を神様は見せてくださりました。

 

その際、アブラハムに神様は、「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし人が地のちりを数えることができれば、あなたの子孫をも数えることができよう。立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから」と語っていました。

 

その約束されたちが今、そこに広がっている。見せて終わり、では蛇の生殺し?と思いたくなるかもしれません。しかし、神様は彼を最初から最後まで、いや死して後まで守られ導いてこられた、導かれるのです。

 

目に見える約束の地についたらゴール、ではない、神様の恵みはあるときだけではない、いつもいつも、生まれる前からあるのです。考えてみればモーセの誕生の際にも、当時のエジプトの王ファラオの暴虐によってナイル川に流され、沈ませるという事を命じていましたが、神様がモーセの両親に正しい心を与え、諦めるのではなく、自らの手で神様に委ね、ナイルに流し、神様は神様を恐れる王女のもとに導き、モーセの命は助かりました。彼女が自らの子とし、王宮で守り育て、また帝王学を学ばせながら、荒野の旅路への準備を神様はさせてくださったのでした。

 

また、虐げられているイスラエル人を守るため、一人のエジプト人を討ってしまいましたが、それでも何が正しいのか、判断する心を与え、また逃げた先でも守られ、羊飼いをすることで民を養う心を与えてくださった。また家族も与えられ、民を愛する心も与えられたのでした。

 

しかしそこで彼の人生が終わるのではなく、神様に出会い、神様と直接話をしながら、直接的に神様との関係の素晴らしさを体験し、出エジプト〜荒野の旅路においてもいつも神様ご自身が必要を満たし、時に軌跡を表してくださり、時に戦いに勝利させてくださり、時に助け手を送ってくださったこともありました。何より神様ご自身が彼、またイスラエルの民と同行してくださったのです。

 

たとえ約束の地に入れない、と言われても彼らを神様は見捨てることなく今日まで神様は彼を導いてくださっていたのです。ずっとずっと一緒だったのです。ちなみに、モーセの死についても実は↑には記されていない一つの問題があったのです。

 

イエス様の弟のユダ(イエス様は聖霊様によってマリヤの胎内に宿りましたが、ユダの場合はマリヤとヨセフの間に普通に生まれた子、イスカリオテのユダではないですよ?)の手紙には「御使いのかしらミカエルは、モーセのからだについて、悪魔と論じ、言い争ったとき、あえて相手をののしり、さばくようなことはせず、『主があなたを戒めてくださるように』と言いました」とあります。彼の死さえ悪魔は邪魔をしようとしました(彼は罪を犯して約束の地に入れないのだから、天国に行くことは赦されない的なことをしようとしたのでしょう)が天使ミカエルは直接、悪魔に罵ることをせず、主に裁きを任せ、神様は彼の埋葬をミカエルに任せた、つまり彼は死んで陰府にくだって終わり、ではなく神様のみもとに迎え入れてくださったのです。

 

約束の地、それは一時的な仮住まいにある意味で過ぎない、しかし、神様ご自身が彼と生涯ともにおられたのです。私達もいつも順風満帆な生涯、というわけには行かないでしょう。しかし、神様は順境なときも逆境なときも、神様は確かに共におられるのです。モーセと一緒に生涯おられたように、私たちとともにおられ、そのうちに見心を、ご計画を現してくださるのです。そしてモーセにイスラエルの民がこれから入っていく約束の地を見せたように、神様の御心、ご計画は広がっている、ここで終わらない、モーセが死んで終わりではない、その約束を見せたのではないでしょうか。

 

↑で「モーセが死んだときは百二十歳であったが、彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった」とありますが、神様がそうさせてくださった。おそらく120まで生きた人で、ないしそれに近い年令になってきてそこまで元気な方を余り見ることはないでしょう。私も職業上、それを見てきましたが、神様は私たちの人生に大きく関わり、守り導いてくださることをモーセの生涯を見ながら思いますね。以前に分かち合ったことがあったかもしれませんが、わたしが以前働いていた施設で、100を超えた利用者さんがいたのですが、記憶は曖昧になってきていましたが、神様の話をすると、思い出したかのように顔が明るくなったのを覚えています。そして私と会う度に笑顔になったのを覚えています。

 

モーセを失っても、神様は変わらない、ヨシュアにその霊を注ぎ、励まし立ち上がらせてくださった。なにかがあって、神様との関係が終わるのではないのです。モーセの死に対し、サタンがこれを妨害し、陰府にとどまらせようとしたことを、神様は良しとせず、確かに罪を犯した、しかし神様は彼を迎え入れた。私たちもそうです。私たちもいつか終わりの時がくるでしょう。しかし、私達はイエス様が私達の身代わりに十字架にかけられ、罰せられ、陰府にくだられ、3日目によみがえられたことによって、このイエス様の十字架の前に悔い改め立ち返るすべての人の罪を赦し、新しい命が与えられる、神様との永遠の時への旅路がその時から始まるのです。

 

ここまで神様は私たちを愛してくださった、くださっている、何という幸いでしょう。神様はあなたが生きることを何よりも願っておられる、モーセの死のように何かを失ったように感じるときであろうとも神様はともにおられ、励まし、力づけて立ち上がらせてくださる。神様はあなたをまるごと愛しておられるのです。あなたをイエス様のいのちをもってまで引き受けられた、この神様のご計画に、愛に信頼し、次の一歩へと踏み出して行かせていただこうではありませんか。この一歩一歩に神様の御心がなること、御国が広がっていくことを信じ期待して。