ー一人一人、計画を持っておられるー | 子育て休職中牧師の聖書のおはなし

子育て休職中牧師の聖書のおはなし

東京で牧師をしておりましたが、子育てのため一時的に北海道に移住しました。
「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と語られた神様からのラブレター・聖書から少しずつ分かち合わせていただきますね(*^_^*)

「これは神の人モーセが、その死を前にして、イスラエル人を祝福した祝福のことばである。彼は言った。『主はシナイから来られ、セイルから彼らを照らし、パランの山から光を放ち、メリバテ・カデシュから近づかれた。その右の手からは、彼らにいなずまがきらめいていた。まことに国々の民を愛する方、あなたの御手のうちに、すべての聖徒たちがいる。彼らはあなたの足もとに集められ、あなたの御告げを受ける。モーセは、みおしえを私たちに命じ、ヤコブの会衆の所有とした。民のかしらたちが、イスラエルの部族とともに集まったとき、主はエシュルンで王となられた。』『ルベンは生きて、死なないように。その人数は少なくても。』ユダについては、こう言った。『主よ。ユダの声を聞き、その民に、彼を連れ返してください。彼は自分の手で戦っています。あなたが彼を、敵から助けてください。』レビについて言った。『あなたのトンミムとウリムとを、あなたの聖徒のものとしてください。あなたはマサで、彼を試み、メリバの水のほとりで、彼と争われました。彼は、自分の父と母とについて、【私は、彼らを顧みない】と言いました。また彼は自分の兄弟をも認めず、その子どもをさえ無視し、ただ、あなたの仰せに従ってあなたの契約を守りました。彼らは、あなたの定めをヤコブに教え、あなたのみおしえをイスラエルに教えます。彼らはあなたの御前で、かおりの良い香をたき、全焼のささげ物を、あなたの祭壇にささげます。主よ。彼の資産を祝福し、その手のわざに恵みを施してください。彼の敵の腰を打ち、彼を憎む者たちが、二度と立てないようにしてください。』ベニヤミンについて言った。『主に愛されている者。彼は安らかに、主のそばに住まい、主はいつまでも彼をかばう。彼が主の肩の間に住むかのように。』ヨセフについて言った。『主の祝福が、彼の地にあるように。天の賜物の露、下に横たわる大いなる水の賜物、太陽がもたらす賜物、月が生み出す賜物、昔の山々からの最上のもの、太古の丘からの賜物、地とそれを満たすものの賜物、柴の中におられた方の恵み、これらがヨセフの頭の上にあり、その兄弟たちから選び出された者の頭の頂の上にあるように。彼の牛の初子には威厳があり、その角は野牛の角。これをもって地の果て果てまで、国々の民をことごとく突き倒して行く。このような者がエフライムに幾万、このような者がマナセに幾千もいる。』ゼブルンについて言った。『ゼブルンよ。喜べ。あなたは外に出て行って。イッサカルよ。あなたは天幕の中にいて。彼らは民を山に招き、そこで義のいけにえをささげよう。彼らが海の富と、砂に隠されている宝とを、吸い取るからである。』ガドについて言った。『ガドを大きくする方は、ほむべきかな。ガドは雌獅子のように伏し、腕や頭の頂をかき裂く。彼は自分のために最良の地を見つけた。そこには、指導者の分が割り当てられていたからだ。彼は民の先頭に立ち、主の正義と主の公正をイスラエルのために行なった。』ダンについて言った。『ダンは獅子の子、バシャンからおどり出る。』ナフタリについて言った。『ナフタリは恵みに満ち足り、主の祝福に満たされている。西と南を所有せよ。』アシェルについて言った。『アシェルは子らの中で、最も祝福されている。その兄弟たちに愛され、その足を、油の中に浸すようになれ。あなたのかんぬきが、鉄と青銅であり、あなたの力が、あなたの生きるかぎり続くように。』『エシュルンよ。神に並ぶ者はほかにない。神はあなたを助けるため天に乗り、威光のうちに雲に乗られる。昔よりの神は、住む家。永遠の腕が下に。あなたの前から敵を追い払い、【根絶やしにせよ】と命じた。こうして、イスラエルは安らかに住まい、ヤコブの泉は、穀物と新しいぶどう酒の地をひとりで占める。天もまた、露をしたたらす。しあわせなイスラエルよ。だれがあなたのようであろう。主に救われた民。主はあなたを助ける盾、あなたの勝利の剣。あなたの敵はあなたにへつらい、あなたは彼らの背を踏みつける。』」

申命記33章1−29節

 

人にはそれぞれの生き方があり、いろんな出会い、道を通り、経験をします。ある意味では人生選択の連続です。境遇もある意味では様々ですが、しかし神様は一人一人を愛し、良い計画をもっている、その神様に信頼するかどうか、委ねる時、どんな境遇にあっても神様にある喜び、命を得るのです。私たちはこの神様に委ね、歩みたいものです。真の命の道を。

 

さて、↑はいよいよモーセの死が近づいた中でのこと。神の人モーセは、その死を前にして、イスラエル人を「主はシナイから来られ、セイルから彼らを照らし、パランの山から光を放ち、メリバテ・カデシュから近づかれた。その右の手からは、彼らにいなずまがきらめいていた。まことに国々の民を愛する方、あなたの御手のうちに、すべての聖徒たちがいる。彼らはあなたの足もとに集められ、あなたの御告げを受ける。モーセは、みおしえを私たちに命じ、ヤコブの会衆の所有とした。民のかしらたちが、イスラエルの部族とともに集まったとき、主はエシュルンで王となられた」祝福します。

 

出エジプト記でも見ましたが、神様はただどこか通りところにいるのではなく、私たちに近づきまた共に歩んでくださって、光を照らしてきてくださった。彼らイスラエルの民の王として神様はすべ治める、どこかのおかしな政治家のようにではなく、正しく治めて下さる。それは、これまで見てきたように、これからも変わらないんだ、と神様から啓示を受け、モーセは彼らに語る、祝福します。この先モーセがいなくても、モーセは人、しかし神様が共におられる、離れず導いてくださることを宣言されたのです。彼らが離れることはあっても、神様はその御目を注がれる、その神様に委ねるかどうか、そこが大事なのです。私たちもですよ?私たちも様々な境遇の中に生きますが、それでも神様は変わらず愛してくださって、道を照らし、その手を取って導いてくださる。あなたはこの神様に信頼していますか?

 

さらに、モーセは12部族についても神様に導かれ預言していきます。正確には、イスラエルが増え広がるもととなったヤコブという人の子孫12人から派生した一族ですが。まず、ルベン、彼は長子でありながら近親相姦を犯し、本来の長子の権利を失いました。しかも父が妻を失って悲しみに暮れている中での出来事だからなおのことです。そんな中、父ヤコブは死の前に「あなたは、他をしのぐことはない」と宣言しました。そして事実小さな部族に留まりましたが、けれどもモーセは「死なないように」という祈りを捧げています。事実彼の部族は生き残ります。神様はそれでも彼の部族を覚えてくださっていた、小さいなら小さいなりに、その中にあっても神様の愛は変わらないのです。

 

次に、ユダ族の前に、本来シメオン族が出てこなければいけないはずなのですが、除外されています。神様は彼らを見捨てたのか?いえ、シメオン族はユダ族の割り当て地の中に住むことになり、そうして逆に神様は彼らを守ってくださっていたのです。事実、約束の地を獲得する際に、シメオン族のためにユダ族は一緒に戦いに出ます。吸収合併、というよりも一つの神様の家族の中にあって神様のご配慮があったことが見えますね。

 

次に祭司のレビ族ですが、祭司の装束の胸当ての中に、↑の預言にあるように、神様の御心を知るためのトンミムとウリムがあり、それが主の御心を聖徒たちに伝えるものとなるように祈っています。そしてモーセは、民が自分に対して水のことで争ってきたメリバのことを思い起こしています。さらにレビ人は、金の子牛の事件の時に悔い改めずに乱れている者たちを、聖絶したことを語り、曖昧ではなく、神様の御心を常に求め、それは大変でも、神様が助けてくださるよう祈るのです。私達はそれぞれの境遇、環境はあるでしょう。しかしあなたを強くしてくださる神様はあなたを忘れません。神様はあなたに、またあなたを通してその御心を、祝福を溢れ流れさせてくださるのです。

 

次にベニヤミン族・ベニヤミンはヤコブの息子の末弟、ヨセフの弟にあたります。彼の部族は約束の地に入ると大きな罪を犯し、一族追放、と言われてもおかしくない中、それでも神様は彼らを憐れんでくださいました(詳しくは士師記にて)。このベニヤミン族から初代王サウルが出たり、後にはパウロもこの部族出身になります。一方で悪王ヘロデ(自分の地位を守るため、2歳以下の赤ちゃんを虐殺した)はこの部族出身。せっかく「主に愛されている者。彼は安らかに、主のそばに住まい、主はいつまでも彼をかばう。彼が主の肩の間に住むかのように」と祝福されているのに、もったいない。どこに私達は心の拠り所、私達自身のよりど頃を置かせていただくか、それは私たちに問われる、また実が良くも悪くも結ばれ、刈り取りをすることが見えますね。

 

さらに、ヨセフ族、これはエフライム族とマナセ族にわかれますが、北イスラエルにおいて代表的な部族はエフライムになります。そしてマナセも祝福されますが、そこサマリヤの山地は天からの恵みによって農産物で豊かにされます。そして、彼らは軍事的にも強くなる、いえ強くしてくださる。ただその与えられた役割をどう用いるか、それがだいじですね。特にマナセは半分に分けられ、ヨルダン川東に残るルベン族たちをサポートします。それを彼らは嫌がらず、神様の御心を願い、その中で農産物など様々な形で祝福される、まだ見ぬ未来であっても、神様はたしかにそこにおられ、祝福をもって待っていることを覚えたいものです。

 

次にゼブルン族とイッサカル族について。彼らは下ガリラヤ地方にある部族になります。イズレエル平野がヨルダン川とカルメル山の間を通っており、その北にナザレの町などがあります。ヤコブの祝福の言葉でも、地中海からの貿易による富によって栄えることが預言されていました。どちらの部族も地中海に面していないのですが、そこに海洋からの富が流通してきたのではないかと考えられています。そしてその富が、義のいけにえをささげる、つまり主への礼拝のために用いられるようになる、とあまり目立たない部族であろうとも、神様の御手がともにあり、祝福がある、それをどう考え、受け取るか、神様の恵みは溢れ流れる、そこに本物の富があるのです。

 

まだ続きますが、ガド族は、ヨルダン川の東側、今、モーセたちが宿営しているところを所有することになっていきます。雌獅子のようになるとありますが、彼らは約束の地にいっしょに入っていき、雄々しく戦ってきたことがわかります。彼らの、私たちの足を、手を、私たち自身が弱く感じても強めてくださるのは神様なのです。

 

続けてダン族。彼らは地中海沿岸の一部が割り当てられますが、そこにペリシテ人がいるので、十分に住み着くことはできないと考え、他の場所を捜しました。それがバシャン地方に西にあるラキシュと呼ばれる所で、ヨルダン川の水源の一つにもなっている青々と茂ったところです。そこの住民を殺して自分たちの住むところとしました。少々残忍な麺が見えます。ただ、それがペリシテの驚異をイスラエルに広げる結果となってしまったことも見えますから、やはり神様が置かれた場所を守る、いや守って下さる神様に信頼することを覚えたいものです。本物の水源、命は神様から溢れ流れてくるのですから。

 

そしてナフタリ族は、ガリラヤ湖周辺の西と南を占めています。その恵みに満たされるようにという祈られ、アシェル族については油の中に足を浸すと。それは、そこの豊かさと潤いを表し、防衛力が強められることを語られます。私たちもそうですが、様々な脅威にさらされる日もあるでしょう。しかし、それでも神様が私達の盾となり、守られ、恵みに満たして下さる、戦い云々を超えて、神様が何をなさろうとしているのか、世の問題、周りの問題との戦いもあるでしょう、しかしその中にあっても神様に信頼したいものです。どんな巨人も神様の前にはなすすべを失う、あなたの盾、剣となり導いてくださる。御言葉の剣を私達は取り、信仰の大盾を取り神様とともに歩みたいものです。

 

最後に、モーセは「昔よりの神は、住む家。永遠の腕が下に」と語ります。この先のイスラエルの歴史では多くの戦い、苦難があります。しかし神様は私たちとともにす周り、また助けて下さる。その御腕が彼らを守って下さる、それは今だけではなくこれからも。

 

神様は御子イエス様のいのちをもってまで私たちを救い、神様の住まいに、家族に、子にあなたを招いてくださった。ここまで12部族への預言を見ましたが、それ以上に御子イエス様のいのちをもってまで取り戻された、十字架を持ってまで取り戻されたあなたの新しい命は神様の油、愛で満たされている、この恵みを覚え、信頼し、歩みたいものです。神様はあなたのうちに復活のイエス様を住まわせ、その御心を現してくださる、御国を広げてくださる、この神様に信頼し、歩もうではありませんか。