ー世界一の最後の晩餐ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取って食べなさい。これはわたしのからだです。』また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。『みな、この杯から飲みなさい。これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。ただ、言っておきます。わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。』そして、賛美の歌を歌ってから、みなオリーブ山へ出かけて行った。」

マタイによる福音書26章26−30節

 

最後の晩餐、これは絵画や一般的にも「最後に食べたいものはなんですか?」という質問のような形で使われますが、みなさんだったら何を食べたいですか?豪勢な食事ですか?これまで食べたことのない食事ですか?イエス様はこの最後の晩餐の時、他では提供できない最高の食事を提供されました。イエス様しか与えることのできないイエス様そのものを。ここにいのちがある。ここにすべてがある。イエス様はこの食卓にあなたを招かれています。あなたはこの食卓で何をいただくだろうか。

 

さて、今週は受難週なので、いつもの分かち合いから離れて、イエス様の十字架前日〜十字架の日〜復活の日を見ていきたいと思うのですが、イエス様は十字架にかかられる前夜、弟子たちと最後の食事の時、晩餐の時を持ちました。国家晩餐会なるものがありますが、そこでは相当豪勢なものが出されますが、頑張ればどこかで食べられるようなものかもしれません。しかしイエス様は意外なものを提供されたのです。

 

それは、パンとぶどう酒でした。もちろん「彼らが食事をしているとき」、とあるくらいですから、普通の食事も出たでしょう。しかし、この最後の晩餐のメインディッシュはそれではないのです。パンとぶどう酒、もっと言うならイエス様の愛そのものです。

 

この食卓にはイスカリオテのユダというこれからイエス様を裏切るものがいます。正確にはイエス様は最後まで彼を愛しぬかれ、悔い改めに導くために彼も招いたのかもしれませんが。イエス様は「パンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取って食べなさい。これはわたしのからだです。』また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。『みな、この杯から飲みなさい。これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。ただ、言っておきます。わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。』」とあるように、メインディッシュを祝福し、弟子たちに与えたのです。

 

食事はいつでも弟子たちはしようと思えばできます。中には漁師のプロもいましたし、会計のプロもいましたから、食っていけなくなる、だからここで腹を満たす、そういうことではなく、イエス様は彼らを祝福したいのです。というよりも、これから十字架上でその身を割かれる、そのことでしか受けることができない神様の赦し、癒し、何より永遠の命を与えたいのです。これから裏切るとわかっている弟子たちを前にして、怒りに震えるわけでもなく。

 

イエス様が十字架で死ななければ私たちの本当の命はない。イエス様が十字架上で神の御子であられるのに、十字架上でその身を割かれ、血を流され、死ななければ、私たちも罪故に死という報酬を受けることになります。しかし、イエス様の望みはイエス様にあって永遠の命という最高の祝福、神様の子として迎え入れ、その特権、恵みに生きること。↑の最後に賛美をしながらオリーブ山に向かっていったとあるように、彼らを本当の命によって、イエス様の命をもって喜びに溢れさせたいのです。

 

これからイエス様は最も苦しい盃を味わうことになります。十字架、いや神様から引き離されるという。それでも、あなたに世界一、イエス様しか与えることのできない食事を今日、あなたにも差し出されています。あなたを本当の意味で祝福したい、と。あなたはこの愛を受け取りますか?そしてその後どうしますか?イエス様は命をあなたに分け、祝福する準備は万端。あなたは?