「兄弟がいっしょに住んでいて、そのうちのひとりが死に、彼に子がない場合、死んだ者の妻は、家族以外のよそ者にとついではならない。その夫の兄弟がその女のところに、入り、これをめとって妻とし、夫の兄弟としての義務を果たさなければならない。そして彼女が産む初めの男の子に、死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルから消し去られないようにしなければならない。しかし、もしその人が兄弟の、やもめになった妻をめとりたくない場合は、その兄弟のやもめになった妻は、町の門の長老たちのところに行って言わなければならない。『私の夫の兄弟は、自分の兄弟のためにその名をイスラエルのうちに残そうとはせず、夫の兄弟としての義務を私に果たそうとしません。』町の長老たちは彼を呼び寄せ、彼に告げなさい。もし、彼が、『私は彼女をめとりたくない』と言い張るなら、その兄弟のやもめになった妻は、長老たちの目の前で、彼に近寄り、彼の足からくつを脱がせ、彼の顔につばきして、彼に答えて言わなければならない。『兄弟の家を立てない男は、このようにされる。』彼の名は、イスラエルの中で、『くつを脱がされた者の家』と呼ばれる。ふたりの者が互いに相争っているとき、一方の者の妻が近づき、自分の夫を、打つ者の手から救おうとして、その手を伸ばし、相手の隠しどころをつかんだ場合は、その女の手を切り落としなさい。容赦してはならない。」
申命記25章5-12節
日本ではよく「跡取りを残す」こと、それを親から言われ(私の場合は結婚前に両親が事故や病気で召天していましたし、孫の顔を見せられな飼ったのは少々残念なところがありますが)、特に奥さんが思い悩むケース、結婚生活に相当な傷を負わせることもあります。そもそも親の助けも必要ですが、私も偉そうなことは言えませんが、親によって家が成長するのではなく、夫婦が、家族が成長するのではなく、神様が中心にいるからこそ、その家は成長していくのです。いや、与えられたこの命、神様にその足を委ね、導いていただこう、命をかけてまで愛されたイエス様のゆえに与えられる真の命の日々を。
さて、↑は約束の地を目の前にモーセが死ぬ、その前に最後に神様はモーセに、第2世代にも神様が命じられたことをことごとく語るように命じられ、今2番目の説教に5章から入っています。↑は家族の名を残す(日本で言えば跡取り・家系を守る)、日本でも嫂婚(そうこん)と呼ばれる似た考えがある、ちょっと現代を生きる人にはそれってどうなの?と思われるかもしれない律法になります。
序論でも跡取り問題を挙げましたが、他にも現在、諸事情で子供が与えられないご夫婦もいます。ではそれは罪なのか?と突っ込まれるかもしれませんが、そうではありません、ということは先に申し上げさせていただきますね。誤解のあるまま進むのも申し訳ないので。私の知り合いでもお子さんが与えられていない素敵なご夫妻もいますし、養子縁組、という形を取ったご夫妻もいます。また私達夫婦も6年目でようやく与えられた、という感謝なこともありました。
「跡取り」もたしかに大切にされることもわからないこともないのですが、主眼がそこにあったら、純血性を求めたら、おかしな方向に走りますよね、某国の王族と結婚された方の肌の色を見て、うちの子供は何色になるの?なんてふざけた発言をされ傷ついた、というケースもありましたが、それってどうなんでしょう。せっかく神様が出会わせてくださった最高の相手なのに。
そう、肝心なのは跡取り、家の名前を残す、ということ以上に、「神様」の家族につながる、神様に繋がっていること、これこそが実は大事なのです。家が、自分の人生という家も含め、世の中に振り回されてはいけませんし、それによって建てあげられるのはおかしな話で、古代イスラエル王国3代目の王、ソロモンは「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。見よ。子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である。若い時の子らはまさに勇士の手にある矢のようだ。幸いなことよ。矢筒をその矢で満たしている人は。彼らは、門で敵と語る時にも、恥を見ることがない」と詩に残しました。
神様があなたの人生をたてあげてくださるから、そこに結ばれる、生きる私たちは喜びに満ち、幸を見させていただける、神様のくださる実を味わわせていただけるのです。子供がいるから祝福されている、いない、ではなく、神様が祝福してくださる、神様に繋がっている神様の家族とされている人は祝福されているのです。
じゃあなぜ神様は「兄弟がいっしょに住んでいて、そのうちのひとりが死に、彼に子がない場合、死んだ者の妻は、家族以外のよそ者にとついではならない。その夫の兄弟がその女のところに、入り、これをめとって妻とし、夫の兄弟としての義務を果たさなければならない。そして彼女が産む初めの男の子に、死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルから消し去られないようにしなければならない。しかし、もしその人が兄弟の、やもめになった妻をめとりたくない場合は、その兄弟のやもめになった妻は、町の門の長老たちのところに行って言わなければならない…」という律法を定められているのか。時代遅れなのか?いえ、諸事情で子供が与えられていないクリスチャンご夫妻を私は知っていますが、養子縁組をされたり、また2人で神様に向き合っている素晴らしいご夫妻も知っています。そこが問題なのではないのです。
少し時代が進んだときに正にこのようなケースが出てくるのですが、ナオミというイスラエル人の女性が男の子二人の子供が与えられるも、ご主人も、子供も死んでしまいます。異国の地から、お嫁さんのルツさんと一緒に帰ってきた時、ナオミさんのご主人の親族が二人いました。ボアズという人ともうひとり。もうひとりのほうがご主人と血縁関係が近かったために、まずその人がこの律法に従い、自分の名前が残るのではなく、ルツさんと結婚できても、土地も買い、かつ自分の名前が残せないと聞くと、その権利をボアズに「靴を脱いで渡し」て譲渡し、二人目のボアズは受け入れ、結婚。結果、彼の子孫からダビデ王、後にはそのさらに子孫からイエス様の子供の頃最も身近なところで生活することができるマリヤが誕生します。
見えてきたでしょうかね。神様が、繋がっているんです、家族に。神様がたてあげてくださるのです。もっというなら、神様が覚えていてくださっているのです。見捨てることはないのです。だから私たちは夫婦、家族も含め、みな神様を仰ぎ見る、その中で私たちは神様の栄光、素晴らしさ、御業を見させていただける、体験させていただけるのです。神様がくださった実、賜物。
実は復活を信じないある宗教家がイエス様にこの律法をもって罠にかけようとしたことがありました。その時イエス様は「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです。復活の時には、人はめとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです」と答えられました。もちろん子供がいること、それはそれで素晴らしい、でも、私たちが求めるのは神様の力なのです。そして、何より、復活のときにはめとることはない、もっというなら、神様の家族として私たちは招き入れられる、花嫁として迎え入れていただける、その道中に今私たちはあるのです。
地上は一時、しかしだからこそ神様の与えてくださったこの命、家族、子供、大切にしたいものです。神様は、私たちの繋がっている様々な悩み苦しみ、何より罪による報酬・死を代わりに買い取られ、私たちの身代わりに十字架にかかられ、死なれた、ありえない愛を表してまで、あなたを救い、神様の家族として迎え入れようと、イエス様の花嫁として迎え入れようとなされたのです。イエス様の復活によって、このイエス様の十字架の前に悔い改め立ち返るすべての人は神様のくださる新しい命、永遠の恵みに、招かれるのです。その特権が与えられ、天にあなたの名前が忘れられないよう刻まれるのです。
↑の律法を定められた神様はあなたを拒否しないため、命までかけて愛された、このイエス様にあって築かれる命、日々を喜び歩ませていただこうではありませんか。今日も神様があなたを覚えて、養い導いてくださっているから。