「あなたが敵との戦いに出て、あなたの神、主が、その敵をあなたの手に渡し、あなたがそれを捕虜として捕らえて行くとき、その捕虜の中に、姿の美しい女性を見、その女を恋い慕い、妻にめとろうとするなら、その女をあなたの家に連れて行きなさい。女は髪をそり、爪を切り、捕虜の着物を脱ぎ、あなたの家にいて、自分の父と母のため、一か月の間、泣き悲しまなければならない。その後、あなたは彼女のところに入り、彼女の夫となることができる。彼女はあなたの妻となる。もしあなたが彼女を好まなくなったなら、彼女を自由の身にしなさい。決して金で売ってはならない。あなたは、すでに彼女を意のままにしたのであるから、彼女を奴隷として扱ってはならない。ある人がふたりの妻を持ち、ひとりは愛され、ひとりはきらわれており、愛されている者も、きらわれている者も、その人に男の子を産み、長子はきらわれている妻の子である場合、その人が自分の息子たちに財産を譲る日に、長子である、そのきらわれている者の子をさしおいて、愛されている者の子を長子として扱うことはできない。きらわれている妻の子を長子として認め、自分の全財産の中から、二倍の分け前を彼に与えなければならない。彼は、その人の力の初めであるから、長子の権利は、彼のものである。かたくなで、逆らう子がおり、父の言うことも、母の言うことも聞かず、父母に懲らしめられても、父母に従わないときは、その父と母は、彼を捕らえ、町の門にいる町の長老たちのところへその子を連れて行き、町の長老たちに、『私たちのこの息子は、かたくなで、逆らいます。私たちの言うことを聞きません。放蕩して、大酒飲みです』と言いなさい。町の人はみな、彼を石で打ちなさい。彼は死ななければならない。あなたがたのうちから悪を除き去りなさい。イスラエルがみな、聞いて恐れるために。もし、人が死刑に当たる罪を犯して殺され、あなたがこれを木につるすときは、その死体を次の日まで木に残しておいてはならない。その日のうちに必ず埋葬しなければならない。木につるされた者は、神にのろわれた者だからである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地を汚してはならない。」
申命記21章10-23節
私の先輩が、奥さんとなる女性と出会った時、「僕の前にもついに天使が舞い降りたよ」と感動しながら仰っていたのをよく覚えています。ある意味では、それほどに夫婦の出会いというのは神秘的。それはそうです。神様が連れてきてくださったのだから。逆もしかりですよ?結婚式でよく誓いをしますが、私達は「神様が」出会わせてくださった夫婦、それだけではなく人間関係を大切にしよう。というよりも、やがて私達を花嫁として迎え入れてくださる、それほどに私達を愛してくださるイエス様がいつも中心にいて下さり、すべての関係を導いてくださるよういつも祈り求めようではありませんか。
さて、↑は約束の地を目の前にモーセが死ぬ、その前に最後に神様はモーセに、第2世代にも神様が命じられたことをことごとく語るように命じられ、今2番目の説教に5章から入っています。↑はタイトルには似つかわしくないように聞こえる話になっていますが、夫婦・家族の話になります。
まず、神様に導かれ、モーセは「あなたが敵との戦いに出て、あなたの神、主が、その敵をあなたの手に渡し、あなたがそれを捕虜として捕らえて行くとき、その捕虜の中に、姿の美しい女性を見、その女を恋い慕い、妻にめとろうとするなら、その女をあなたの家に連れて行きなさい。女は髪をそり、爪を切り、捕虜の着物を脱ぎ、あなたの家にいて、自分の父と母のため、一か月の間、泣き悲しまなければならない。その後、あなたは彼女のところに入り、彼女の夫となることができる。彼女はあなたの妻となる。もしあなたが彼女を好まなくなったなら、彼女を自由の身にしなさい。決して金で売ってはならない。あなたは、すでに彼女を意のままにしたのであるから、彼女を奴隷として扱ってはならない」と夫婦・家族について語り始めます。
「捕虜」、というともう夫婦だの家族だのという言葉には似つかわしくないかもしれませんが、まず、第一にはこれは、戦争の時に起こるであろう、男たちの無節制な欲望によって、女の人たちが屈辱を受けないように、という神様の配慮があります。これが、地域にもよりますがまかり通ってしまっている悲しさを覚えますが、逆にそれほどに神様は危惧されている。そして同時に男性がそのような罪に陥らないように。
というのも、奥さんがたくさんいるケースは正直、ろくなことがありません。神様はもともと一人の男性と一人の女性が出会い、一つとなる、一夫一婦を定めていましたが、これを破った聖書の中の人たちは大変な苦労をします。必ずどちらかをより愛して、どちらかをよりないがしろにするという問題が起こってしまうからです。
イスラエルの父祖といえるアブラハムは子供が与えられず、これは奥さんの提案ではあったのですが、奴隷を妻としてアブラハムに与え、二人の間に子供を設け、その子を迎えよう、という話になったのですが、その奴隷が妊娠すると、アブラハムの奥さん、サラはその助成をいじめるようになり、追い出す、なんてこともあった。しかも後にアブラハムともともとの奥さんサラの間に生まれたイサクを、奴隷との間に8歳差で生まれているイシュマエルがいじめていると勘違いした、また彼に遺産がもっていかれることを危惧したサラは今度は追い出すことになります。↑で子供が、本当なら長子として二倍の分け前をもらわなければいけないのに、もらうことができなくなり、子供の権利がないがしろにされる結果となったのです。
他にもそのアブラハムの息子イサク、彼も生まれてくる双子に対して偏愛があったために、双子同士での争いが起こったり、その一人ヤコブも、神様の時を待たず、二人の妻を持ったゆえに、双頭の苦労をすることになります。また、古代イスラエル王国2代目の王、ダビデも多妻、奪われた妻を取り返すくらい愛していた女性がいたにもかかわらず多くの妻を持ち、その間で生まれた子が妹を辱め、兄弟間で大きなトラブルを招きます。
そもそも彼らの間違いは、中心に神様がいなかった、ということ。夫婦にしても家族にしても、神様がたてあげてくださる。神様が出会わせてくださるゆえに、そこからたてあげられていく家族もまた神様が命あるものにしてくださるのです。仕事とか、その他人間関係でも同じですよ。私達は不完全、だから神様がベストの人、環境を整えてくださるのです。だからその中心、柱たる神様がいなければ崩れます。
「その捕虜の中に、姿の美しい女性を見、その女を恋い慕い、妻にめとろうとするなら」とありますが、それほどに素敵な出会いを神様は夫婦においても、何かにおいても与えてくださるのです。実はこの先目指すエリコの地で、偵察隊を助けたラハブという遊女がいますが、彼女と偵察に行ったサルモンという人は結婚することになります、そしてその子孫からダビデ王が出てきます。神様が出会わせてくださった関係は驚くべきことを「神様が」なしてくださるのです。気に入らない、と人だけではなく状況や環境を嘆いていれば、自分が迷走するだけです。神様はむしろ迷走させるのではなく、豊かな関係、環境、ご計画をたてあげ命が溢れ流れるのです。
↑で「かたくなで、逆らう子がおり、父の言うことも、母の言うことも聞かず、父母に懲らしめられても、父母に従わないときは…」と語られていますね。死刑にも直結していく。そうではなく、神様に私達が委ねる時、それらは変えられていく、死ではなく命が溢れ流れるのです。私の兄も、そうとう悪をしていましたが、母の祈りによって変えられていきました。誰しもがありえない、と思う中で、神様が変えていってくださった、そしてその兄は父の介護に積極的に関わってくれるようにまでなり、ついにはイエス様の救いを受け入れ、変えられ、新しく生まれ変わらせていただいたのです。
私達は神様をお飾りにしたり、とっかえひっかえにしてはいけません。神様が、たった一人の神様があなたと出会い、離れていってしまったあなたを、捕虜ではなく家族として迎え入れるため、私たちの罪を御子イエス様に身代わりに背負わせ、十字架にかけ、罰し、死なせたのです。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、罰で終わるのではなく、イエス様の十字架の前に悔い改め立ち返るすべての人の罪が湯るされ、神様の家族として迎え入れられ、やがてはイエス様の花嫁として迎え入れられる、そんな素晴らしい特権に与らせていただけるのです。
これほどまでに愛されたイエス様のいのちにあって新しくされたあなた、ならどうして信頼せずにいられましょう。むしろ花嫁としてこんな私達をやがて迎えてくださるイエス様が新しく与えてくださったこの命、大いに期待しましょう。あなたのまことの主・主人たるイエス様に今日、いやいつも御心がなることを祈り委ね、イエスさまのたてあげて下さる命を喜び歩もうではありませんか。神様は奴隷としてではなく、愛することして、あなたを迎え入れてくださったのだから。