ー変えられる・変えられたゆえにー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「こうがんのつぶれた者、陰茎を切り取られた者は、主の集会に加わってはならない。不倫の子は主の集会に加わってはならない。その十代目の子孫さえ、主の集会に加わることはできない。アモン人とモアブ人は主の集会に加わってはならない。その十代目の子孫さえ、決して、主の集会に、入ることはできない。これは、あなたがたがエジプトから出て来た道中で、彼らがパンと水とをもってあなたがたを迎えず、あなたをのろうために、アラム・ナハライムのペトルからベオルの子バラムを雇ったからである。しかし、あなたの神、主はバラムに耳を貸そうとはせず、かえってあなたの神、主は、あなたのために、のろいを祝福に変えられた。あなたの神、主は、あなたを愛しておられるからである。あなたは一生、彼らのために決して平安も、しあわせも求めてはならない。エドム人を忌みきらってはならない。あなたの親類だからである。エジプト人を忌みきらってはならない。あなたはその国で、在留異国人であったからである。彼らに生まれた子どもたちは、三代目には、主の集会に入ることができる。あなたが敵に対して出陣しているときには、すべての汚れたことから身を守らなければならない。もし、あなたのうちに、夜、精を漏らして、身を汚した者があれば、その者は陣営の外に出なければならない。陣営の中に入って来てはならない。夕暮れ近くになったら、水を浴び、日没後、陣営の中に戻ることができる。また、陣営の外に一つの場所を設け、そこへ出て行って用をたすようにしなければならない。武器とともに小さなくわを持ち、外でかがむときは、それで穴を掘り、用をたしてから、排泄物をおおわなければならない。あなたの神、主が、あなたを救い出し、敵をあなたに渡すために、あなたの陣営の中を歩まれるからである。あなたの陣営はきよい。主が、あなたの中で、醜いものを見て、あなたから離れ去ることのないようにしなければならない。」

申命記23章1-14節

 

近年研究が進む中で、さまざまな「凸凹(でこぼこ)」が見えてきています。傷がいというよりも特性ですね。じゃあその人達は問題なのか?いえ、神様に愛されている。その人にはその人の人には気づかれにくい良さがあることをここ最近色んな人を見ながら、思わされます。神様がその人の内に御心を働かせてくださるから。神様が愛するがゆえに、導いてくださる、それは変わらない。だからこそ私たちは自分はどうか、を超えて、へりくだり、神様の御前に進み出させていただこうではありませんか。神様はいつでもあなたを招き待っておられるから。

 

さて、受難週が過ぎたので、元の申命記に戻りますが、↑は約束の地を目の前にモーセが死ぬ、その前に最後に神様はモーセに、第2世代にも神様が命じられたことをことごとく語るように命じられ、今2番目の説教に5章から入っています。↑では色々な問題を抱えている状態に対して神様の御思いが語られています。

 

神様に導かれモーセは、「こうがんのつぶれた者、陰茎を切り取られた者は、主の集会に加わってはならない。不倫の子は主の集会に加わってはならない。その十代目の子孫さえ、主の集会に加わることはできない。アモン人とモアブ人は主の集会に加わってはならない。その十代目の子孫さえ、決して、主の集会に、入ることはできない。これは、あなたがたがエジプトから出て来た道中で、彼らがパンと水とをもってあなたがたを迎えず、あなたをのろうために、アラム・ナハライムのペトルからベオルの子バラムを雇ったからである。しかし、あなたの神、主はバラムに耳を貸そうとはせず、かえってあなたの神、主は、あなたのために、のろいを祝福に変えられた。あなたの神、主は、あなたを愛しておられるからである」と続けて語ります。

 

これは差別なのか?身体的なものや心のことや、色々な悩みを抱えている人たちを私も知っていますが、神様は彼らを用いてくださっていますし、見捨てず愛して下さり、悦びに満たしてくださる。あるときには癒やしを与えてくださることもあります。このように語られているからと言ってじゃあ神様は見捨てているか、と言われたらそうではないのです。

 

この話は2つの見方をする必要があります。事さらに、あえて、どこか異教の国、カルト的文化の中でそれをした人の場合と、そうではない場合。というのも聖書の中でも、色んな人が出てきます。目の見えない人、耳が聞こえない人、12弟子の一人、ペテロはADHDだったのではないだろうか、とも言われています。じゃあ彼らは神様から見放されていたか、と言われたらそうではなく、むしろイエス様は彼らを癒やされ、また見捨てず、ペテロに至っては12弟子というイエス様のお働きの中心部にすえられているのです。

 

また、バビロン捕囚にあった先で、宦官として用いられたイスラエル人ダニエルもいます。宦官はまさに「こうがん〜」のケースなのです。あるじに仕えるため。だ、彼は神様に用いられ、イスラエルの民が捕囚先でくじかれることがないよう、神様が異国の地の中心においてくださり用いてくださったのです。

 

また不倫の子、とありますが、不倫を肯定するつもりはありませんが、その子供まで否定される、というのは少し残念な話です。たとえば、ダビデは多くの妻をすでに持っていたのに、ある時部下の奥さん、バテシェバに目を奪われ、不倫、妊娠、これを隠蔽するために夫ウリヤを戦地の最前線に取り残させ、死なせるよう仕向けたのです。その間に生まれた子は亡くなりましたが、その後じゃあバテシェバはどうだったのか?奥さんとして迎え入れられ、その子ソロモンはダビデ王の王位を継ぐことになり、神様から彼の心が離れるまでは国を正しく治めていきました。神様はむしろ受け入れてくださったのです。

 

またアモン人とモアブ人について言及されていますが、10代経っても受け入れてはならない、と言っていますが、実際はルツというモアブの女性が、イスラエルから飢饉のために避難してきた家族と出会い、神様を知り、神様を求め、姑ナオミと一緒にイスラエルに帰り、加わりました。そしてその子孫からダビデ王は誕生します。

 

神様はベオルの子バラムについての言及でも述べられていますが、「呪いを祝福に変えてくださる」のです。民数記で見ましたね。呪うために雇われたのに、呪うどころか、かえってイスラエルの民の知らないところで起こっているこの事件から神様は守り、祝福に変えてくださったのです。彼らを、私たちを神様は愛してくださっているからです。

 

だからこそ、「こうがん〜」のくだりでみてきたことが、むしろ本来主の集会に加わることができないはずの人を神様は招いて、立ち返ることを何より願っておられるのではないでしょうか。それは先程ペテロなどのケースを挙げましたが、そうした人たちをも神様は用いてくださった、凸凹のある人達を癒やされたり、当時の医療技術では無理、という人を癒やされ、救いに招こうとされたわけです。そのためにイエス様は来られたのですから。いや、もっと言うなら彼らをも見捨てず、死刑囚さえ見捨てず、あの十字架で私たちの罪も痛みも全部背負われ死なれ、3日目によみがえられたことによって完全にそれらに勝利させてくださった。そして、このイエス様の命がけの十字架からの招きに応答するすべての人の罪を赦し、新しくしてくださるのです。神様が、神様の方法を持って。聖霊様で満たし、昨日分かち合わせていただいたように、平安で満たしてくださり。

 

↑の一番最後で神様はモーセを通して「あなたの神、主が、あなたを救い出し、敵をあなたに渡すために、あなたの陣営の中を歩まれるからである。あなたの陣営はきよい。主が、あなたの中で、醜いものを見て、あなたから離れ去ることのないようにしなければならない」と約束されています。神様の願いはあなたが離れていくことではなく、突き放すのでもなく、ただ神様の恵みのもとに招いてくださっている、あなたが滅びることを望まず、生きることを。そのためにまで御子イエス様のいのちを惜しまず私達に与えてくださったのです。神様はあなたから離れず、あなたのうちを歩まれ、守り導いてくださります。私達は不完全でも、私たちの弱さのうちに神様が完全に働いてくださり強くしてくださるのです。聖めてくださる、変えられるのです。神様の子としての特権を受け。

 

私たちはたしかに様々なことがあるかもしれません。しかしあなたのうちに住まわれ、とも2鮎希導かれる神様に、私たちは今日信頼し、委ね、歩もうではありませんか。今語られている世代とともに進まれた神様が、乳と蜜の流れる地に導かれていったように、あなたにも恵みのうちへと導かれるから。